2
音声は女の声で再生された。急いで吹き込んだものと見えて、そこかしこに吐く息や咳払いによるノイズが混じっていた。
持ち主からの連絡に僕は恐怖した。何より、自分の個人情報が知られていることに対して、僕には処置の方法がなかった。僕はこの遺失物の所有者について何らの情報も持っていなかった。向こうはこちらの情報を知っている。僕にメッセージを送っている。僕にとってこのことは恐怖でしかなかった。
この鞄をずっと家に置いておくわけには行かない。警察署へ届け出ることも出来なくなった。
メッセージには女の言う「あの店」の位置情報が添付されていた。それは昨夜僕が歩いていた通りからさほど離れていないところにあった。
夜になって僕は添付された位置情報の案内に従ってその店に行った。向かっているうちは脅されたような気分だったが、建物の前までいくとなんてことはなかった。そこはいつもよく行くような、いくつものバーや居酒屋のテナントが入る雑居ビルだった。
店はそこの三階だった。ビルの前の警備兼ボディガード兼案内役のアンドロイドも行政に登録された機体だった。
僕はそのアンドロイドの案内を受けずに店に来たから、店の前で同じ位置にある店を案内してもらうことで得られる情報をなにひとつ持っていなかった。
アンドロイドの案内を受信すると店名や経営者の登録情報を照会することができた。登録上は、その店は何ら不法行為が行われるような店舗には見えなかった。
薄暗い店内はよくあるバーの形式だった。入り口は狭く、店は奥に広がっている。何かBGMがかかっていたが、小さすぎてよく聞き取れなかった。僕を迎え入れたのは店主の男――登録情報に顔写真が載っている――だった。
「おひとりかい?」と店主は言った。
「いえ、待ち合わせなのですが」僕はなるべく不安が見えないよう取り繕った。
それで何を了解したものか、店主が「ああ」と言った。
「お連れさんならもう来てますよ。奥です。ずっと、突き当たりまで言ってください。303と書かれた個室がありますから」
店主の言うとおりに店の奥へと進み、三つある個室のうち言われたとおりの数字が書いてある扉を開けた。
中には女が一人だけだった。部屋は狭く、真ん中に大きなテーブルがあった。ソファがL字型に壁に付けて置かれていて、女はソファの手前側に座っていた。
僕は何か脅されるものと思っていたから、拍子抜けして、気が緩んだのか表情がおろそかになった。
入ってきた僕を一瞥すると女は「随分と若いかただったのね」と言った。
若いかた、という女の表現には違和感を感じた。女は見るからに十代か、見た目だけがどんなに若いにしても、せいぜい二十代前半に見えた。それに僕はもう三十を超えている。
「若いって言われるほどの年齢でもないんだけど」
「そう? そうは見えなかったから」
「君は、随分と大人びているね。えっと――」
「私はマリ、あなたはオガタね?」
僕は頷いた。
「大人びてるって私のこと? そんなふうに言われたこと、いままで一度だってないけど。そんなところに立ってないでこちらに座ったらいかがかしら」
言われてから自分がいままで扉の前でずっと立ったまま話をしていたことに気が付いた――しかも扉を開け放したままだった。
「まさかバーに入って何も頼まないなんてこともないでしょう?」女はテーブルの上に置かれていたメニュー表を差し出しながらいった。メニュー表は冊子になっていて、茶色い革でできたカバーがされている。
僕はこのときすでに気圧されていた。メールを見てからというもの頭を悩ましていた不安は一切取り払われないまま、現実はどこも不安なこともないような状況が続いているからだ。私はこの店には屈強な大男――そういう見た目の不法なカスタマイズをされたアンドロイド――が待っているものと思っていた。それが現実は華奢な女が一人いるだけである。
「ああ、そうしたら――」女に促されるままに注文を決め、店のネットワークに接続して注文を送った。注文は給仕ドローンがすぐに持ってきた。女も注文していたようで、ドローンが持ってきたのは二人分のアルコールドリンクだった。
僕が座ると女は席を詰めてきた。マリと名乗る女はほとんど触れるような距離にいる。
「乾杯しましょう」女が言った。
一口飲むと不思議にも緊張がほぐれた。考えてみれば、見知らぬ女と乾杯していること自体は緊張を強いられる必要のないことだった。昨日もこうしてアルコールを伴って知らない人々との会話を楽しんでいた。多少の不法な代物はこういう街にはつきものじゃないか、そう思った。
二口目をグイと勢いを付けて中の液体を飲み込んだ。
「荷物、持ってきてくれた?」女が言った。
「ああ、それなら」自分の鞄から昨日拾い上げた遺失物を取り出して女に渡した。「勝手に持って帰ってしまったみたいで、ごめんなさい。昨日は酔っていたのかも知れない」
「ありがとう。いいのよ、気にしなくて。楽しんで飲んでいたもの。ね?」
「そのとおり。酒を飲んだら楽しまなくては」
「そうよ、だって楽しむために飲むんだもの。ねえ、あなたのこと呼び捨てにしてもいい? その方が親しく思えるから。そのかわりに私のことも呼び捨てにしていいから、ね?」
会話が弾んでくるとアルコールを飲むペースが上がった。二杯目を注文して、すぐに届けられた。ドローンは再びアルコールドリンクを二杯持ってきた。女も何か注文したようだった。
「あなた結構飲むのね」と女が言った。
僕はこの場では女が用意した設定を忠実に守ることに決めた。
「昨日、一緒に飲んだときも同じ事を言っていた。あなたから同じことを言われるのはこれで三度目だよ」
「私は昨日、二度も同じ事を言ったわけ?」
「そう。あなたは忘れてしまったのかもしれないけれど、僕はちゃんと覚えている」
「なるほどねえ」女は陽気な声を出した。「そしたら、この鞄の中に入っているものについても、私何か言ったんじゃないかしら?」女はそう言った。
女は先ほど渡した鞄の口を中身を見せるようにこちらに向けた。
「ある種のドラッグ、なのだけれど。イリーガルってわけじゃないのよ。それに身体に悪くもない。むしろ良い作用を及ぼすの。それで――」
「冗談はやめてください。それともあなたは本当にそのドラッグを使わなくちゃいけないような、何か事情を抱えているのですか?」
「事情なんかなくたっていいのよ。ねえ、あなたも使ってみない? あれ、この話、昨日もした?」
「その話はしていなかった」
「いいえ、したはず。酔っ払っていて、覚えていないだけよ。それに――ああ、そう! 私たち、ずっと以前から友だちじゃない!」
――マリア! そんなはずはない! と大声で言いたかった。
「そんなはずはない。と思ったかも知れない。けれども、私はあなたのことを知っているもの、それもプライベートなことを色々と。たとえば、あなたは――」
それから彼女は僕が日頃行っているいくつかの習慣を言った。
「驚いた顔をしているわね。でも大丈夫よ。すぐに思い出せる。ねえ、口を開けて」マリは私の唇をこじ開けると頬の裏に星形のインプラントを打ち込んだ。
僕の記憶はそこから混濁しはじめた。思い出せるのはここまでで、あとはそれが夢なのか現実なのかすらわからなかった。あとには、すべてを手に入れたような全能の感覚だけがあった。
(3へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます