一日目(2)
話を続けます。その前に、世の中には私を神として仰ぐ宗教がありまして、大抵はアスタボスから力をもらっただとか、その肉を食べたとかで、不老不死を自称する教祖が中心となって活動しているのですが、すべてインチキですので、皆さんは鵜呑みにしないでください。人はすべて死にます。絶対に死にます。アスタボスを神と仰ぐ宗教は、現在、大きいものだけで世界に七団体ありますが、すべてカルトです。私には人間を不老不死にする力はありません。それらの団体に私は一切関与しておりませんので、巻き込まないでいただきたい。教祖より私の言うことを信じていただきたい。この場にそれらの信者がいるのであれば、さっさと棄教することをお勧めします。さっき連れ出された人たちにもそう伝えておいてください。
そもそも、私の肉を食べたら不老不死になるという発想が気持ち悪いのです。この発想は残念ながら昔からありまして、私に串やフォークを突き立てた者も一人や二人ではないのです。名前は言いませんが、歴史的には良識があるとされている宗教家や聖人君主が、私の肉を食べたりもしています。魔物の肉は動物の肉ではまったくないのですがね。普通の火で焼くこともできませんし、魔法の火でこんがりいい具合に焼くこともできません。魔法の火は、魔族の体を魔素に強制的に変えるだけです。こんなに食べることに適さないものもないのですよ。そもそも、私を食べて不老不死になろうとする人たちは、蟹や鶏を普段どんなつもりで口にしているのでしょうか。
いま思い出したので話すのですが、朝食に毎日私の肉――下唇当たりの肉をナイフで持っていくのですが――を一切れ食べていた宗教家から私を助け出したのは、地元のギャングのボスでした。しばらくの間ですが、私はこのギャングの組織コンサルタントのようなことをしていました。「鳥人のことを鳥に聞く」という諺がタイベン語にはありますが、人間の彼が魔族の私に人間関係のことを相談するなんてこともあったのですよ。
さて、私はコユエビニ地方を離れて、どこかの町に辿り着きました。町の名前は誰も覚えていません。私はそこでバイナスコと出会いました。バイナスコはご存じでしょうか。人型の、空ろな目をした、のっぺりした顔の魔族です。すべてのバイナスコがそうというわけではないのですが、この魔族は旅をしました。旅をして、各地で興味深い話を聞き出し、それを一言一句違わずに記憶し、それを持ち帰り、世界樹に語りかけ、葉脈文字として記録するということをやっていました。世界樹のことはご存じでしょうか。さすがに知っていますよね。樹暦とか枝世とかです(樹暦は、バイナスコが収集した世界樹のアーカイブのうち、最も古い記録を樹暦0年1月1日とする。なお、その記録は、ある男が冬の間に氷を山の洞窟に保管しておけば、夏でも冷たい氷が楽しめることに気づき、実際にそれを試して利益を得たという内容。そこから氷室暦ともいう。枝世は百年単位の歴史区分で世紀と同じ。ほかにも葉世(二十年)、根世(いわゆる紀元前)、土世(人や魔族がいないとされる時代のこと)という言葉がある。)。
世界樹は歴史上、六凶確認されています。バイナスコの管理下にあった世界樹は、そのうちの三凶です。私がよく知っているのは、三凶のうちワグ島の世界樹です。ワグ島は、今はもうありません。島全体が魔石の島だったため、人魔決別の際に島ごと消えたためです。ワグ島の葉脈文字は、葉脈文字ワーとして現在も使用されています。
私が出会ったバイナスコは、そのワグ島に所属しているバイナスコでした。名前はベトーヌといいました。ベトーヌは五十年近く生きている、ワグ島で生まれたバイナスコでした。ほかの仲間と同様に、島で言葉――ビヒンシタ語に近い言葉でしたが――を覚え、記憶力の良さを認められ、旅に必要な技術と魔法を習得し、島を出て、主にブレスレット諸島を巡回していたそうです(ブレスレット諸島は、左手の大陸の手首部分に長く広がる諸島のこと。)。ブレスレット諸島とワグ島を何度か往復した後、今度は左手の大陸の魔族指に上陸し、フバーユを経由してセンタセへ辿り着き、そこで私と出会ったということでした。私はバイナスコがこのような活動をしていることをまったく知りませんでした。旅といえば人間のすることで、それまでは吟遊詩人か商人か、あとは熱心なアビナ教徒くらいしか見たことはありませんでした。ワグ島では魔法の研究もしているということであったため、私は旅の同行を希望しました。ベトーヌはこれを快諾し、私は世界樹へ至る旅の途についたのです。
私たちは、出会ってただちに海を目指したわけではありませんでした。ベトーヌはノボーグス地方を見て回り、興味深い話があればそれを聞き、記憶しました。物語の方の、鹿の角の生えたアスタボスについても、誰から聞いたのかは知りませんが、しっかりと記憶していました。当時の私は、バイナスコがなぜ、そのようなこと――各地のお話の収集――をしていたかはわかりませんでした。今では、世界樹への信仰のためとか、知的好奇心のためという説明がなされています。ここら辺の話は、トーニー・フオイ・ダッグ先生の『バイナスコと葉脈文字』という本をお薦めします。また、私と世界樹との関係については、アギナ・フォートマーセゼイ先生の『世界樹と不死王』という本があります。世界樹にいたころの私のことがよくまとまっています。一緒に旅をした私の見解では、バイナスコは、生まれたところにたまたま世界樹があり、それが発話を葉脈に文字として記録することがわかり、そういうものが近所にあれば色々と記録してみたくなるわけで、色々なものを記録していたら、故郷を越え、山を越え、海を越え、時代を越えて記録が集まってしまい、それを葉っぱのままではなく、分業体制を築いて魔石の石板に記録しているうちに、自分たちで作ったものではあるけれど、何だか石板がものすごく神秘的なものに見えてきて、石板作りがバイナスコ全体の使命になってしまったのではないかと思っています。おかげで、当時の記録が比較的正確に残っているのですけれども。
ワグ島は、センタセ大陸から左手首側へ約七百キロメートルの地点、穏海(親指の先から手首までの間に広がる海の名称。)の中にありました。少なくとも、私がいたころには、人は定住していませんでした。バイナスコは水の上を歩く魔法を使って、約七百キロメートルの道のりを徒歩で踏破していました。これは、魔族にとっては狂気の沙汰でした。魔族にとって海は死の空間なのです。海の上は、沖ともなれば魔素も薄く、魔物はそのままだと生きていけません。魔素の薄さと関連付けられて、海というか磯のにおいは、魔族に不快感を与えます。人間にとっての糞尿の臭いと同じとよく言われます。海を超えるには、大量に魔力を蓄えられる体と、飲食から魔素を効率的に吸収できる消化器官のようなものの鍛錬が必要でした(魔族は飲食しなくても生きていけるが、体内に消化器官のようなものがあれば、飲食によりそこから魔素を吸収できる。この方法による魔素の吸収は、鍛錬によって吸収量を増やすことが可能であった。)。私は、ベトーヌがノボーグスで見聞を広げている間、センタセ大陸を脱出する前に、まずは水上歩行の魔法を覚えなければなりませんでした。ベトーヌは、何も見ることなく、この水上歩行の魔法にかかる魔法陣を地面に描き、私はそこに入り、二十日かけて魔法を習得しました。私の魔力はとても大きいことがわかりました。また、飲食から魔素を吸収する能力は低いこともわかりましたが、蓄えている魔力が大きかったので、大丈夫だと判断されました。実際、私は大丈夫だったのです。
約七百キロメートルの海上の旅は、何ということはありませんでした。雨が降り、海が荒れると魔素が極端に低くなり、熟練のバイナスコでも力尽きることがあるのですが、私たちは大丈夫でした。私たちはひたすら、休むことなく、眠ることなく、星を頼りに海を渡りました。天候が悪くても、星がなくてもひたすら前に進みました。今から歌を歌いますが、魔法は発動しませんので、魔道室の職員は身構えないようにお願いします。
星を頼りに 海を歩くよ
波が荒れれば 魔族も死ぬさ
湿気たナッツを 口に含んで
大地の恵みを 噛みしめるのさ
我らはバイナスコ 塩味大好きバイナスコ
波をかぶって世界樹へ 塩で記憶を保存して
彼らは勤勉でストイックな性格でした。文字を知っていたのに、物語を諳んじることにこだわり続けました。求道者と呼ばれることもあります。そんな彼らでも、ときにはこのように軽快な歌を口ずさむのです。ゲクーもそうですが、旅をする者は歌が好きなのです。魔道室の職員がた、静かに、笑顔でいきましょう。長い半生を語るのに、歌の一つも出てこないというのはあり得ないことでしょう。「笑う者を魔王は虐げぬ」(ことわざ。「笑う門には福来る」と同意。ここでいう魔王は必ずしもアスタボスのことではない。)と言うではないですか。
私はワグ島で六十年ほど暮らしました。私はバイナスコのように、世界各地を旅し、物語を記憶するということはあまりしませんでした。私が島でしていたことは、一つには用心棒です。私がいる間は、人間が襲撃するということはありませんでしたが、それでも六十年の間に五、六回は人間が漂着することがありました。大抵は虫の息でした。そのまま死ねば私が島に埋葬しました。生き永らえそうであれば、島の貴重な食べ物を恵んで、適当なタイミングで送り返しました。まれに、バイナスコの助手になった人間もいましたが、大抵はすぐに死にました。栄養状態が悪すぎたからです。魔族の中で人間が生きようとすると、栄養失調になりがちです。要するに用心棒などは不要だったのですが、腕の立つバイナスコはいなかったため、念のために私がその役を引き受けたのです。もう一つは、食料の生産をしていました。正確に言うと、生産しようと頑張っていました。パン窯も作ってみましたが、麦は育ちませんでした。魔石の上に積もった土や海が運んだ砂だけではどうにもならなかったのです。育てていたのは、痩せた土地でも育つカマンという豆でした。これと干した魚介と世界樹の葉を携帯食にして、バイナスコは島を立つのです。最後にもう一つ、私は、石板を作成する作業も行っていました。島から切り出した石板に葉脈文字を刻んで転記する作業です。ワグ島では、旅から戻ったバイナスコは、まず世界樹に記憶した物語を報告しました。そしてそれが葉脈に浮かび上がり、浮かび上がった葉脈文字を石板に刻むのです。無駄な工程があることがおわかりいただけると思います。ワグ島のバイナスコにとって、記録とは何よりもまず儀式だったのです。この儀式は、他の世界樹とは異なり、ずっとずっと長く残り続けました。
私が石板に刻んでいたビヒンシタ文字は、葉脈文字ワーから派生したものです。ワグ島のバイナスコは、まずセンタセ地方でビヒンシタ語の話し言葉を覚えて、その後ワグ島に上陸し、そこにあった世界樹にビヒンシタ語で話しかけ、ビヒンシタ語の葉脈文字を手に入れたと言われています。ビヒンシタ語の葉脈文字はセンタセに逆輸入され、それがビヒンシタ文字として流通したということです。疑義を唱える学者もいます。古代にあった、宗教的、儀礼的な場で使用されていた形象文字の影響を重く見る学者がこれに当たります。私としては、当時のビヒンシタ語には、古代のこの形象文字の影響はないと考えています。私が知っていたビヒンシタ語と、ワグ島のビヒンシタ語には、方言程度の違いがありましたが、転記の支障になるほどではありませんでした。
先ほども申しましたとおり、私はバイナスコのように旅はしませんでしたが、まったくしなかったわけでもありませんでした。ワグ島で暮らし始めてから二十年目くらいのときに、二回だけ海を越えて、合わせて一年間ほど、物語を集める旅をしたのです。このときに、実は、左手の大陸にも上陸しているのです。しかしながら、見た目がバイナスコではなかったため、物語の収集はうまくいきませんでした。そもそもタイベン語を片言しか喋れなかったですしね。あと、見た目が大きくて怖いので、人間の話を聞く条件が整っていなかったということもあります。逆に言いますと、バイナスコにはそれらがあったのです。物語を収集するワグ島のバイナスコのことは、魔族指の海岸部を中心に、当時の人間社会でも広く知られていました。広くと言っても、みんなが知っているということではなく、村の老人が知っていたり、町の宿屋や教会にその記録が残っていたのです。スパイとして疑われたバイナスコもいましたし、その知識を認められ、長い間、王族に仕えたバイナスコもいました。彼らは求道者に例えられたということは言いましたっけ。言ったような気がします。バイナスコは僧侶のような簡素なローブをまとい、世界樹の枝を削った大振りの杖を手にしていました(魔族は体の一部が本体から切り離されると、その一部は即座に魔素に戻り、ものの形を保てなくなる。例外は、アスタボス氏と世界樹である。この性質から、世界樹の枝や葉は、加工や持ち運びが可能であった。)。足元は裸足、腰には携帯食などを入れた赤い袋、――何とかという貝殻で染めたもの――をぶら下げていました。彼らはたまに人間の社会に現れる、理知的な旅をする魔族であり、珍しい存在でした。人間たちは、比較的快く、自分たちの知っている愉快なこと、後世に伝えたいことをバイナスコに語ったとされています。バイナスコも、尋ねられれば知っていることを答えたそうです。人間が残した記録には、バイナスコの記憶力に舌を巻いているものが多くあります。あるバイナスコは、ある町に十日間滞在している間に敬教の経典を一冊丸暗記しました。そのことが、驚きとともに伝えられています(敬教はこの世界の主要な宗教の一つ。親孝行の重視、祖先崇拝、商業の軽視、家族と郷土の同一視、郷土より大きな国家、国際社会の無関心、偶像崇拝の禁止などの特徴がある。センタセ大陸及びフバーユ島で広く信仰された。後に新敬教が派生する。)。丸暗記した経典は、ワグ島の石板に完璧に転記され、中世敬教研究における第一級の資料として現存しています(「十日経典」と呼ばれている。後世、事故のため一部欠損していることから、完璧に転記されていたかは不明。また、後述のとおり、現存しているのはレプリカである。)。
私はワグ島で仕事をし、その合間に魔法や哲学や宗教、詩や法律、地理、生物、化学の勉強を行いました。バイナスコが収集していたのは、当然ですが物語だけではなかったのです。初期は確かに、身分の低い者から収集した昔話や民間伝承、宗教説話、そのときに噂になっていた話が大半を占めました。氷室の話もそうですね。しばらくすると、それ以外の人たちからも話が聞けるようになります。バイナスコの活動が進むにつれ、地位のある魔法使いや研究者、宗教家、貴族たちからも話が聞けるようになったのだと言われています。バイナスコは、当時の最先端に近い、今でいう学術を多く収集できるようになりました。これは、ワグ島については、私が在籍したころに現れた変化です。彼らは意識して学術にかかる知識を持ち帰るようになりました。彼らはもちろんそれを記録するだけではなく、自分たちのものにしようと努めました。バイナスコたちは、記憶だけではなく、色々なものを持ち帰るようになりました。本、紙幣、実験で使う蒸留瓶、聖なる天秤のレプリカ、珍しい木の実、化石、ミイラ、雪の結晶のスケッチ、動物の骨、磁石、天体図、世界地図、絨毯に描かれた魔法陣、舟の設計図、コーヒー豆、そして虹目石(金よりも希少な魔石。後に生成に成功して価格が暴落する。後述。)。人間たちが随分前の枝世には気が付いていた世界の驚異について、ワグ島のバイナスコたちは、遅ればせながら、ついに触れつつあったのです。そうなるとどうなるんだい(映画「魔法使いの黒」でアスタボスが口にしたセリフ。)。ワグ島は学術を極めるには不適当だという認識が広まりました。そこにはまず人間がいませんでした。世界は己の驚異を、まず人間だけに展観しているようでした。これは当たり前なのです。魔物は必要以上に地面に穴を掘りません。地中に埋まっているものを取り出すのは、まずは人間なのです。空を眺め、星の動きを観測し、星の位置関係から星座を生み、星の動きに法則性を見出すなどということをするのも人間なのです。眠ることのない魔族ではありますが、ただ大樹のように存在している魔族では無理なのです。星座を生んだのも、夜に眠る人間なのです。何もせずとも生きていける魔族と、少しでもよく生きようとして、世界のドアを叩き続ける人間との間には、開かれる世界の広がりに大きな差があって当然なのです。ワグ島は、植物が育たず、生き物がまともに生きていけないため、人間を呼ぶことは不可能のように思われました。バイナスコの中には、世界の驚異が何だ、我々は今までとおりただ記録していればいいではないかと主張する者もいましたが、我々の理性というか、好奇心というか、欲情というか、そういうものが今までの存在の仕方を受け入れなかったのです。あるバイナスコは、誰かが持ち帰ったヒクイドリの剥製を見て、生きているものを見たいと言い残して島から姿を消しました。あるバイナスコは、世界地図の海半球に本当に大陸がないのかを調べると言って姿を消しました。私が島にいる間には、彼らは戻ってきませんでした。あるバイナスコは、記録の旅を放棄し、ある哲学者の門下生となりました。あるバイナスコは、魔物こそ炭鉱夫となって大地の恵みに一身を捧げるべきだと主張し、徒党を組んで島を去りました。ここらへんには、後の大地信仰の萌芽のようなものがあるように見えます。ほかにもあります。あるバイナスコは、舟を持ち帰りました。ワグ島はこれに大いに湧きあがりました。さっそくその舟を使って、以前から許可だけは得ていた水車を持ち帰る計画が実行されました。水車はミュカトーニャ地方にあったものだと思います。こんな詩が石板に残っています。
下手な人真似 鼻梁を忘れ
今日も海行く バイナスコ
舟を浮かべて 水車を乗せて
舟に乗らずに 舟を降り
舟を漕がずに 舟を押す
ともかく、魔族は人間の真似をしてきました。そして、ここにきて、ついに人間の探究を真似し始めたのです。ちなみに、ディグティニやカウエナの世界樹では、二枝世早くこのような変化が起こっています。この二凶は左手の大陸にありますし、人間の生活に比較的近いところにあり、お互いの距離も遠くないため、人間の影響を受けるのも早かったのです。この二凶では、早くから人間がバイナスコと共存しています。多くの人間が葉脈文字の転記や流布に携わっていることがわかっています。カウエナでは、崖に貼りつくように学校や天文所、博物館が作られ、バイナスコは人間に混ざって世界の驚異を研究していました。人間に代わって空を飛び、人間に代わって苦手な雪原を進んだのです。ディグティニには当時最大の陣舎があり、王の管理官による直接管理が行われていました。巨大な蒸留施設があり、塔があり、炉があり、火薬の製造工場がありました。化学の萌芽が育まれていたのです。この二凶では、伝え聞いた話を世界樹に語りかけ、葉脈文字に変換するようなことはとっくの昔にやめていました。記憶した話は、世界樹を経由せず、直接羊皮紙へと記憶されました。そうです。羊皮紙を使用していたのです。カウエナでは、高地で魔族が羊飼いをしていました。もちろん、羊皮紙のための羊を飼っていたのです。その肉は周辺の町に売りさばかれ、金貨や銀貨と交換されていました。そうして得た金銭で、沿岸地域から、消石灰を大量に輸入もしていました。活版印刷術も比較的早い段階で使用しています。これらはワグ島ではついに常用されなかったものです。ワグ島にいたころの私は、この二凶の世界樹のことは聞いたこともありませんでした。繰り返しますが、それでも、ワグ島にも、周回遅れで変化がやってきました。私も、石板に物語を転記し続ける生活を送るつもりはなくなっていました。
ノボーグス地方は大国に完全に併呑され、モーチェの血族は歴史の中に消えていました。私の手元には特に何も増えてはいませんでしたが、魔法技術をはじめとした知識は、私をかたどる魔素の中に満ち満ちて全身を巡っていました。世界の驚異、人間への興味は尽きることがありませんでした。私が島を出た後、ずっと後のことですが、ワグ島の石切り場は閉鎖されました。同じころ、人間が穏海を航海してこの島に辿り着きます。航海術が大海に勝利しつつありました。残ったバイナスコは多くはありませんでした。ワグ島は暴力的な経緯ののち、ザン・ハブムホイン王国の一部となります。ザン・ハブムホイン王国は、バイナスコには過酷な振舞いを見せ、世界樹自体は持て余しましたが、バイナスコや私が残した石板は大切に保管してくれました。人魔決別の前には、すべての石板を自然石の石板に、可能な限り、オリジナルと同じ形で転記し終えました。そのときの責任者の名前は、マズオー・マズオー・ハフビェキシといいます。王国の文部大臣であり、言語学者でもあった人です。自動化できるような機械もなかった時代に、また、魔族への差別が最高潮であった時代に、魔族に関する文物が抹消、破壊の対象となっていた時代に、バイナスコが数百年かかった仕事を、十数年でやり遂げたのです。私が転記した石板も、ちゃんとハフビェキシが残してくれているのですよ。『ハフビェキシの船』(テッオ・アジャシーノ著)という本を強くお薦めします。質、量ともに圧倒していたカウエナの羊皮紙が図書館ごと焼かれ、学校と天文所が破壊され、塔は崩され、炉は埋められ、世界樹がテロで倒されたのと対称的です。カウエナは人と魔族が近すぎたからそうなったのだという歴史家もいますが、さぁ、どう思われますか。
樹暦1215年、私はワグ島を離れます。向かった先はセンタセ大陸でした。理由は、王国(ガエバ・ナウン王国)の一部になったと聞いていたノボーグス地方を見てみたかったからです。いや、この言い方は違いますね。正確に言いますと、辺境伯領は、元々王の領地だったところ、叔父殿が反旗を翻して大暴れしていたのですから。
私は幾つかの村や町を回りました。焼け焦げた畑や家はとっくに新しいものへと変えられていました。森は切り開かれ、一方では植林が進んでいました。どこの川にも似たような橋がかかっていました。人々は相も変わらず、天気の話をし、川魚の話をし、夏の過ごし方の話をし、異性の話をしていました。女性の髪型や装飾品も、昔と同じように見えました。子供たちは、私の知らない魔法で遊んでいました。アプリコットが植えられ、おやつとして食べられていました。役人は紙や羊皮紙を積極的に使用するようになっていました。兵士の槍の先にはかぎ爪がついており、鉄は新しい製法で作られていました。盾の形も変わっていました。町の管理者として、国王直属の役人が出向していました。彼らは戦士であるとともに官僚であり、語学に長け、教養がありました。間違っても危機のさなかに酒に酔いつぶれるような者はいませんでした。デミドッグが駐屯地で暮らしていました。緑色のバンダナを巻いて、首からエメラルドをぶら下げたウェアウルフ(狼の顔をした人型の魔族)が、市場監督官として働いていました。魔族が商業に携わり始めたのです。確かに、以前から盗賊の魔族はいましたし、店番をするアラクネもいました。一次産業、特に農業に従事する魔族も多くいましたし、それが主流でした。ここで言いたいのは、立派な机を前にして、華美な服に身を包み、金の勘定をし始める魔族が現れたということです。センタセでは、カーサニーという輸送専門の商団が、荷物を携えて砂漠を横断していました。その構成員は、人の住めないような砂漠にひっそりと点在して生きていた、フーアプフと呼ばれる、人と同じ程度の身長がある、羽虫のような見た目の魔族でした。彼らは、人間ではとても踏破できないルートを通り、素早く商品を運ぶので重宝されていました。カーサニーの商団長は、トベグモという名前で、老獪なフーアプフでした。フーアプフは、口の形状が発話に向いていないため、言葉を覚えるものも少なく、人との距離を保って生きてきた魔族なのです。そして実際、カーサニーに所属するフーアプフの多くは、書くことは何とかできましたが、言葉を話せなかったのです。そんな魔族すらも、都市内魔族として現れ始めたのです。トベグモは長く生きた魔族で、その半生は不明な点が多いとされています。後に私と敵対します。
変化はまだありました。魔物が商船に乗って港にやってきました。これには驚きました。魔族にとって海は死の空間なのです。海を徒歩で横断するワグ島のバイナスコが異常なのです。ここにきて、あえて船で海を渡る魔族が現れたのです。舟を接岸すると、複数の魔族が下りてきて、まずは大地にキスをしました。その後、みんなで肩を抱き合って、歌を歌いながら魔素を吸収していました。酒を飲む人間のようでした。いや、実際、彼らも酒を飲んでいたのです。魔素も入っていないし、人のように酔いもしないはずなのですが。酒自体も、昔と比べると変わっていました。何がどう変わっていたかと言われると、私は酒を飲まないので困るのですが、生産量は増えていたようです。まぁ、とにかく、長く生きているとわかりますが、世の中には変わるものと変わらないものがあるのです。そしてどちらも興味深いものなのです。
ある村で、私のことを覚えていた老人に出会いました。当時の平均年齢は三十歳強だったそうですから、本当だとしたら長生きする人もいたものです。その老人に連れられて、ある町はずれの墓場のそばにある、粗末な小屋に入りました。そこには私が使っていた槍が保管されていました。はっきりと覚えているのですが、埃一つ積もっていませんでした。数日前に保管したばかりのようでした。銀貨はきれいさっぱりなくなっていましたが。私は槍を持って村に戻りました。老人が長い時間をかけて吹聴してたおかげで、その村では、私は随分と美化され、高く評価されていました。私が槍を振り回すと、村人はやんやと喝采をあげました。
私は、老人の紹介で町の管理官と知り合いました。町の管理官の紹介で、王直属の魔法使いと知り合いました。そして、かつての王に刃を向けた叔父殿の配下だったことが知られて、国外追放になりかけます。しかし、私の知らないところで色々あって、最終的には、王直属の魔法使いの紹介で、王の陣舎の管理官になりました。ここら辺の経緯は、記録が残っていないため謎です。幾つかの可能性には言及されていますが、評価に値するものはまだありません。アスタボスを手放すのは惜しかったのだとか、まぁ、そういう説明になりますよね。この説明は憶測であり、客観的な物証は何もありませんが、これでいいような気はします。
新しい職場の場所は大都市ガエバサイ。砂漠のオアシスに広がる美しい都市、王都の名に相応しい都市です。交通の要所であり、港に適した海が近くにありました。灌漑が行き届き、物品が市場に溢れていました。のちにセンタセの首都となり、私の王宮が建てられる都市でもあります。王宮は、今でも本殿は残っています。本殿だけが残っているとも言えます。中に入ろうとすると、入場料で千五百グシィ(センタセの通貨単位)取られます。
王の陣舎の管理官といいますが、仕事は多岐にわたりました。官職名はソナ・イナと言います。編纂の責任者という程度の意味です。魔法陣や魔法の巻物、行政文書や民間の契約書の控え、学術にかかる書物、巻物を管理するのも私の仕事でした。書類だけでなく、国庫の管理も行っていました。私の部下は、楽器を磨いたり、年貢として集めた絹や羊皮紙の枚数を数えたりしていました。戦争で掲げる軍旗の管理も行っていました。間接的に、税金の管理も任されていました。私はガエバ・ナウンでは新参者でしたが、当初から結構な権限を持っていたのです。ワグ島で長年働いたという経歴が、私に箔をつけてくれました。眠らない魔族はタフですので、人間の倍は働けます。このことも評価されました。比較的教養もありましたし、好奇心もありました。実際、私はよく働きました。私は、都市内魔族として、人間の社会の中で、賢者としても出世したのです。当時のソナ・イナは賢者だったのですよ。このころ、タイベン語とウェムセン語を覚えました。このことをもって、アスタボスは、既にこのころから大陸侵略の意志があったなどと言う輩がいますが、滑稽であり議論に値しません。
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