魔王の歌う世界史

ババトーク

一日目(1)

 これは、樹暦2093年1月33日から36日(一か月は四十日まである。樹暦については後述。)までの四日間、ミュカトーニャ首都大学の大講堂で、大学一年生向けに行われたアスタボス氏による連続講演「魔王の歌う世界史」を書籍化したものである。講演の最中には幾つかのトラブルがあったが、それらについても可能な限り言及した。

 講演は連日満員であり、立ち見客が出るほどであった。講演の対象者である首都大学の一年生だけでなく、歴史学者、その他の学者、大学職員、また、アスタボス氏の要望もあり、一般市民の聴講者も多く参加した。講演は一日約百二十分。しかし大抵は守られなかった。休憩が途中で一回挟まれた。講演は、九番目の時刻から開始された。

 アスタボス氏は、フラットカートで壇上に運ばれ、壇上に設置されていた樫の机の上に職員五人がかりで配置され、講演が終わるまでずっと机に置かれっぱなしであった。


 本文中ではアスタボス氏自身にかかわる描写を挟めないため、ここで簡単に言及しておく。

 アスタボス氏は頭だけの魔族であり、頭の横幅は約一メートルである。頭の高さも奥行きも、横幅よりは少し短い。顔は手入れされた銀色の長くて細い体毛に覆われており、髪の毛はやや黄色い。後ろ髪やあごひげは長く、机に垂れていた。両目は髪と眉毛に隠れがちであるが、大きく丸い。瞳の色は赤い。鼻は豚のようである。口は横方向に大きく裂けている。唇は薄く、その色は花のような紫色である。歯は白くて美しい。歯先はどれも尖っている。舌は厚くて青い。声は低いがよく通る男性政治家のようである。発話の魔法による補助があり、大きな講堂であるにもかかわらず、マイクは一切使用しなかった。呼吸はしていない。これは魔族一般の特徴である。装飾品は身に着けていない。耳は髪に隠れて見えなかった。皮膚の色は、髪の毛と同じく銀色に近い。アスタボス氏は流暢なタイベン語(ミュカトーニャの公用語)を話した。講演の裏側では、主催者であるムン・マギチャス博士と、やはり流暢なビヒンシタ語(センタセの公用語。センタセについては後述。)で会話していた。

 翻訳に際しては、説明が必要と思われる場合には、適宜、括弧書きで用語の説明、補足を行った。ただし、明らかな名前の言い間違いなどは、特に断りなく訂正した。アスタボス氏は、現代の歴史学の定説とは大きく異なる話もしている。これについては、事実や学説として話しているのではなく、アスタボス氏の記憶、思い出を話しているのだと判断して、特に訂正は行っていない。


1 一日目

 みなさま、おはようございます。アスタボスと申します。古い生まれですので、アスタボスが名前のすべてです。この講演は、「魔王の歌う世界史」というタイトルで、大学一年生のみなさんを対象に、歴史学についてのお話をすることとなっております。私がつけたタイトルではありません。なぜ「歌う」なのかといいますと、私の魔法が歌と関係しているからかと思います。あまり深い意味はないかと思いますが、私としては気に入っています。

 こう見えましても、私は歴史学の教授資格を持っておりまして、中世時代や魔法史についての論文もいくつか発表しております。一般向けの本も出しており、『世界を変えた50の魔法』という本の著者でもあります。単に長生きだからここにいるわけではないということをまずお伝えしておきたいと思います。

 私は、普段は海半球(北半球)の海極点(北極点)付近にある魔法研究所で所長をしております。なにぶん僻地ですので、人間にしてみれば好き好んで働きたい場所ではないようで、百十年ほど所長をやっております。魔法の研究ばかり続けるというのも楽しいことではありますが、長い一生であることだし、これは何か別のこともした方がいいなと以前より思っておりましたところ、機会がありまして、歴史学の道にも足を踏み入れました。

 三十年ほど前ですが(正確には五十五年前)、魔法学の学会がこの首都大学でありまして、私も参加しておりましたところ、当時の首都大学の学長で歴史学者であったキニーシュション・ヘブネナゲム先生から、「アスタボスがセンタセ時代の歴史を紐解くところを見てみたい」と言われました。センタセというのが私の作った魔族の国なのですが、当事者がそんなことしてもいいのかとも思ったのですが、著名な歴史学者が見たいというのだからいいのだろうと思いまして、魔法研究の傍ら歴史学を勉強して、時には古文書をあさり、時には戦跡を訪ね、時には記憶を思い出し、思い出した記憶が全否定されることもありましたし、実際に間違いだったこともありましたが、そうこうしているうちに論文を書き、評価され、賞を貰うなどした後に教授資格を取り、それなりに評価されて今に至るわけです。

 私の専門は、歴史学のうち、歴史区分で申しますと中世時代です。地域としましては、左手の大陸(陸半球(南半球)に広がる左手の形をした大陸。)の魔族指(親指)地方、その先にあるフバーユ島、フバーユ島の先にあるセンタセ大陸、そしてワグ島が専門範囲となります。また、魔族と歴史、魔法と歴史についてもそれなりに詳しいと自負しております(ミュカトーニャは、経穴でいうと魚際のあたりに位置する。なお、この世界には経穴の概念はない。)。


 この講演の対象は、大学一年生です。魔族の私から見ても、あまりそう見えない人影もちらちら見えますが。まぁ、それはそれとして、みなさんは、魔族とか魔法についてどの程度知っているのでしょうか。最近では、魔法や魔族についてよく知らない世代が増えていると聞いております。学校では詳しく習わないと聞いております。魔物の知識など不要と思われているのかもしれません。そもそも、魔物はフィクションだと思っている人もいるとか。小説や映画ではよく見かけると思うのですが、どうでしょうか。『ゲクー旅団記』(商人ゲクーが旅の途上で記したレポートを本にしたもの。魔物とともに各地を旅したこの本は、一級品の史料として名高い。)はみなさん読んでいることでしょう。『勇者ゲクーの冒険』(ワージィー・ハウウストン作の冒険小説。ゲクーとその仲間が魔王アスタボスを退治するために旅をするという筋書き。)も読んでいるでしょうね。私が私役で出演した映画、『魔法使いの黒』(エジ・タクン・バトゾ監督のアクション映画。)はご覧になったことはありますか。あれももう古い映画ですがね。あとは、ケアッモオの大きな扉条例とか、チーノンの祭りなどはみなさんもご存じでしょうか(ケアッモオは都市の名前。過去に人とゴーレムとが共存していた。大きな扉条例は、巨大なゴーレムでも通り抜けられるよう、公共施設の扉は大きなものにしなければならないというこの町の条例のこと。魔族がいなくなった後もこの条例は生き続けている。ただし、今では交通機関や用地確保の問題から、町長の部屋に至る道中にある扉のみに適用されている。チーノンとは、馬の顔を持つ小型の魔族のこと。ベアニームム地方では、戦禍を被った住民を哀れに思ったチーノンが夜営を手伝ったことがあり、その恩として、一晩中馬の面をつけてかがり火を焚く有名な祭りがある。)。

 普通に講演をし始めましたが、この中には、壇上で話すよくわからない形の私を見て、こいつはどう見ても人ではない、魔族って本当にいたんだと思っている人もいるのでしょうか。私も不老不死で有名のつもりですし、メディアへの露出もしばしば行っているつもりですが、魔族がいなくなってずいぶん経ちますし、私だけが自分のことを有名だと勘違いしている可能性があります。私がここでこうして話をしているわけでして、魔族は確かにいるということはご理解いただけたかと思います。魔法についてはどうでしょうか。ミュカトーニャには魔法研究所もありますし、この大学には魔法学のゼミもかつてありました(二十五年前に魔法学部はなくなった)ので、多少は魔法についてご存じとは思うのですが。

 私は人間の顔をうかがうのが苦手でして、人の顔がみな同じに見えたりもするのですが、皆さんのその顔は、知っている顔なのでしょうか。魔法について知らない人もいるのでしょうか。私の話は、魔族や魔法について知っておいてもらわないと、独りよがりな話になってしまいます。魔法についての説明が必要な方、よろしければ挙手していただけますでしょうか。


(おおよそ六割の人が手を挙げる。)


 こんなにいるのですか。私から魔法の話を聞きたいだけ、という人もいるかも知れませんが。確かに、魔族がいなくなれば、魔法の勉強をしても仕方がないかもしれません。魔法の話を少ししたいと思います。

 魔法とは、魔法を操り変化させる技術のことです。トートロジーのようですが、このように表現されます。以前は、魔法や魔族に関する技術のことだと言われていましたが、魔族も魔法の一部と考える発想が主流となってからは、魔法を操る技術が魔法、といわれるようになっています。魔法は、魔素と呼ばれるエネルギーに関する技術です。魔素は土の中に大量に含まれており、地表面上の大気中にも多く浮遊しております。これを操作するのが魔法です。魔素から生じた生き物のようなものが魔族です。魔法は人間を含む生物には直接的な影響は与えることができません。魔法の炎は魔族を焼きますが、人や紙を燃やすことはできないのです。例外はいくらでもあります。魔法の光は人の目も眩ませます。魔素からは物質をつくることができます。鉄のような物質をつくって操作することもできます。これを弾丸状に加工して、高速で操作し、人体にぶつければ凶器になります(魔弾という。)。かつては戦争でも、人間同士の戦争でも使われたのですが、条約によって禁止になりました。今では、魔法で生成した物質は、一瞬しかこの世界には存在できません。私を除いてです。ここらへんの話は基礎的な歴史の勉強で習ったと思います。人魔決別というやつです。中世ではない時代区分の話になりますので、この講演では触れませんが。

 現代では、魔法は手品や救助活動でよく使用されています。手品の例はわかりやすいでしょう。魔法であれば空中から魔法の花や鳩のようなものを出すことは容易です。物質を生成すると色々と問題なので、手品では、ホログラムを作ることが多いようです。また、救助活動では、たとえばプロの登山家は、遭難した場合、魔法を使って自分の位置を知らせることができます。人魔決別の際に使用されたこの星を包む魔法の膜により、どこでどのような魔法が使われたかが、リアルタイムでわかるようになっているからです。これにより遭難者の正確な座標がわかり、どこに救助へ行けばいいかがわかるのです。

 私もこうして話しておりますが、皆さんも、私の声に違和感があるのではないかと思います。魔族だから、というわけではなくて、首がないものですから、地声では聞き取りにくい声しか出せませんので、魔法で声を出しているのです。発話の魔法の始まりは、私が魔王だったころに部下が作り上げた魔法技術です。明瞭に聞き取れるような発話をリアルタイムで行えるのは、なかなかの高等技術なのですよ。発話の魔法は、スライムの王様であり私の部下であったアテドーが発案しました。その後、偉大なる魔法使いのチグマイチャ・ウァンムが理論化し、私が私のために実用化したものです。少なくとも、タイベン語とビヒンシタ語の魔法発話は、私が実用化したものです。人間の中にも、先天的に声が出せないなどの理由で、魔法で発話を行う者もいます。数は多くないですが、メディアで見聞きしたことはあるのではないでしょうか。

 登山家の例のように、私の発話も魔法ですから、リアルタイムで補足されています。補足しているのは世界各地にある魔法研究所です。何を話しているかまで知られていることでしょう。現代では、魔法の役割は、この魔法感知にあると言っていいのです。各地の魔法研究所は、軍事、治安維持、安全保障の分野で魔法の研究を行っています。その活動予算は、学術の予算からではなく、不本意なことに国防予算から振り分けられております。各地域の魔法研究所は、どこかで危険な魔法が、未確認の魔法が作られていないか、使用されていないかを監視しあっています。そして自分たちは、その感知をかいくぐって危険な魔法を研究しているのです。できないはずの魔素の物質化も行っていることでしょう。あとは、国際組織の国際魔道室(魔道は、魔法と魔族の意味を含む言葉。アスタボスも述べているように魔族も魔法であるが、国際魔道室は、魔道という言葉を使用している。)。安全保障理事会の下部組織ですね。主に魔族を封じ込めた門の監視をしております。今日も二名の職員がここに来ております。

 かつてはすべての人が魔法使いだったのです。魔法陣(魔力(体に蓄えた魔素)を流し込むことで魔法が発動する。主に魔法を習得するときに使用される。)はどんな小さな村にもありました。子供たちは文字を覚えなくても魔法は覚えていたのです。馬の乗り方や畑の耕し方を父母から教わるように、魔法は世代を越えて伝達されていたのです。同じ魔法を唱えることが仲間の印であり、同じ仲間であることを示すためだけの魔法すらあったのです。子供たちは魔法の矢を天に向かって放ち、色とりどりの魔法の霧を出して遊び、魔力を奪い取る魔法で遊んでいたのです。町の門の下には魔法陣が刻まれ、王の住む城には魔法使いの部屋が必ずあったのです。魔物を追い払い、魔物の傷を癒し、魔物を操り、魔物を解放するために、魔法はあったのです。人々は魔法のために旅をしたのです。未知の媒介(魔法を習得しやすくするために、事前に服用する物質のこと。時代が進んで魔法技術が発達すると、媒介は不要となった。)を探すために、多くの人と魔物とが世界中を旅したのです。魔法の研究も、例えば国力の証として、例えば空を飛ぶために、例えば純粋な知的探求心から、例えば美しい虹色の魔石(魔素でできた鉱物のこと)を作り出すために、行われていたのです。今ではごく少数の者が、国家公務員として、安全保障のため、反魔法の部屋にこもり、机にしがみつき、他の研究所や門に目を光らせているだけの存在となってしまいました。歴史学者のタンク・ナノウォーン先生は、「文明は、陣舎穀倉から成る。」と言いました(陣舎は、魔法陣や魔法の巻物を保管する建物のこと。)。そのような時代は確かにあったのです。昨今、大学の魔法学部は、就職先がないため縮小され閉鎖されております。全世界的にそうなのです。素晴らしい魔法技術が無用の長物として顧みられなくなったのは残念なことです。魔法に関する行政組織は縮小され、魔法研究所を除いては予算も下りなくなりました。大半の魔法技術の本が図書館の奥で埃にまみれて眠ったままになっているなど、かつては信じられないことでした。魔法学の教科書は使われなくなり、魔族の生体は、生物の授業でほんの少しだけ教えられているのです。魔族は生物ではないというのに。マーメ(ゲクーとともに戦った魔法使いの人間)、パコ(ゲクーとともに旅をした魔法使いの妖精)のような偉大な魔法使いも、その真価がわからないまま評価されているのは不自然なことだと思います。マーメなどは、単に、一度にたくさんの魔族を殺しただけと思われているのではないでしょうか。あとは魔女の森で百凶(ここでアスタボスはタディスという数助詞を使用している。凶と訳す。タディスは魔族に使用する数助詞。蔑称的なニュアンスがあるが、そのままとした。)の魔女を追い出したとかですか。そうではないということを言いたいのですが、さすがにそのことを話し始めると歴史学の個別事例に入り込んでしまいますのでやめておきます。マーメの魔女の森についての話については、コーピートマン・コーピートマン・シャダブノ先生の『魔女の森事件』をお勧めします。タイベン語でも翻訳されていたと思いますので(そもそも『魔女の森事件』はタイベン語で書かれた本である。)。

 さて、国際魔道室の職員にお伺いするのですが、みなさんに魔法を見せるために、この場で、危なくない、魔法の虹や雲を出してもいいでしょうか。あるいは私の毛を動かしたりは。


(最前列に座っていた国際魔道室の職員二名、耳に手をかざす(否定のジェスチャー)。)


 駄目だそうです。魔法で声を出すのはいいのに、虹を出すのは駄目とは、役人の考えることはわかりません。毛の一本も動かせないおかげで、今回のこの講演も、メモも読まずに話をしなければならないのです。大学で学生だったころの口頭試験を思い出します。落ちたペンを拾おうとしたり、顔を横に向けようとしただけでギョッとされるのですよ、私は。一挙手一投足にビクビクされてしまうので、そういうところだけ魔王っぽいと言われます。


 では、魔法のお披露目は諦めまして、私は事前に話そうと思っていたことをまったく話せていません。現代の魔法に対する愚痴しか言っておりません。

 歴史について話そうと思います。何を端緒にしましょうか。歴史学者のソウム・ソウム・ジャックワー先生は、「歴史とは、アスタボスの記憶である」と述べています。私は彼に会ったことはないのですが(なお、ジャックワーは女性である。)。それはともかくとして、これはどういうことでしょうか。彼の主張はこうです。人類はいつかは滅ぶ。この左手の星もいずれは燃え尽きることがわかっている。人類と魔族の記録も記憶もすべてが灰燼に帰す。それでもアスタボスは生き延びるだろう。国は滅び、星は死に、神の目(太陽のこと)は膨張し、アスタボスは星とともに焼かれ、そして復活し、宇宙空間を漂い、生き続けるだろう。そのとき、この星の歴史とは何であろうか。アスタボスの記憶以外に何が残るのであろうか。いや、この宇宙の歴史ですら、アスタボスの記憶以外の何であろうか。このように言っているのですね。

 魔素は宇宙空間に遍在しているわけではありませんが、私なら生身で生き続けることが可能だと言われております。正確に言えば、消滅しても復活できると言われております。ジャックワー先生はそのことを知って、歴史とはアスタボスの記憶だと述べたのです。究極的にはそうなのでしょうが、これはニヒリズムに過ぎないのではないでしょうか。私の記憶力は大したことはありません。長く生きている割には記憶力はいい方ですが、忘れたり勘違いはよくあることです。そんなものに歴史が支えられているという主張に何の意味があるのでしょうか。さすがの私も、数億年近く宇宙を漂流していれば、記憶も言葉も自分の名前すらも忘れてしまいそうです。歴史家がうかがうのは、そんなアスタボスの記憶や顔色なのでしょうか。追い求めているのはアスタボスの永遠なのでしょうか。そうではなく、歴史とは客観的事実の探求であるべきではないのでしょうか。

 歴史(パハーズム)とは、古代語ではまさしく探すこと、探求、探索を意味する言葉でした。もっと語源を遡れば、足元の草を足でかき分けること、足元の砂を足裏で掃くことをパハージィーと言っていました。今でも、タイベン語では、動物が後ろ足で砂をかけることをパハスといいますし、足をすり合わせて垢を落とすことをパヒジュと言いますが、同じ語源かと思います。今の私には足はありませんが、自分が立っている足元を探求することが歴史なのです。私の記憶を探ることが歴史ではないのです。

 足元から掘り出した事実、客観的事実だけでは、歴史学と呼ぶには足りません。事実と学説の均衡が重要なのだと思います。均衡と言うと、アビナ教(この世界の代表的な宗教の一つ。天秤がシンボルであり、商人の宗教と称される。均衡と遍在を尊重し、安定と偏在を忌避する。)のようですが、歴史学は、事実と学説の均衡を目指すものだと考えます。事実だけではあまりにも断片的ですし、学説だけではあまりにも主観的です。事実を重くも軽くもとらえすぎないために学説を考え、学説を独断的なものにしないために事実を拾い上げるのです。この営為において、私だけの記憶にどれほどの意味があるのでしょうか。

 過去にはこういうことがありました。私が歴史学を志す以前に、人魔大戦(魔王アスタボスの率いるセンタセが人間の連合軍と争った戦争のこと。ゲクーはこの戦場でアスタボスを討ち取った。)について私の知っていることを歴史学者に話したことがあります。歴史学者の名前はタン・ビースン・ディケンといいます。19枝世(枝世は後述。)ころの人で、中世史の有名な歴史学者です。彼は私に、戦場でゲクーに首をはねられ、当時はまだ難民キャンプだったタンフーに運ばれるまでの顛末を聞きたがりました。私は覚えていることを話しました。私の軍が敗れた後もドノワッが抵抗していると聞き、涙を流したと述べたことになっています。魔族は泣かないのですけどね。泣いたことになっているのです。魔王の涙のことは、当時の記録にも残っていたので、ディケン先生は自身の著作で言及しています。ところが、これから言うことは、ディケン先生は歴史的事実とは見なしてくれなかったのです。

 私が首だけとなり、粗末な台車で運ばれているとき、道の脇から大きな毒蛇が顔を出しました。私を連行していたのは、若い兵士と駆り出された難民でしたが、彼らは蛇を見てきゃあきゃあと大騒ぎをしておりました。それを見て私は、「不死身の魔王を討ち取った連中が、蛇一匹で大騒ぎするとは」と、短い首で頑張って声をはり上げたのです。それを聞いて彼らは、このような歌を即興で作りました。


 死なない魔王は武運もないし 胴もなければ怖くもないさ

 蛇は怖いよ なぜならば 毒(タノア)ある 胴(サーノア)ある どこでもいける(ミアーニャがある、ミアーニャは、住居を変える自由のこと)


 敗軍の将の私は、このような嘲笑と揶揄の中、タンフーまで運ばれたのです。これはなかなか面白い話だと思うのですが、現在にはあまり伝わっていないようです。ディケン先生は私の創作を疑ったようです。なぜなら、19枝世以前に、私が人魔大戦について話したことを書き留めた本は幾つかあるのですが、そのどこにもこの蛇の話は出てこないからです。彼は、私が首をはねられた季節にタンフーを旅行し、見つけた蛇をスケッチし、私にそのスケッチを見せて見覚えはあるかと聞いてきました。私は蛇を多分見ていないので、覚えていないと答えました。彼はとんだ徒労だったと悪態をついていましたが、先に聞いてくれれば私だって蛇は見ていないと答えたのですがね。

 このやり取り自体は、彼が書いた歴史学の入門書に掲載されています。史料の比較が如何に重要か、口承の取り扱いが如何に難しいかという一節の中に、否定的な文脈で紹介されているのです。

 この問題は、私に常について回ると言っても過言ではありません。私は千年前の生き証人、おそらく唯一の生き証人なのです。私が見たと言えば見たことになり、聞いたと言えばそうなってしまうのです。もちろん、それがただちに歴史的事実になることはありません。歴史学者は、幾つもの門をくぐったあと、ようやく皆さんに対して14枝世のころの歴史を陳述します。一方私は、フリーパスで、皆さんに対して14枝世のころの思い出をお喋りできてしまうのです。まさに今、このようにです。私はこの講演で、退屈な歴史学の理論を延々と話すつもりはありません。皆さんが聞きたいだろうこと、アスタボスやゲクーの物語を話していこうと思います。あたかもそれが歴史そのものであるように、私は語ろうと思っているのです。

 私は、このような場で、自分の来歴をしばしば語ってきました。ディケン先生のように、私の話を聞きたがる歴史家は多くいました。歴史家だけでなく、みんな私の話を聞きたがるのです。皆さんと一緒です。王や皇帝、貴族の智嚢として、その子供の教師役として、大衆を集める講演者として、私はその来歴を話してきました。そこでは人魔大戦やゲクー、センタセの歴史を語ってきました。その一部は記録され、さらにその一部が現代に残っています。問題は多々あります。記録係が適当な仕事をして、私が言ってもいないことを書き加えたかもしれません。後世の人間が余計な一文を書き加えたかもしれません。私が、聞き手へのサービスのつもりで、ありもしないことをうっかり口にしたかもしれません。あるいは王に対する忠告として、余計な教訓を挿し込んだかもしれません。何かの思惑のもとに、大嘘をついた可能性もあります。私が勘違いしていたかもしれません。忘れていたり、言うべきことを言わなかったりするのはまだましな方でしょう。皆さんは嘘でもいいから面白い話を聞きたいかもしれません。しかしここは歴史学の講演なのです。私は歴史学の学者として、背筋を正して、通説から大きく乖離しない話をしていくつもりです。もっと詳しく言いますと、過去に私が言わなかったことを、今日この場で、急に昔を思い出して、新たな歴史的事実を口にしないようにするつもりです。そんなことができるのでしょうか。まあ、やってみましょう。

 事実を丹念に拾い上げ、学説を丹念に紡ぎだすことが大事なのです。歴史を学ぶとは、歴史に敬意を払うということでもあります。そうです。敬意の話もしなければなりません。事実を捻じ曲げ、突飛な学説を振りかざし、そこに生きていた人や魔族をもてあそぶことはあってはならないことです。ところで、左手の星の歴史は、人の歴史でもあります。魔族の生き残りとしては、人と魔族の歴史とでも言いたいところですが、歴史を学んで痛感したのですが、これは人間の学問です。そもそも人間のものでない学問があるでしょうか。魔族が歴史の主役になれない理由は、多くの学者が説明を行っています。魔族の骨や遺体は残りません。魔族は何かを食べなくても生きていけます。そこらへんに漂っている魔素を勝手に吸収して生きているからです。つまり魔族は働かなくていい。だから文明を自力では築けなかった。徒党を組む必要もなかったから、おそらく独自の言葉も持っていなかった。人間の文明に接して、それを気に入ったから人間らしく振舞っているが、人間のように振舞う必然性はなかった。確かに言葉を話し、経済活動に参加し、国まで作ったけれど、それは人間の模倣であった。魔族の歴史はあり得るが、歴史の主流は人間の歴史である、と。ここには最新の研究からすると、色々と反論というか、修正すべき点があるのですが、魔族を主流とした歴史を作ろうとすると、人間の歴史になってしまうのは事実なのです。アスタボスの歴史を作れば、それが魔族の歴史になるという者もいましたが、おこがましいだけでなく、間違っています。私の自分史を語るのなら、都市内魔族(人間の文明下で生きる魔族のこと。言葉を話し、服を着て、経済活動に積極的に参加した。農村に住む魔族や盗賊として生きる魔族も都市内魔族の定義に含まれる。)としてのアスタボスを語らずにはいられません。センタセだって、やっていることは人間の真似事なのです。確かに、世界樹(大樹の魔物。根元の洞の中で喋ると、法則性のある、文字のような葉脈のある葉を茂らせる。この葉脈をもとにした文字を葉脈文字という。現在でも大きく分けて三種類の葉脈文字が世界中で使用されている。)やバイナスコ(青白い顔の人間の形をした魔族。鼻梁がなく、埴輪のように空いた目がある。葉脈文字を普及させたと言われる。)など、人間の歴史にかかわった魔族は多くありますから、人間の歴史を脱臼させることも可能なのでしょう。実際、魔族に着目した歴史書は幾らでもあります。それでも、世界樹の歴史もバイナスコの歴史も、葉脈文字の歴史も、それは人間の歴史なのです。バイナスコが葉脈文字で残したのは人間の思い出、出来事、歴史なのです。私もかつてはバイナスコ達と旅をしたことがありました。バイナスコ達が旅先で声をかけ、集め、必死に記憶したのは、人間の話すことばかりだったのです。

 私は、歴史が人間の歴史であることに不満はありません。『勇者ゲクーの冒険』のように、人間の敵役として私が現れるのにはうんざりしますが、歴史の中の私は均衡がとれていると思います。ともかく、歴史を学ぶとは、歴史に敬意を払うことなのですが、魔族として、魔族と決別した人間の歴史を敬意をもって学ぶというのは、これもなかなかアクロバティックなことです。人間にとっても、悲惨なことはいくらでもありましたから、実のところ、多くの人間にとっても歴史を学ぶことはアクロバティックなのではないかと思います。歴史を学ぶには敬意が必要ですが、歴史に敬意を払おうとするためには、歴史を知る必要があります。何事もそうかもしれませんが、これは何とも再帰的な話です。我々は、どうしたら歴史に敬意を抱けるでしょうか。ここにはもういない魔族や人間、無名の人からゲクーやピゴ(ゲクーとともに戦ったアビナ教の指導者の人間。フルネームはピゴ・トクオイ。アビナ教の指導者は、直訳すると「神の模倣を許された者」という。「差配役」と訳すのがニュアンスとして一番近いが、差配役では宗教的に聞こえないため、以降は「教皇」と訳す。「教皇」だと逆に宗教的(キリスト教的)にすぎるが、ピゴの権威を示すには適切と判断した。)を含めた、既に存在しない者たちのために語り、書き、そうすることで現実に突きつけるというつもりで歴史を考えることがあります。私は、不満はないのですが、人間の歴史そのものをうっすらと嫌らしいものだと思っているのかもしれませんが、ゲクーやピゴ達には敬意を抱いています。みなさんがゲクーの話を私から聞きたいように、私もみなさんに彼らの人となりを紹介したくてうずうずしているのですよ。そうすることで、彼らが生きた歴史にも敬意を払えているのだと思います。これは均衡状態であり、悪くはないことのはずです。


 さて、そろそろ私の自分史について話したいと思います。みなさんは、おそらくゲクーやマーメ、教皇ピゴ、エンオー(ゲクーとともに戦った魔法戦士の人間)のこと、人魔大戦のことを聞きたいのではないかと思います。今日は無理でしょうが、ちゃんと話す予定でおります。その前に、順を追って話をさせてください。まずは、私がセンタセを築き、魔王と呼ばれる前の話から。森で淑女と出会い、山城で料理を作り、兵士として死ぬことを繰り返し、バイナスコと旅をし、学問に目覚めたころの話をしたいと思います。私がゲクーに首をはねられた樹暦1388年に至るまでの話です。


 私の生まれははっきりとはわかりません。人間と同じく、生まれたばかりのころは記憶がなかったからです。発見されたのは、センタセ大陸でもっとも緑豊かなノボーグス地方のティアウピの森の小さな沼のそば。発見したのはヅォナオフのモーチェ。ノボーグス地方を治めていた貴族、アムジナ辺境伯(辺境伯と訳した。中央の支配勢力と協力関係にあり、貴族身分を与えられた地方の大豪族を指す。)の妻です。時代は樹暦1128年の秋。アムジナが夏に突然亡くなり、後継者争いが激化しつつあったころです。この争いの当事者は、モーチェの義理の弟(ハカト)と実の息子(ヅォナオフのセンテムク)でした。どちらにも組したくなかったモーチェは、両陣営から利用されるのを恐れ、信用していた庭師の山小屋に隠れていました。それがティアウピの森だったのです。モーチェはノットという名のシルバーゴーレム(体が銀に似た物質からなる石の魔物)を一凶だけ連れて、自力でセンタセの短い冬を越そうと尽力している最中でした。彼女は庶民に近い出自でしたから、辺鄙な場所でも平気で薪を割り、食料を蓄え、火をおこし、寝床を用意することができたのです。なお、ここらへんの話は、まるで覚えているかのように話していますが、そうではありません。モーチェの詳細な日記が残っているため、このように話せるわけです。いや、森の雰囲気やシルバーゴーレムの存在感、羊皮紙に向かって何かをしているモーチェや、書かれたモーチェの小さな文字のことは何となく覚えているのですが。

 ちなみに、私をアスタボスと名付けたのがモーチェです。アスタボスという名前自体は、ノボーグス地方の昔話に出てくる不死の魔物の名前です。その昔話の描写によると、アスタボスは真っ赤な体毛に覆われ、輝く鹿の角を持ち、目からはすべてを殺す光を放ち、腹には大きなサメのような口が開いている、不死身の、大型の魔物だそうです。世の中には私が赤く、その頭に輝く鹿の角が見える困った人間がいるようで、昔話のこのアスタボスが魔王アスタボスそのものだと言い張る者も少なからずいました。だからアスタボスは樹暦1128年よりもっと昔から存在したのだというのですが、学問的には端的に言って裏付けのない話です。この世の始まりからアスタボスは存在するという主張に至っては、狂気の沙汰かと思います。

 モーチェの日記によると、私は熊に襲われて死んでいたのに、しばらくすると生き返ったそうです。魔族には栄養がないので、言い方を変えると、魔素は生物の必須栄養素でも何でもないので、動物に襲われて死ぬ魔族というのは珍しいのです。自分でいうのも何ですが、私も熊も間抜けな感じすらします。魔物は死ぬと魔素に分解されますが、私の場合は、魔素に分解されずに、魔素によって再生成されます。モーチェの書き方から推測すると、モーチェは私が復活する一部始終を見ていたようです。私は、例えば体が欠損すると、それがどれほど大きな欠損でも、周囲の魔素を生成して自動的に回復します。体がバラバラになってもくっつきます。今の私が首だけなのは、体をピゴに石化された後、ゲクーに首をはねられたからです。私の首から下は、今は六つに分けられて、それぞれの魔法研究所に保管されています。ここら辺の話は、スダン・パッケン先生の労作、『魔王の体はどのようにして七姉妹のもとへやってきたか』が素晴らしい参考文献となるでしょう(七姉妹とは、世界に七つある魔法研究所のこと。)。当初は不可能でしたが、今では、元の体に戻ろうと思えば戻れるのですが、魔素の物質化は建前上禁止されていますので、首だけの生活をしているのです。各地域の研究所は、私の体でもって不老不死の研究をしています。人間を不老不死にするという研究です。人間を魔族化する研究は、小説や映画でおなじみのテーマではないでしょうか。愚かなことかと思いますが、私の在籍する海極点の研究所でも、不老不死についての研究を行っているので、強くは言えないのです。こんなことばかりに予算が付くのですよ、まったく。

 私みたいな大型の魔物で、言葉を解さず、服を着ていないものは、人間にとって危険な存在です。今の私は顔だけですが、その全身の大きさはなんとなく察してもらえるかと思います。大型の魔物は、悪意がなくても人間を害することがあります。文明化されていない魔族は、人間を意図して襲うことはありません。ただ、狂って暴れて殺すことと、興味をもって近づいて、うっかり殺すことはよくありました。魔物の種類にもよりますが、腕力や膂力が人間とは比べ物にならないほど強いからです。モーチェもそれをわかっていましたから、当初、森を徘徊する私とは距離を取っていたようです。なお、ノットに頼んで私を排除したような記録はありません。彼女は、隠居した理由もそうですが、無駄に誰かを傷つけることが嫌いな性分だったのでしょう。

 私とモーチェの距離が近づいたのは春でした。後継者争いは終結の目途が立っていませんでした。ティアウピの森は、春から夏にかけては有害な蚊やらヒルやらが大量にわくため、モーチェは別の隠れ家に移動する必要がありました。その移動に私も連れていかれたのです。モーチェは、「大人しい。狂っていない。人に危害を与えない。なぜか死んでも生き返る。ノットさんと異なり水辺での作業に不適ではない。」と述べています(モーチェは日記の中で、ノットに対しては魔族に対する敬称「ミシャ」をつけて、ミシャ・ノットと呼んでいる。)。重量のあるゴーレムは、水辺での作業は危ないから不適だと言っているのです。魔素は水には溶けませんので、水の中に長時間いると魔族は死にます。水底の泥の中深くであれば多少の魔素はあるかもしれませんが、水中は駄目です。当時は水に浮く魔法も水の上を歩ける魔法も普及していなかったので、魔族にとって水辺は恐ろしい場所だったのです。ちなみに、私は水に沈むだけでは死にません。私は魔素の供給がなくても、自分を生成していた魔素の再構成だけで生き続けることができるからです。あと、陸上の魔族にしては、意外と泳ぐのも得意です。顔だけとなった今でも、そこそこ泳げます。今でも気が向けば海極点の氷の海を泳いでいます。体毛を動かして泳ぐのですが、微生物みたいだと言われて気持ち悪がられます。

 モーチェは、おそらく水汲み要因として不死の魔族を森から連れ出したのだと思います。モーチェの移動先はコユエビニ地方にあるコユエビニ山の山小屋でした。そこは冬になるとうっすらと雪が積もる程度の標高がありました。私はそこで、モーチェとノットとの一人と二凶で暮らしました。話し言葉もそこで教わったようです。コユエビニでの生活は、私にも記憶が残っています。私は水汲み、薪割り、火起こし、そして魔法と言語の教育を受けて過ごしました。料理に興味があるとモーチェの日記には書かれています。また、このころ、落石で一回、滑落で三回くらい死んだようです。ノットからは回復魔法を教わったらしいのですが、私はついに習得できなかったそうです。狩りは下手で、一匹の獲物も取れなかったそうです。山菜取りは好きだったようです。狩りが下手だった記憶はありませんが、山菜取りは確かに好きでした。そんな記憶がありますし、何なら今でも好きかもしれません。七百年近くやっていませんけどね。

 また秋が来るころには、ノボーグスの跡継ぎ騒動も下火になっていました。王の本格的な介入を忌避した家臣団が、息子を支持して叔父を軟禁したのです。モーチェは山を下りました。なぜか私もモーチェの住居へと連れていかれました。私はこのときから都市内魔族として生きることになります。

 辺境伯の即位式の場に、なぜか私も立ち合いました。当時の書類に記録が残っています。式に参加した魔族は、私とノット、衛兵が三凶、それに宮廷魔法使いが一凶、王の官僚が一凶、近隣の国や貴族の大使が二凶です。当時から、魔族は人間の社会に深く関与していたことがわかります。式での私は、当時の使用人がかしこまった場所でよく身に着けていた、赤く染めた麻のローブをまとい、三角形の赤い頭巾をかぶっていたようです。人間のものでは大きさが合わないため、特注品が用意されました。特注品を用意したため、当時の辺境伯の物品購入目録に記録が残っているのです。

 私はモーチェの使用人としてしばらくの間だけ働きました。今はもうありませんが、ノボーグス地方のトブ・アムシウ城(巨鰓城)というお城です。たった数年ほどの間です。私はモーチェやその使用人たちから、ミシャ・アスタボスと呼ばれるようになりました。トブ・アムシウでは、モーチェとその客人を大きめの舟に乗せて、私がオールを漕ぎ、その城の名のとおり大きな魚を釣り、料理をしました。私は護衛のようなこともやらされており、武器の扱いもこのころに教わりました。私は歌を教わり、楽器を教わりました。ノットが使えなかった大型の竪琴を渡され、わけもわからず練習しました。この楽器は鳥のさえずりと関係があると思い、枝にとまる鳥のさえずりをじっと聞いていたこともありました。旅の吟遊詩人が即興で辺境伯の服装の見事さを歌ったとき、私は体の中の魔素が熱を持って大きな一つの塊になったような、強い衝撃を受けました。その歌そのものはもう覚えていませんが、熱心に華美な言葉と竪琴の練習をしました。貴族階級の所作も、このころに学びました。中世初期の人間は野蛮であると言われがちですし、実際そのとおりの部分もあるのですが、身分の高い人々は、平時においては、それなりに洗練された立ち振る舞いをしていたと思います。

 樹暦1131年の冬に辺境伯が死にます。諸説ありますが、私は病気だと思っています。急死したと書かれた本もありますが、数か月前から辺境伯は下痢気味でしたし、食事の量は減っていました。顔は土の色をしていましたし、辺境伯本人も体調不良を自覚していました。そのことは使用人の間で話題になっていました。毒殺されたという説もあります。使用された毒薬を特定している歴史家もいますが、当時のノボーグスに、ああいう症状を起こす毒があったかは疑問です。

 後を継いだのは軟禁されていたモーチェの叔父です。叔父はただちに辺境伯に就任し、簡素な式典が開かれました。私はこの式典にも参加しております。このときは、宮廷料理人の助手として参加しております。熱くて重い鍋を扱うのに、魔物は適任だったということでしょう。それに魔物は疲れませんし、寝る必要もありません。ですので他の用にも役立ちますが、長時間の祭典を任せる料理係としても最適なのです。私は料理も好きでしたので、自分専用の調理道具を持ち込んで仕事をしました。

 当時の料理は、それほど洗練されたものではありませんでした。アビナ教徒が鼻白むような黒いパンと黒っぽい葡萄酒、深い夜のような濁った黒ビール、白身の川魚に茶色い香草が振りかけられ、白いカボチャのスープに白いナカーギュ(葉野菜の一種)と真珠色のトウモロコシがたっぷりと入っていました。テーブルには黒コショウと黒砂糖が積まれており、炭で焼いた赤茶色い熱々の肉がスライスされて皿に並んでおりました。添え物は塩をかけたトゥクエン(ウリ科の野菜)がたっぷりと。皿やスプーンも、黒いテカテカとしたタカンの木をくりぬいた簡素なものでした。テーブルや椅子については覚えていませんが、テーブルクロスなんて洒落たものはありませんでした(アビナ教は、色彩豊かな食卓を好む。色の偏りがあるのを嫌うためである。)。

 経緯は忘れましたが、私はその後、叔父殿の命令により、僻地の山城で料理長として働くことになりました。式典から三年後のことです。モーチェは強く反対してくれましたし、私もモーチェのそばで働きたかったのですが、この希望はかなえられませんでした。私はモーチェとノットに別れを告げ、赤いローブと頭巾を返し、自分専用の調理道具を背負い、徒歩で新しい職場に向かいました。これがモーチェやノットを見た最後となりました。


 新しい職場はトマン城と呼ばれていました。私は人間の部下を一人従えて、常駐する十五人の人間のために、食事二食とデザート一食を毎日作る報酬として、三日で銀貨一枚という待遇で働き始めました。これは当初のころの話で、後にはもっと人が増えました。もらえる銀貨は増えませんでしたが。近くには森があり、川があり、沼がありました。森の枝や動物、川や沼の魚は、辺境伯から許可を受け、合法的に狩猟、採取を許されていました。取りすぎると怒られました。城主はモタニートという初老の男性でした。貴族に長く仕えた庶民出身の男で、城の管理よりも戦いに興味があるタイプの城主でした。トマン城は、私がいる間は一度も戦場になりませんでしたが、モタニートは戦の準備を怠りませんでした。私は文字が読めましたので、食料の管理は得意でしたし、言葉使いは貴族のそれでした。寝ずに働くこともできましたので、夜の間に森に入り、朝目覚めたら壺にいっぱいに木の実を詰めこんでみせたこともあります。モタニートからは信頼されていたと思います。料理の味も、まぁ、使っている材料から考えれば、悪くはなかったのではないでしょうか。私自身は必要がないので、それほど自分の料理を口にはしませんでしたが。

 私はトマン城で十一年間働きました。このころ、モタニートから回復魔法を習得しました。ようやくです。私の魔法は、モタニートがそうだったため、歌を聞くことで発動します。映画(「魔法使いの黒」)の印象が強いようで、魔王アスタボスは歌を歌って魔法を発動すると言われていますが、そうではありません。自分で歌っても魔法は発動はするのですが、正確には聞くことが合図となります。他人の歌でも発動します。歌でなくても楽器でも発動します。現代は音楽にあふれていますので、何かの拍子に魔法と紐づけられたフレーズが聞こえてきそうでドキドキします。本当ですよ。ですので、「魔王の歌う世界史」というこの講演のタイトルは、私の魔法と関連付けたいのであれば、「魔王が耳にした世界史」とした方が事実に近いのですよ。いや、実際、学問とは受動的なものではないでしょうか。巨大な真理に吐息を吹きかけられて学説をひらめき、巨大な真理の呼び声に惹かれて史料を見つけるのではないでしょうか。それを歌うことだと勘違いしている、というところまで考えてタイトルが決められているのなら感心します。それは、まぁ、ともかくとして、歌による魔法の発動は、私の趣味に合っていました。私は、暇を見つけては魔法を覚えました。すべて基礎的な魔法でしたが、自分には魔法の才能があると気が付きました。人間と比べれば、の話です。上には上がいくらでもいると知るのはまだ先の話です。この間にモーチェは老衰でなくなり、ノットは歴史から姿を消しました。どちらも後から知ったことです。叔父殿はトマン城とは逆の地域、よりによってノボーグス地方も含む周辺地域を支配している王(ガエバ・ヌ・サアン王)の領土へと侵攻していました。

 私の不老不死は、別に秘密ではありませんでした。モタニートは最初から知っていましたし、私の部下たちも私が伝えていたので知っていました。モタニートは、不死を確かめるため、私に切りかかるようなことはしませんでした。後世には、ヘラヘラ笑いながら私の頭に鈍器を叩きつけた子供もいるのですが、このころの人間は、血の気は多いし理不尽ではあるし、人の命も妖精の羽のごとく軽かったのですが、私を面白半分に殺そうとしたものはいませんでした。それに、私を戦場に連れ出そうとするものもいませんでした。歴史的には、都市内魔族が積極的に戦場に現れる時代ではまだありませんでした。都市内魔族には戦場に向かう動機がなく、都市内魔族と生活を共にする人間の方にも、魔族を人間の戦争に引っ張り出すことに負い目のようなものを感じていた時代です。私はそう考えています。魔族が戦場に現れるのは、もう少し先の時代の話となります。

 十一年目にモタニートは流行り病で死に、別の人間が城主となりました。この別の城主も流行り病で死に、ほかの兵士の多くも流行り病で死にました。近くの村も流行り病で滅びました。トマン城は城としての機能を果たさないまま無人となって放置されました。住んでいた人が死ねば、この山城も死ぬのだろう、建物も死ぬのだろうと思っていたら、事実、トマン城は後に廃墟になりました。 


 叔父殿は私のことを忘れていたわけではありませんでした。私は叔父殿の命令により、コユエビニ地方に異動となり、料理長兼警邏隊長となりました。私の料理の腕と魔法の腕、ついでに武術の腕が認められたのです。このころのコユエビニ地方は、人と魔物が盗賊として出没していました。叔父殿やその敵である王が周辺を荒らしたためなのですが、ともかく、治安は悪化していました。

 コユエビニ地方を治めていたのは、叔父殿の親類で、つまりはモーチェの遠縁の男でした。名前は忘れました。この男は傲慢で無能な若い貴族であり、領地の治安維持に何の関心もない男でした。私は町の近くの森の近くにある官衙で、野菜を育て、狩りをし、食料を保存し、料理を作り、旅人の要望や噂話を聞き、領民の歎願を聞き、敵国の情報を収集し、馬を飼い、武器を揃え、魔法を集め、兵士を鍛え、兵士の世話をし、兵士を巡回させ、道を整備し、地元の有力者に媚びを売り、無能な領主を説得して金を絞りだし、野菜や薪を売って金を絞りだし、辺境伯直下の関所に掛け合って金を絞りだし、木の板に読まれもしないレポートを書いて上司に報告していました。私はいつの間にか役人になっていたのです。

 当時の都市内魔族が人間の社会で出世するルートは、主に三つあります。魔法使いとして、賢者として、そして戦士としてです。私は戦士としてまず評価されました。出世によって与えられる、地位も名誉も金銭も住居も美食も服飾も何もかもが、本質的には魔物には不要なものです。それでも魔族が人間の社会で暮らす理由は、その文明が快適だからです。あるいは、知的好奇心を強く刺激するからです。あるいは、都市の中でない場所で生きる自分をもはや想像できないからです。あるいは、そこに住む人間と強い紐帯で結ばれたからです。要するに理由はなんだってあるのです。「アスタボスは、貴族の付き人から都市に入り込んだ珍しい事例ではあるものの、人間の勤勉さを内面化し、働くことそのものに意義を見出していく典型的な都市内魔族であった。」とキズ・ベウヘウノ・スカン先生は『中世の都市内魔族』の中で言っています。珍しいと言っていますが、王や王女に拾われた魔族というのは、歴史上に散見されます。有名どころでは、世界で初めて世界地図を作った小人のハシーと怪鳥のボスムア・ガイは、幼い王子と王女が森の中で助けたものだとされています。この話は、信憑性の低い物語調の歴史書に書かれてあることですが、小人と怪鳥が地図を作り、王に献上したのは確かなのです。ほかにも、テッセンの老王が、ケガをしたデミドック(犬の姿をした魔族のこと。)を助け、育てた話もありますし、タイマ・グ・ンズニャの大王は森の中で暴れていたオーク(豚の顔を持つ人型の魔物)を生け捕りにし、自分の部下としています。トバーシャニー地方のパスヴェイヌは、上皇と呼ばれる高い位置にある老人でしたが、領地に出没していたアラクネ(蜘蛛の体を持つ魔物。上半身は女性のように見えることが多い)を引き取り、ペスタと名づけ、自ら言葉を教えています。また、マウクネの多くは、領主が一から育て上げたものです(マウクネは、執事魔族と訳することができる。なお、マウクネは役職名であり、特定の魔物の名前ではない。一般的に人間よりも長寿である魔族が家政の中心となり、偉大な祖先の名のもとに家族経営を指揮し、長期間、何世代にも渡り、一族を補佐又は実質的に支配する。)。マウクネについては聞いたことがあるでしょうか。中世史を学ぼうとする者には、マウクネの残したノートは宝の山なのです。世界中の図書館や古本屋や名門貴族の屋敷をあさって、未発見のマウクネノートのページを開くことこそ、歴史学者の醍醐味の一つなのです。

 話を戻しまして、叔父殿の侵攻は滞り、逆に王から領地内に攻め込まれることが多くなりました。コユエビニ地方は何度か戦場になり、無能な領主は自宅で酒をあおり、私は地位のある者として戦場と化した領地内を駆け回りました。私は大きすぎて馬に乗れません。地位が高いのに、自分の足で駆け回ったのです。あまり思い出したくない思い出ですが、最初に酷い目に会ったのは、叔父殿を裏切った将軍とその兵を討伐する作戦のときです。その将軍がコユエビニ地方に逃げ込んだため、私が討伐することになった、という話です。人間の将軍ですので、一対一の力勝負なら絶対に私が勝ちます。しかし、将軍ともなれば、使う魔法も盗賊の比ではありません。魔物を戦場で的確に殺せる魔法を覚えています。魔力も俗人の比ではありません。私は馬に乗った将軍に翻弄され、部隊の指揮もままならず、糧秣を奪われ、挙句に魔法の矢で射貫かれて殺されました。一日に十一回は射殺されて、糧秣は各所で四回以上奪われ、村に火をつけられ、やりたい放題されて、そして結局逃げられたのです。

 魔法だから負けたのだと思えればよかったのですが、別の戦では、複数の敵兵の槍に突き殺されたこともありました。これも一度や二度ではなく、何度も同じやり方で殺されました。訓練された人間の兵士達というのは、軽んじることができないのです。対処法を知らないのであれば、私は足の遅い戦士に過ぎません。私は、人間の部下を殺されるよりましだと思っていましたし、何なら部下の方も私が死んだほうがいいとさえ思っていたかもしれません。ひたすら領地を守る日々が続きました。私が頑張って死んでも結局部下は死にますし、領民も死にますし、生活は壊されますし、領主は酒を飲んでばかりですし、叔父殿からは大したことのない指示が大幅に遅れて届くだけですし、生き返るとはいえ死ぬのは痛いですし、敵兵からは酷いことを言われますし、料理道具は壊されたか盗まれたかしてなくなるしで、戦争に直面した多くの都市内魔族がそうであったように、私も辟易として、人間社会からほんの少しだけ離れる決意をします。コユエビニ地方はしばらく戦火に焼かれました。このさほど豊かではない地域は、なんとか叔父殿のもとに残りました。王の恩赦というやつがあったのです。領主は自宅を焼かれましたが、それでも酒を飲み続けて、ついに失脚しませんでした。私は墓の掘り方が上手になり、火の消し方が上手になり、敵の気配の探り方が上手になり、武器の扱いに達者になり、兵士の率い方を覚え、ますます領民の信頼を勝ち得ました。また、魔法を防御する魔法の重要性を強く実感するようになりました。私は、魔法がどうやって生まれるのかを知りませんでした。周りに知っている人はいませんでした。生きるために、魔法の知識は必要であると思いました。叔父殿は老い、そして戦場で倒れました。私の知らないところで辺境伯の座が争われ、私の知らない女性が後を継ぎました。休戦するという噂がコユエビニ地方に広まりました。実際、叔父殿が死んだあと、王の軍勢は大して襲ってこなかったのです。私の自宅は半壊し、兵士たちの療養施設となっていました。領主の自宅はさっさと修繕されました。私は、槍と、わすかに残っていた銀貨を残して、後任の者を推薦し、飼育していた馬の性格をしたためて、コユエビニ地方から姿を消しました。樹暦1153年のころです。


 さて、ここらへんで休憩としましょう。私は疲れていませんがね。

 休憩中、アスタボスに近づこうとして数人の聴衆が壇上に上がろうとするが、警備の者に制止される。この聴衆は、以下のようなことをタイベン語で述べた。自分は不死の王による宗教の信者であり、ミュカトーニャに入国できなかった教祖に代わりやってきた。神にして王であるアスタボスから、是非にお言葉を持ち帰りたい。我々は迫害されている。我々は不死のために祈っている。あなたに対して祈っているのだが、それだけでは不安である。信徒に対して御稜威は及ぶのか。

 壇上のアスタボスは答えなかった。訴えかける聴衆は、警備員に講堂から連れ出された。

 休憩は終了して、アスタボスは話し始める。

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