二日目(2)

 ペイヌートの森の戦いは、魔法力の差が決定的となりました。ものの本によれば、偵察のために低い位置を飛んでいたアスタボス軍の魔物に向かって、敵陣営から数発の攻撃魔法が飛んできたのだけれど、それが空中で雲散霧消したのを見て、この国の魔法技術は低いと看破されたのが決定的だったと言われています。彼我の実力差を確信したアスタボス軍は敵陣に総攻撃を行い、ペキシ軍は大敗北を喫するという筋書です。確かに、このころの魔王軍であれば、一般兵であろうとも、余裕で上空の魔物を撃墜できたでしょう。しかし、もちろんこの逸話はフィクションです。大雨の中で技術の低い魔法の軌道が見えるわけがないのです。

 実際は、戦う前から魔法技術の差は明らかでした。もちろん、センタセの魔法技術の方が優れていたのです。そんなことは戦う前に調べ上げています。調べたうえで戦争を行っているのですから。ただし、事前調査が絶対に正しいとも言い切れませんので、つまり、何か見落としているのではないかという疑念は必ず残りますので、行軍は慎重に行うのです。

 私は軍に丘と森を進軍するよう命じました。人間兵は、泥濘にヒルや毒虫が這いまわる中を行軍していたため、酷く疲弊していました。魔王軍は敵の伏兵に奇襲されますが、被害は軽微でした。敵の攻撃魔法は、大雨により通常よりも損失率(大気中を進む魔法が、大気中の魔素等と接することでその威力が落ちる割合のこと)が高く、威力のない状態で飛んできました。奇襲により、盾になった人間兵が数名負傷しました。魔王軍は、損害を抑えるため、人間兵を後方に下げました。魔族兵は先陣に立ち、魔素の薄い中、大軍で行軍しました。足元の悪い中、森の中や丘を登っての騎兵突撃はあるはずもなく、矢は鍛錬した魔族に効果的ではありませんでした。私たちは、雨の方が鬱陶しいと思ったくらいでした。やがて、中央の森の中で再び伏兵と接敵しましたが、「巨人の腕が群狼を叩く」(鎧袖一触)のことわざのとおり、魔王軍はこれを容易に退けました。伏兵の奇襲では、一凶の魔族ですら死ぬことはありませんでした。落石があり、これによる死者は出ました。また、後方を移動中の兵站部門が奇襲され、ここでも少数の死者が出ました。丘の上では、こちらを試すような敵の動きがありましたが、やがて敵兵は撤退しました。ペキシ・マギ城での籠城戦が始まりました。結論から言うと、この籠城戦は、ええと、なんて言いましたっけ、「ストイジェニコの岩」などにより、早期に決着がつきました。夜の間に、空中から数名の魔族を侵入させて、奇襲を行うこともしました。こちらの方が効果的でした。その後の別の戦争でも繰り返し行われています。相手側の戦意は大きく喪失し、敵側は早々に降伏しました。ペキシ軍の戦死者数は、千五百人程度であったと言われています。


 ペイヌートの森の戦いで、魔王軍は自身の侵攻に手ごたえを感じました。魔王軍の被害は軽微であり、どの歴史書も、この戦いのことを魔王軍の圧勝だったと評価しています。実際、魔王軍は戦場で戦えば敵なしだったのです。しつこく言いますが、魔王軍を戦場で止めたのは、人間ではマーメただ一人です。ゲクーやピゴやエンオーではありません。ミュカトーニャの連合軍ですらないのです。マーメの一発の魔法が魔王軍の進軍を消し飛ばしたのです。

 ペイヌートの森の戦いの後、魔王軍は、ペキシ軍の上層部の大半を処刑しました。当時としてはよくあることです。代わりに、家臣は丁重に扱います。特に有能な家臣はそうです。フバーユの諸邦では、下級貴族の間に主流派への不満が溜まっていることがわかっていましたので、戦後は彼らを重用しました。諸邦間でバラバラだったルールを統一し、混迷を極めていた貨幣制度や度量衡をセンタセのものに統一しました。雑草よりも蔓延り、泥濘のように物流を滞らせていた関所の多くを撤去し、流通の促進を図りました。フバーユでも官僚主義を徹底し、元下級貴族の中で目ぼしいものを主要な役職に就かせました。フバーユもセンタセも、多数派は敬教徒で、サウホン人でした。言葉はハウガディ語が主に使われていましたが、タイベン語でもビヒンシタ語でも読み書きができるものは多くいました。特に商人や貴族はそうでした。彼らに重人主義に基づく政治を受け入れさせることは、十分に可能でした。ここまではいいのです。問題は、フバーユの人々に、魔族への免疫がなかったことがよくなかったのです。センタセを一歩出た途端、魔族が人を支配することの難しさに直面したわけです。


 あと、フバーユでは、敬教のほかに空の宗教が広く信仰されており、宗教的な魔族嫌悪が激しかったことにも触れておきます。空の宗教は、今ではほとんど信仰されていないと言われています。昨年のデータですと、全世界に信者は三万人程度と言われています。その九十九.九パーセントが今もフバーユで信仰とともに生きているようです。この宗教の特徴は、大地の嫌悪、そしてそれゆえの魔族の嫌悪、魔素の嫌悪、空の崇拝です。当時は八代目教祖のフェテイコ・ボッホ・フェワミーが信者を率いていました。狂信的と評価されている人ですが、生まれた時代が悪かったのです。自分たちの住む島に嫌悪する魔族が群れをなして上陸し、あっという間に支配してしまったのですから。

 空の宗教についてもう少し話しますと、彼らはまず地面近くに生える野菜は口にしません。海藻も食べません。自分より高いところに生える果実は好んで食べます。地を這う動物は嫌悪します。ミミズや蛇のことです。豚や牛も食べません。魚は好んで食べます。鳥は神聖なので食べません。鶏はどうだったか忘れました(蛇蝎のごとく嫌悪する。)。虫は蝶々や蛾は問題ないようですが、地を這う虫はやはり嫌っています。雨は天からの恵みであるので、彼らにとっては重要です。「土に与えない」という言い方をして、瓶や袋に雨水を詰め込みます。彼らは、レンガや土でできた家には住みません。野宿などもってのほかです。ツリーハウスを好みます。木造の家にも多く住んでいました。大地に根を下ろした木は否定しないのです。また、彼らは裸足では土を踏みません。彼らは外出時、必ず高い歯のついた靴を履きますし、それが空の宗教徒の印となります。地面で転んだ場合は、そういうときのために覚えていた呪文を唱えつつ、服や手についた土を利き腕とは反対の方の手で払います。教祖ともなれば神輿に乗って移動します。教祖は空が飛べるとされていますが、もちろんそんなことはありません。ちなみに彼らが嫌う魔族の中には、空を飛べるものがいくらでもいます。後世には、空中を浮遊し飛空する魔法が発明されたため、理論上は、どんな魔族も空を飛べるようになります。彼らの宗教としての求心力は、ここで絶えたと言われています。テッドマ・エイピモスという人は宗教学者ですが、彼の『空の宗教徒、近代を行く』という本に詳しく書かれています。魔法技術及び自然科学が進歩したにもかかわらず、空の宗教はその教義を頑なに変えようとしなかったため、あるいは変えようとしたものを弾圧したため、説得力というか、求心力がなくなったのだと説明されています。自然科学については、水循環の影響について言及されています。彼らは今では、水循環のことを聖なる水の陟降と呼んでいます。何とも詩的ではありませんか。魔法技術の進歩については、先ほど話した空中浮遊の魔法について言及されています。そもそも、空を飛ぶ魔族は昔からいたのですけどね。フバーユにいなかっただけで。ちなみに、後世には、この空の魔法を信仰する魔族すら出てきます。彼らは空が飛べますので、土を嫌悪し、野菜を食べる必要もなく、人間よりも大地から距離をとることができました。大地に根を下ろす樹木すら否定することができました。生まれ変わりさえ諦めれば、土から遠いのは人よりも魔族なのです。まぁ、そうだとしても、さすがに、魔族が教祖になることはありませんでしたが。

 それにしても、どんな気持ちで人間の空の宗教徒は、空を翔ける魔族を見上げていたのでしょうね。空の宗教は、今では、フバーユの高地地方で、鳥葬を行う人々として有名かもしれません。その場所は、かつてはハミウトンが住んでいた場所だったりします。あと、ちなみに、この宗教は、私のことを今でも敵として教義で定めています。知ったこっちゃありませんが。

 フェワミーは、それにフェワミーの死後は九代目の教祖は、センタセが占領したフバーユ島で、放火などの施設破壊、軍関係者の暗殺等の活動を行います。今でいうと、占領下のゲリラ活動、レジスタンスが行われたのです。言わなくてもわかると思いますが、空の宗教は、センタセの大地信仰とは真っ向から対立します。同化とか宥和とかを口にする時代でもありませんでしたので、魔王軍としては弾圧するという方法をとります。底の高い靴を履くことを禁止し、鳥葬を禁止しました。そもそもフバーユの気候は鳥葬に適してはいないのです。禁を破ったものは捕まえて、罰を与えました。信者が潜伏する偽装商船を拿捕したこともあります。彼らが心のよりどころとしていた巨大なツリーハウスを焼いて灰にしたこともあります。それでも結局、教祖は捕まらず、小規模な破壊活動は続きました。信者以外のフバーユの民衆も、魔族のことはうっすらと忌避していました。当時は空の宗教にも、シンパが薄く広くいたのです。フバーユの敬教徒の中には、空の宗教を信仰していなくても、転んだときに呪文を唱えて土を払うものもいたということです。鳥葬によって葬られた者も、今の私たちが思うよりはずっと多くいたのです。


 センタセの支配下にあったフバーユでは、公租公課は以前よりもずっと低かったですし、商売はずっとやりやすかったはずなのですが、繰り返しますが、端的に、フバーユの人々は、魔族が人間を支配するということが理解できなかったのです。そもそも、一部の地域を除いて、都市内魔族に慣れていなかったのだと思います。統治という観点から見れば、フバーユは、最後まで完全にはセンタセの一部にはなりませんでした。表面的にはセンタセのやり方に従いつつも、陰では頑強な抵抗が続いていました。都市内魔族も、フバーユの社会には完全には定着しませんでした。ドソグモワ・ドソグモワ・ファナッペ先生の『センタセのフバーユ統治』は、魔王軍を悪く描きすぎるきらいもありますが、良書としてお勧めしないわけにはいきません。私は、ついさっきまで、空の宗教が悪いからフバーユの統治は失敗に終わったと、そう聞こえることを言っていましたが、実際は文化や宗教が全然違うから失敗した、経済政策とエリート教育だけで御すことができると慢心したから失敗したと説明されています。汗顔の至りです(ここは、直訳すると「汗で目が開けません」となる。ちなみに、魔族は汗をかかない。)。

 

 フバーユでの戦いについての説明が終わっていないのに、フバーユの統治に失敗したという話を先にしてしまいました。話を戻しましょう。

 ペイヌートの森の戦いの後、諸邦との戦闘は散発的に行われました。魔王軍に大きな被害はありませんでした。魔王軍は次々に都市を併吞しました。作物が多く実るような肥沃な土地を手に入れると、吟遊詩人たちは大地信仰ならではの歌を幾つも歌いました。兵士たちも素朴に重人主義による繁栄を夢見て奮起するのでした。

 やがて、魔王の軍勢は、フバーユ島の中央に位置するオズノスス湖に到達しました。そこでは、昔から三凶の魔物が争っていました。島全体を統治するつもりの魔王軍としては、この争いを平定する必要がありました。オズノスス湖の三つ巴の話をしましょう。

 魔族は動物ではありませんので、野生であっても縄張りというのを持ちません。ただし、例外的に、狂気に陥った場合は、自分の居場所に異常にこだわり、自分の領域に侵入してきたものに対して、執拗な攻撃を行う魔物がいます。オズノスス湖の巨大蟹は、まさにこの、縄張りを主張する魔物でした。この蟹は巨大でしたので、縄張りも広く、湖の外周のすべてを自分のものだと認識しているようでした。これでは航行も漁業も養殖もできません。湖の近くには農業に適した平地も広がっていましたが、蟹の襲撃を恐れて、周辺の村々は、ひっそりと近くの山に段々畑を作り、こっそりと湖で漁をして生活をしていたのです。

 そんな村の一つに、ソダーバイトという名の村がありました。この村の近くには、巨大蟹と比べて一回り小さい大きさの一つ目巨人が暮らしていました。これが三凶の魔物のうちの一凶です。一つ目巨人というとき、現代の人は、顔の中央に大きな目が一つあるのをイメージするのですが、この巨人は、左目が閉じて開かなかったので、一つ目と呼ばれていました。この魔物は、魔法も言葉も知らず、村の中で暮らしていたわけでもないので、都市内魔族とは言えません。しかし、蟹の襲撃から村を守り、かつては村の火事を身を挺して消し止めたこともあったため、村人は、村の一員としてこの巨人をワワンと呼び、決して無碍にはせず、親しくしていました。村の祭りの際は、村人は、ワワンにも酒や食べ物を振舞っていました。巨人は、遠くから祭りの音楽に耳をすまし、ときには歌も歌ったと言います。村人は、蟹と戦うワワンのために魔法使いを村に呼び、回復魔法等を習得してもいました。また、ワワンは金属製の小手を身に着けていました。蟹に立ち向かうワワンに、村人が与えたものと言われています。この巨人の歌は、今でもフバーユで親しまれています。


一つ目巨人よ 村のはずれに

尻の跡をつけて どちらにいった

一つ目巨人よ 柵を挟んで

篝火の前で 歌おうじゃないか


蟹追い返して 竜蹴散らして

お前の稼ぎは 大したものだ

やがてはお前の胴脛腿肩に

武具を備えて やりたいものだ


 本当はもっと長い歌なのですが、忘れてしまいました。小説家のヘンミ・トナ・ウズオックは、この歌に着想を得て、魔王軍が侵攻しなかった、フィクションの、オズノスス湖の物語を書いています。そこでは、ソダーバイト村の人々は、色々な困難を乗り越えて、少しずつではありますがワワンの武具を備えます。ワワンもそれに応え、何度も蟹に挑みます。そして完全に武装した状態で蟹と戦い、最後にはついにこれを退治するのです(『巨人の武具』)。映画にもなって、好評だったと聞いています。彼女は、人魔決別において、魔族をこの星から消すことに最後まで反対していた知識人の一人です。フバーユの魔族差別と戦った人でもあります。彼女の尽力で、ワワンの小手は、オズノスス湖の歴史史料館に、今もレプリカが展示されていますね。

 オズノスス湖の三つ巴の最後の一凶は、竜のハミウトンです。湖を臨むヘンピーグ山頂に暮らしていました。敬教徒から信奉されていた時期があったらしく、古い言葉使いで話すことができました。私が最初に会ったときには、古くて朽ちかけていた祭壇もありました。ハミウトンは、ほかの二凶とは異なり、湖に近接しては暮らしていませんでしたが、目の前で蟹が暴れているのを見るのは不愉快だったそうで、よく争っていたそうです。蟹と竜が争うと、村を守りたいワワンがやってきて、三つ巴となるのです。

 ハミウトンは自分で回復魔法を使うことができましたし、ワワンも村人から回復等の補助を得ていました。蟹は生まれ変わりの魔法以外は使えませんでした。それでも、この三つ巴は、互角の勝負を延々と繰り返していたのです。つまり、魔法のアドバンテージがないにもかかわらず、蟹は強かったのです。まず、殻が固いのです。人間の作った武器など利きません。魔法も非常に通りが悪いのです。しかも巨大な体で暴れます。そのハサミは振り下ろすだけで浜辺を割りました。それで掴めば林を麦のように刈り取りました。しかも、蟹は、湖の底に潜ることを厭わなかったので、危なくなると水底に逃げ込むことができたのです。魔物は水が苦手だとは前に話したと思いますが、この魔物は、平気で湖の中に逃げ込み、平気で水中でも戦おうとしたのです。狂気にやられた魔族というのは、魔族にとっても恐ろしいのです。

 魔王軍は、オズノスス湖の周辺に住む住民から、三つ巴の話を聞き、対策が必要だと考えました。ソダーバイト村のワワンは放置されました。温かく見守ったとも言えます。ハミウトンは、話が通じる相手だったため、センタセとして使者を派遣しました。当初は人への不可侵や蟹退治への協力を求めるだけのつもりでしたが、魔族の王というものに関心を示したため、色々あって魔王軍の一員となりました。一方、蟹は、明らかに話し合いができる相手ではありませんでした。先遣隊は浜辺で惨殺されました。魔王軍は、蟹退治を行うこととなりました。縄張りを犯せば向こうからやって来るため、駆除は簡単のように思えましたが、先ほども言いましたとおり、殻が魔法をほとんど受け付けないことがわかりました。殻と言えども魔素ですので、魔法を受け付けないというのは不思議かもしれませんが、事実なのです。種を明かすと、単に魔法の威力が足りていなかったのです。蟹退治にはほかにも困難な要素がありました。蟹は危なくなると水底に逃げます。こうなると「顔だけの魔王に何ができる」というやつです(慣用表現。手も足も出ないの意。)。

 それでは、どのようにして蟹退治を行ったかと言いますと、ここでアテドーをセンタセ大陸から呼んだのです。私は、スライムの王に巨大蟹の退治方法を考えるよう指示しました。アテドーは三日で十一の案を作成しました。魔王軍は、そのうちの幾つかを試した後、最終的に、一つの案を採用しました。その案とは、次のようなものです。まず、浜辺に魔法陣を描きます。その魔法陣には、中に入った魔物の動きを止める力があります。蟹を魔法陣におびき寄せます。魔法を発動して、魔法陣に入った蟹の動きを止めます。止めたところで、巨大な弩で射殺します。殻に傷が入れば、そこから魔法も利くでしょう。結論から言いますと、この作戦は成功します。そして、作戦が成功したことそのものより、この作戦が、魔族と人との協同によって立案され、実行されたことを私は話したいのです

 魔王軍はアテドーを交えて実地で蟹を調査しました。色々なことがわかりました。魔王軍の魔法では殻を貫けないこと。蟹なので目は飛び出ているのですが、それも殻のようであること。そもそも全身、魔法の抵抗力が高いこと。当時の魔法の中には、眠らせたり、動きをゆっくりにしたりするものもあったのですが、これらは効果が薄い、又は効果が無いこと。そして、アテドーが得意としていた、魔法で作った粘性で動きを封じる魔法であれば、効果があること。なぜその魔法だけが有効だったかと言いますと、単にアテドーが使うこの魔法の技術水準が高かったからです。この魔法は、魔素に粘性を持たせ、相手の体にまとわりつかせたうえで膠のように固化させる、というやり方で動きを封じます。スライムらしい魔法だとは思いませんか。魔法は、魔法陣を使った方が効果が高くなります。蟹を一方にひきつけている間に、別の浜辺に魔法陣を描くことから始めました。ちなみに、砂の上に棒で描いても魔法陣としては無効です。最近の小説やドラマでは、よく勘違いして地面に窪みを描いているものがありますが、効果はありません。せめて白線を引くなどして欲しいものです。このときは細かく割った魔石を用いました。ただ、線でなくドットで有効な魔法陣を描くのは難しいのです。それでもなんとかやり遂げました。時間をかければどうにでもなるのです。魔法の発動者は当然アテドーです。ここまでが魔法と魔族の話です。

 アテドーは、自分の魔法では蟹を倒せないことに気づいたので、人間に知恵を借りることを思いつきました。これはアテドーを知っているものからすると驚くべきことです。普段であれば、人間どころか、同族の魔物にすら頼ろうとしないのですから。そもそも相談するような間柄の人間がいたというのが驚きです。アテドーが服の裾を引っ張ったのは、ツェメエナ・キッ・ハウハンという女性でした。彼女は築城を専門とする設計技師で、築城のための機械なども作っていました。彼女は小さい、机の上に乗る程度の模型を作るのが得意で、クレーン、杭打機、エレベータ、水車、投石器などのミニチュアを作っては、周囲の仲間に見せていたのです。その中には弩の模型もあったのかもしれません。詳しいことは私も知りません。アテドーが弩のことを知っていてハウハンに声をかけたのか、それとも、ハウハンなら何とかしてくれると思って、とりあえず声をかけたのか、それはわかりません。ここでは、強大な魔物退治のミッションの達成のため、魔族の方から人間に声をかけた、人間を頼ったということが重要なのです。しかもあの、無口な、何を考えているのかわからないスライムの王がですよ。そういう繋がりがあり、計画が動き出したことが素晴らしいことなのです。

 アテドーからの相談を受けたハウハンは、既にアイディアがあったのかは知りませんが、速やかに巨大な弩の構想を提案します。問題は複数ありました。そもそも設計できるのか。これは、設計図があったため大丈夫でした。設計できたとして、作ることができるのか。強度は大丈夫なのか。材料は何を使うつもりなのか。これについては、とりあえず作ってみることで話が進みました。いいことだと思います。誰がそれを引きしぼるのか。そもそも引きしぼれるのか。当時は力学なんてものはありませんでした。事前の計算など、してみるという発想すらありませんでした。軍の中で一番の力持ちに引かせればいいだろうということになりました。考えても仕方がないというやつです。それで蟹を倒せるのか。設置する場所はあるのか。矢はどうするのか。ああもう面倒くさい、やってみればいいだろう、他の案よりいけそうじゃあないか。フォモボイ、ダサイザン(弾力性のある木。弓によく用いられた。)の木を探してこい、と、こういう感じで話が進んだのです(ちなみに、この時代にフォモボイはまだ生まれていない。)。

 七十日かけて巨大な弩を作りました。ネックは材料でした。模型で作ると壊れないのに、原寸大だと引張力に耐えきれずに壊れてしまうのです。設計を変え、ダサイザンの木と鍛造鉄を組み合わせた試作品第一号が完成しました。弦はハミウトンの髭を用いました。おとぎ話のようだと思いませんか。竜の髭の弓だなんて。第一号は、威力が足りないと判断されました。もう七十日かけて改良を進めました。矢を引きしぼるため、歯車を用いることにしました。これはハウハンが得意とする機構でしたが、フバーユでは精巧な歯車を作ることができませんでした。センタセ大陸に戻って、工房で鉄を精錬し、必要な部品を作成しました。ハウハンは、ハミウトンの背に乗ってフバーユからセンタセに向かい、帰路は海路でフバーユへ上陸しました。よほど竜の乗り心地が悪かったのでしょうね。ちなみに、このころのセンタセには、鉄鋼を作る技術は既にあったのですよ。ただ、現代ほどの品質は望むべくもありませんが。あと、弦の強度を増す魔法を開発しました。竜の髭はより合わされ、魔法をかけられて強化されました。矢じりには左手の大陸産の魔石を用いました。魔力をよく吸収するその石に、硬度を上げる魔法をガチガチにかけました。矢柄も別種の魔石を用いました。真っすぐに加工する技術は、フバーユの職人の技術を借りました。ついでに、カニクイドリのモチーフを矢柄に描いてもらいました。モチーフの横には、頼んだわけでもないのに、「不死の魔王と蟹とを選べというのなら、そりゃあ私は魔王様を選びますよ」という科白がハウガディ語で書かれていました(この科白は実際とは異なり、不正確である。講演中、アスタボス氏は頑なに巨大蟹のことを蟹と言い続けたが、この魔物にも名前がある。オズノスス湖周辺の村々は、この蟹のことをアスタボス――ハウガディ語の発音に合わせると、アシャタボース――と呼んでいたのである。アシャタボースは、フバーユに伝わる伝説の中の、不死の王の名前である。センタセのアスタボス伝説とフバーユのアシャタボース伝説とには、当然関係がある。現在の研究では、フバーユの不死王がセンタセの不死王に先行して伝承されていたことがわかっている。フバーユのアシャタボース伝説では、毛むくじゃらの人型の魔物として表象される(鹿の角に言及した記録はない。)。つまり、蟹とはまったく異なる外見をしている。巨大蟹は、硬い殻を持ち、まったく死にそうにないという不死性を持つことから、ただその一点だけの類似点でもって、アシャタボースと名付けられたと思われる。矢柄に書かれた文章を素直に訳すと、「不死と蟹のアスタボス。選べと言われれば不死を選ぶよ」となる。)。

 土台は石でした。砂地に据え付けるため、ダサイザンの木で杭を打って基礎を作りました。構造部分は鉄鋼と鍛造鉄。一部に強度を増した魔石を使いました。矢は一本。練習で使って駄目にした劣化版の矢は百本を越えました。劣化版でも、威力は一号機の倍はあったのです。練習の的になっていた魔石の岩盤は、何本もの練習の矢が深く突き刺さり、最後にはガラガラと崩れ落ちてしまいました。

 蟹の最後を語ることは簡単です。縄張りを荒らし、魔法陣に誘い込み、魔法で動きを止め、練習どおりに矢を放ち、矢が殻を貫いて終わりです。特に多くの言葉を費やす必要もないでしょう。答え合わせとは、たまに劇的だったり感動的だったりもしますが、淡々と進めるべきものです。人と魔族の勝利でした。蟹に苦しめられていたオズノスス湖周辺の村々は、フバーユ島では珍しく、魔王軍を歓迎しました。なお、歓迎されただけで、統治が他の地域と比べて上手くいったという事実はありません。歴史学は、ソダーバイト村も含めて、オズノスス湖周辺の町村では、センタセ統治前後で、都市内魔族の数が増えなかったこと、魔族にとって好ましい魔法の習得者数は増えなかったこと及び魔族の生態についても無知であり続けたことを明らかにしています(テアイス・ウォ・ギャミーコン『センタセ統治下におけるオズノスス湖周辺地域の魔法の受容等について』参照。)。ソダーバイト村に魔物の官吏を派遣したところ、石を投げられたという記録も残っています。その後に人の官吏を派遣すると受け入れられたといいます。実に奇妙なことではないかと思います。いや、いや、文句を言うのはやめましょう。ソダーバイト村は、人魔決別の際、魔族を庇う側に回り、迫害された魔族をかくまった、数少ない村なのですから。


 オズノスス湖で足止めをくらっている間に、左手の大陸の対岸に位置するフバーユの諸都市は対策を講じていました。この都市連合軍のリーダーは、マスカー・サージ・ユヌカといいます。港湾都市ユーヌオンの若き貴族であり、スカートの提督、反旗の淑女、魔王に敗れた勇者と称されています。ユヌカが講じた対策は、主に三つあります。一つは、左手の大陸から優秀な魔法使いを雇う。もう一つは、海上で戦う。一つは、過去のわだかまりを捨てて、団結して魔王軍と戦う。これです。

 一つずつ説明していきます。魔法は才能があれば四十日程度で覚えることができます。魔王軍が蟹と争っている間に、ユヌカ軍は、左手の大陸で優秀な魔法使いをスカウトし、フバーユ島に派遣し、魔王軍の魔法を解析し、解析を踏まえ、兵士に強力な魔法を習得させていました(アスタボス氏は、この講演中、魔法の習得方法について詳しく説明しなかった。現代人にとってこれは自明の話ではないため、ここで補足説明を行っておく。魔法を習得する方法は主に二つある。魔法陣と巻物である。魔法ごとに魔法陣や巻物がある。どちらにも魔法式という魔法言語で書かれた文字列が並んでおり(魔法陣は組むと表現する。)、この文字列に魔力を流すことで、特定の魔法が発動する。魔法陣は、陣の真ん中に座って魔力を垂れ流すことで、自動的に魔力が魔法式を流れる。巻物の場合は、書かれた魔法式を指でなぞることで魔力を流す。指を途中で離してはいけないため、魔法式は、巻物の右上から書き始め、右下まで辿り着くと、一行左横に移って、今度は下から上へと書き進む。上まで来ると、また一行左横に移り、上から下へと式が続く。これを繰り返す。魔法陣の方が動きが少ないが、多くの魔力を消費するため、魔力が少ないものには不向きである。巻物は、指を動かす面倒くささがあるが、魔力の消費は少ないため、初心者でも扱いやすい。魔法が発動すると、本人の魔力が尽きるまで魔法が勝手に発動し続ける。その間に、特定の行動を行い続けることで、魔法陣や巻物がない場所でも、その特定の行動を行うだけで、所定の魔法が発動するようになる。これを馴化という。例えば、炎の魔法が勝手に発動している最中に、声を出して「メフタン」と唱え続けると、魔法陣や巻物から離れた後に、「メフタン」と唱えれば、炎の魔法が発動する。ただし、馴化の達成度には個人差がある。例えば、「メフタン」と唱えることを繰り返した二人の人がおり、一方は「メフタン」と唱えれば魔法が発動するようになったのに対し、もう一方は、「座った状態」で「メフタン」と唱えなければ魔法が発動しない、という差異がしばしば発生する。後者を避けるためには、様々な条件下で反復行動を行う必要がある。立ったり座ったり、横になったり、明るかったり暗かったり、上を向いていたり下を向いていたり、悲しかったり怒っていたりして、「メフタン」と唱える必要がある。あまりに様々なパターンを試さないと馴化がなされない場合は、魔法の才能がないと言われる。ちなみに、以上からわかるとおり、魔法の発動条件には、色々なバリエーションがある。大抵は、特定の言葉を発することで魔法は発動する。これは、慣習的にそうしている地域が多かったというだけで、特段の合理性があるわけではなく、この方法が一番覚えやすいというわけでもない。)。

 二つ目の海戦ですが、ユヌカ軍は、フバーユ本島から離れた、アゾヤイ島に本陣を構えました。沿岸都市の防衛は放棄したということです。これは理にかなっていました。戦争ではなくて、レジスタンスとして魔王軍に抵抗するということです。そもそもアスタボス軍は、その重人主義と兵站の徹底から、占領下の人間を無碍に殺さないし略奪もしませんでした。フバーユ侵攻では、というただし書きは必要でしょうが。ユヌカ軍の作戦は、これを逆手に取ったものでした。抵抗軍の本体は、海の向こうで裏から手を回し、魔王軍が統治する後背地を攻撃することができます。都市は都市で、魔王軍の統治に背面服従し、抵抗軍と連絡を取り合うこともできます。本陣に対して魔王軍が攻めてきたときのことも想定済みだったでしょう。ユヌカ軍は、海の上で接敵するのも辞さないと考えて、海戦用の船も増産していました。

 三つ目の団結ですが、これは別段特筆すべきことはありません。人種も言葉も思想信条も同じな人々が、どうして狭いフバーユ島内で長年分裂し、離合集散を繰り返し、争っていたのかが、逆に不思議なくらいです。大きな脅威を前にして、それでも団結できないという方が珍しいかと思います。いや、まあ、できないこともあるかもしれませんので、これもユヌカのリーダーシップの賜物と言うべきなのでしょう。


 樹暦1320年、魔王軍はフバーユ島全土を支配下に置きます。残るはアゾヤイ島のユヌカ軍だけとなりました。都市内のゲリラ活動は続いていました。魔王軍と、軍関係者への攻撃が散発的に行われ、統治に悪影響を与えていました。ユヌカ軍は三千人程度の兵力を有していたと言われています。これ以外に、都市内にはユヌカに協力的な市民が多くいました。魔王軍の動向を伝えたり、インシデントを引き起こすくらいのことはしていたでしょう。何度か、魔王軍の食糧庫が破られるという事件が発生しました。都市の人間が関わっていたことは明らかでした。そのうち、軍の幹部が暗殺され、陣舎が焼かれる事件が起こりました。後方の町では物資を積んだ船が拿捕され、多くの魔族が海へと投げ捨てられて死にました。そのすべてに、ユヌカ軍の手が回っていました。ファナッペ先生の本にもありますが、大地信仰に基づく重人主義は、フバーユの人にとって、胡散臭いものとして認識されていました。統治が上手くいっていないことは明らかでした。アゾヤイ島は足元の柵でした(慣用表現。「目の上のたんこぶ」の意味。)。都市内の見えない敵から、数か月にわたり、散発的に攻撃を受けました。看過できない雰囲気が軍の中に広がっていました。両者の兵力差は歴然であり、アゾヤイ島を攻めない理由はありませんでした。海戦のための舟の数は揃っていました。しかし、魔族は、海戦を嫌がりました。敵の思うつぼです。人間の兵も、海戦の経験はありませんでした。ちなみに、ユヌカ軍にも海戦の経験は大してなかっただろうと言われています。軍の中には、ユヌカ軍を無視するか、懐柔するという案も出ましたが、そんなことをしているうちに被害は増える一方でした。また、アゾヤイ島の兵糧には当然限界があったでしょうが、支配地域の統治が上手くいっていない中で、兵糧攻めの長期戦を行うことは避けるべきと思われました。敵に筒抜けになるのは承知の上で、人間兵に海戦の訓練を行いました。私が以前にワグ島で読んだ兵法書を参考にしました。泳ぎの練習も行いました。魔王軍の水練(慣用表現。「付け焼刃」という意味)という慣用句がタイベン語やハウガディ語にはありますが、そのとおりだと思いませんか。

 アゾヤイ島の攻略は、夜襲をかける作戦を取りました。魔族は海戦を嫌がりましたが、みんながみんな腰抜けだったわけではありません。私は有志を募りました。魔族百二十凶が手を上げました。私には、ベトーヌから教わった水上歩行の魔法がありました。百七十年前に教わった魔法です。あれからそんなに時間が経っているのですよ。海の上を歩きたいという奇特な魔族は私とバイナスコ以外にいませんので、この魔法は一般には普及していませんでした。私は一から魔法を解析し、魔法陣を作成し、有志にこの魔法を習得させました。フバーユの人間は信用できないため、この研究も作戦も、外部には一切漏らしませんでした。軍の中でも一部にしか知らせませんでした。

 魔王軍はアゾヤイ島の対岸に集結しました。作戦の決行は、新月の日に行いました。夜襲ですので、月の明かりが無い時を狙ったのです。夜襲には、私も参加しました。部下が信用できないからではなく、海戦ごときで士気の下がった軍を盛り上げようとしてのことです。私が捕まれば、残された魔王軍は、それはそれで取り返そうと海くらい渡るだろうと思っていました。反対者は多くありませんでした。夜襲隊は、集結した軍とは離れた位置に移動しました。そこから明るいうちに舟で沖まで出て、沖で奇襲隊の百二十凶と私が波間に降り立ちました。空を飛ぶ小さな魔物の先導で、アゾヤイ島の側面へと上陸する作戦でした。海を渡る間に夜になりました。先導する魔物はランプをくわえて、真っ暗な海の上を歩く我々を先導しました。天候は晴れていましたが、波は高く、潮を幾度とかぶりました。その臭いにうんざりしつつ、我々は暗闇を、わずかな明かりを頼りに歩きました。

 島に辿り着いたのは、夜明け近くでした。敵兵は浜にはいませんでした。島の内部は、上空からの偵察である程度把握していました。我々は引き続き潮の臭いにうんざりしつつ、当初の予定どおり、上陸後、四十凶ずつの三手に分かれました。浜辺で魔法防御の魔法をかけて、そこからは一気呵成に作戦を遂行しました。まず、三手に分かれたうちの一つが、島のインフラを破壊しました。畑、井戸、食糧庫、武器庫です。舟も破壊する予定でしたが、持参した油に火が付かず、これは失敗しました。海の上に立ち、頑張って舟を一つずつ破壊したと聞いています。残りの二つで、敵兵の居場所を奇襲しました。敵も当然、夜襲を警戒してはいましたが、それには正面から、舟を用いると思っていたことでしょう。魔王軍の人間兵が水練を行っていたことも、誤解を招いていたものと思われます。敵は、フバーユ島の方向にしか監視を置いていませんでしたし、我々は、そのことを事前の偵察で把握していました。八十凶の魔族は、敵の本陣の一つへと襲い掛かりました。そこは、敵幹部が寝食を行っている可能性がある山城でした。そしてまさにそのとおりでした。我々は裏口から侵入し、片っ端から敵兵を殺害しました。魔族と人とでは、こうなるともう一方的な虐殺になります。当時の状況から、魔王軍には敵というか、フバーユそのものに対して鬱憤が溜まっていました。大地信仰の重人主義を信じるものであれば当然持っているはずの、敵兵を無碍に殺すことの忌避感は、都合よく脇に置かれました。敵の混乱は明らかでした。我々は、暗闇の中、武器も持たずに逃げ惑う敵兵を追いかけて殺すか、腰を抜かしている敵兵に近づいて殺すだけでした。暗闇の中、味方を誤って殺す可能性はありませんでした。夜が明けて、山城の中は血の海になり、城の外も血の海になりました。思い出したかのように、島には夜襲成功の狼煙が上げられました。対岸から魔王軍が攻めてきました。ユヌカ軍はまったく対応できずに、魔王軍の上陸を許しました。その後も森へと逃げた敵兵を狩り出す作業が行われました。結果として、アゾヤイ島の夜襲では、ユヌカ軍だけで三千人が死んだと言われています。つまり全滅です。八十凶の魔族だけでこれだけ殺したわけではありません。夜襲後の掃討戦の方が与えた損害は大きかったのです。魔王軍の損害は、奇襲隊だけを見ると十五凶前後でした。相手側に強い魔法使いが何人かいたのです。ユヌカ本人も夜襲の際に殺されていました。私が殺したと、見てきたようなことを言う者もいますが、私が殺したかはわかりません。少なくとも私は、この戦いで死にませんでした。


 樹暦は1321年になっていました。ユヌカ軍の幹部を粛清し、協力者を処罰して、正式な統治の宣言を行いました。魔族が行うセレモニーに、フバーユの民は冷淡でした。空の宗教から見れば、「魔王はフバーユの魔素からも選ばれた」とか、「魔族は遍く土地の管理者」などという口上は、鼻白むものに見えていたでしょう。


 魔族が大地の主だと?

 汗水たらして働く必要もないのに?

 大地のことをよく知っていると そういうのか?


 馬のことならよく知っているよとほざいて

 走る馬車の上 馭者から手綱を奪い取り

 川へと馬車ごと突っ込んで 死んじまった愚かな貴族がいたが


 俺たちにとって 大地が人間の主であり

 俺たちの命運は大地様のご機嫌次第だ

 このうえ魔族のご機嫌なんぞ 取れというのか馬鹿馬鹿しい


 このような詩が書かれた羊皮紙が町の門に釘打たれました。貴族への不満が魔族への不満に変わったというものもいますが、そうではなく、それ以上の、根本的な、不満というより憤懣が、代表の正当性への疑義がここにはあるのです。「必要もないのに?」という言葉は、魔族にとっての呪いであるように思えます。人間は生きるために働き、食べ、争い、恋愛をし、信仰するものですが、ここには再帰性があります。働くために生き、食べるために生き、争うために生き、恋愛するために生き、信仰するために生きているということです。生きるために必要なそれらが、それらのために生きることへと変わるのです。しかもどうやらその変化はしばしば起こるのです。魔族にはこの再帰性がありません。魔素で生きる魔族には、本質的に魔素以外は必要ではないからです。魔族のやることは、すべてが遊戯へと還元されます。人間ごっこという一言で説明されつくします。魔族の大地信仰も、これだけの歴史的な重み、影響力があるというのに、本質は「必要がないのに?」なのですから面白いものです。抜けた底の上に、センタセという豪奢な大建造物が建てられていたのです。そして今の歌は、底が抜けていることを素朴に歌ったものなのです。人間も、特に現代人も底がないのは似たようなものかもしれません。それでも再帰性の円環という土台はあるように見えるのですよ、魔物からはね。

 身に合わない哲学的なことを話してしまいましたが、ここは歴史学の講演です。フバーユの話に戻りましょう。ファナッペ先生の言うとおり、フバーユの大衆の抵抗は大きかったのですが、それでも、理解者は徐々に増えてはいたのです。魔王軍に負けたという事実がそうさせていたとしてもです。フバーユの支配層は、篭絡と言ってはなんですけど、魔王軍に協力的な者が多くいました。大地信仰への理解者も多くいました。フバーユ戦では兵站がまだ機能していたため、略奪はほとんど起こりませんでした。四万という過多な兵量を投入していましたが、そうだったのです。農業の生産量はたった数年で一.三倍に増加していました。センタセの貨幣は、当時にしては強い信用を得ており、都市を中心に使用されました。やがては農民すらも貨幣で税を納めるでしょう。「貨幣を作らせるなら魔族に限る」とすら言われました。大法典は比較的速やかに受け入れられました。元々は敬教時代のガエバ・ナウン王国で作られた世俗法ですから、敬教徒の多いフバーユでもよく受け入れられたのです。さらに、古典の力と言いますか、これはよくできた世俗法であったため、宗教の垣根を越えて、空の宗教徒にも受け入れられました。何より、大地信仰とは関係がないというのがよかったのでしょう。まぁ、私がこう言っているだけで、それは一部のエリートに限っての話であり、一般化すべきではないとファナッペ先生は述べているのですがね。実際、繰り返しますが、魔族の支配に理解を示さないものも多くいました。先ほどの詩にあるとおり、特に農民はそうでした。大地に近い人間ほど大地信仰に理解を示さないということが起こっていたのです。ファナッペ先生の本では、アゾヤイ島の戦いで想像以上の犠牲者が出たことも、大衆の魔族嫌悪を強化したのだと書かれています。確かに、それは魔王軍が掲げる重人主義とは明らかに矛盾する結果でした。


 さて、話しすぎました。休憩を入れましょう。休憩後は、左手の大陸に侵攻しましょう。

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