第6話
5月25日。
通勤・通学ラッシュのタイミングを外し、普段通り早いタイミングで登校を達成した。朝は辛い。過分に早起きしてしまった時間、今から寝てしまってもいいくらいだ。
数分おきに繰り出される欠伸で顎を痛めながら、昇降口で靴を履き替えたところで下駄箱の前にあるものが目に入った。
生徒が使う机の上に綺麗な花が生けられた花瓶。
「こんなところにあったっけか」
花瓶ならどこでも置いてあるし、いつもなら気に留めることなく通り過ぎていたところだが何故かこの花は目に留まった。
青紫の花弁に細い茎。ただ綺麗で学校の花壇に咲いていても特段違和感のない普通の花だ。
何が気になるのだろう。花瓶の形?
透明なガラスでできたボトル型。平均的な大きさでありながら適度に強い主張を感じる。シンプルすぎて逆に目立つというか。何かこの花が俺に訴えかけてくるような……。
花瓶を持ち上げてみる。
「……水入ってないじゃん」
誰が花を生けたんだか。植物にとって水分の枯渇は死を意味する。枯渇で死活問題だ。善意で花を生けたのだろうか水を与えないとは植物好きとは思えないな。
このまま枯れ行く様を見るのもなんだか忍びないので階段前の水道へと花瓶を運ぶ。
早朝にも関わらず水道は既に人が使用していた。階段が近いこともあり使用頻度は比較的高いため、なんら不思議なことじゃない。しかし、よく見ると使用している様子はなく別の人と会話しているようだった。
近づくとまた頭が疼く。発作によりこれがまた会話でなく口論であると気づく。
「だから俺じゃねえって!」
「なら、なんであそこにいたんですか! こんな時間に不自然です」
「関係ないだろ、お前に!」
水道の前にいるのは青篠先輩だ。そして、階段の角で言い合っている相手は俺と同じクラスの根武家佳穂だ。意外な組み合わせに俺は足を止める。気分屋で怖い先輩とクラスでもあまり話したことのない女子。どう声をかけていいかわからない。というか巻き込まれたくない。
別の水道を利用しようと一歩後退りをしたところで青篠先輩に気づかれた。
「お、おはようございます」
「ちっ……よお。戸波、お前からもなんか言えよ。こいつうざすぎて話になんねえの」
何の事情も知らないのにいきなり仲間にさせられた。数的優位にするにも強引すぎる。加勢するにも理由がないと。
「話にならないのはあなたの方ですよ。私の質問に答えてください」
一方の根武家も譲る気はない。
珍しい。彼女のことをよく知っているわけではないが比較的穏和な印象を持っている。誰かを注意しているところは初めて見た。
「何かあったんですか?」
「知らねえよ」
知らねえのかよ。ならこっちも知らねえよ。
俺は心で舌打ちをする。
すると今度は根武家が質問してくる。
「戸波くんはどうしてここに?」
「今しがた登校したところ。あと、ついでに花瓶の水補充」
花瓶から花を抜き、蛇口を捻り水を流す。さっさと離れて教室へ向かいたいが二人の口論の内容も気になるところ。花瓶に水を溜める作業に集中することで関与せず聞き耳を立てられる。
「何、お前こいつと知り合い?」
そんなのお構いなしに青篠先輩は俺を巻き込む。
「同じクラスっす」
「なら俺の代わりにこいつの相手頼むわ。なんか変な因縁つけられて困ってんだ。お前好きだろこういうイタイ女」
どんな偏見だ。勝手に好みを決めつけて当てがうなんて先輩として品がなさすぎる。そして、根武家にも失礼だ。
「戸波くんなんかと話すことなんて何もありませんよ。私はあなたに聞いているんです!」
根武家も根武家で、正論なんだけど俺が傷つく言い方をやめてほしい。蚊帳の外なのはわかっているけど邪険に扱われるのは癪に触る。
「だから俺は何も知らねえって。疑ってるようだけど俺が何かしたって証拠があんのか?」
「なら何故あそこにいたんですか。後ろめたいことがあるからここまで逃げてきたんでしょう」
「関係ないだろ」
どちらも一歩も引かない。論理的な分根武家がやや優勢か。
「言わない限りあなたの無実は証明できません」
「うるせえなあ!」
ここで一番の大声をあげた。空気がピリつき俺の頭にもガンガンと衝撃がくる。
あー、キレたわこれ。先輩の沸点が低いのはよく知ってる。
手を出すことだけはどうしても止めなければならない。相手は女子だ、ただじゃ済まない。しかし、その思いも届かず先輩の手は隣で水を溜めていた花瓶へと伸びる。
それはまずい。
俺は咄嗟に気づき花瓶を掴もうとするが既に俺の手の届く範囲から離れてしまっていた。
と、思ったら花瓶はすぐに俺の目の前に現れる。勢いそのままに花瓶だけが動きを止め中身だけが俺の顔面向けて飛んでくる。当然、反応などできるはずもない。俺は正面からそれを被った。
「……え、なんで?」
ただただ困惑することしかできない。ぽたぽたと顎先から水が滴る。
「むかついたから。お前が止めろよ」
俺にむかついてたの? 止めろって言われてもまだ何も話聞いてないのに?
唖然としたまま手に持ったままの花を見つめ頭の中を整理する。
「そうですよねー。女子には手を出せないから俺にきますよねー。先輩紳士ですもんねー。でも、その思いやりを少しでも俺の方に分けて欲しかったなーなんて」
「は?」
「なんでもないです」
言い返したい。言い返したいけどその後が怖くて何も言えない。ここは花瓶で頭を殴られなかっただけ良しとしよう。
「戸波くんは関係ないと言ったはずです。先輩、私と会話してください」
「──もうやめろ根武家。それ以上追求しても俺がよりびちょびちょになっていくだけだ。話は俺が聞く。先輩はもう戻って大丈夫です」
「最初からそうやれよ」
迫真の訴えに根武家も気圧され先輩をここから引き離すことに成功した。去り際に食らったケツキックは無かったこととして先輩はどうにか満足してくれた。
少しは距離が縮まったのか。格下の位置を確立したことで嫌われ妬まれの感情は薄まっている。
「ごめん、戸波くん。何か拭くもの持ってる?」
ずぶ濡れの俺を根武家が心配する。まあ、二割くらいは彼女の責任でもあるし罪悪感は持っていてほしい。
「……タオル部室だ。教室に何かあったかなー」
拭くものといえば雑巾くらいしか思い出せない。雑巾では……想像しただけでも嫌だな。
「私も今、ハンカチくらいしか持ってないや。よかったら音楽室来てくれない? タオル貸せると思う。それに見てもらった方が早いと思うし」
「何が?」
「聞いてくれるって言ったでしょ?」
ああ、それか。正直に言うと結構気になっている。
ひとまず、なけなしのハンカチで顔を拭き音楽室へと移動する。確か今は吹奏楽部が使っている時間帯。隣りにいる根武家佳穂も吹奏楽部だったことを思い出した。
「そういえば朝練終わったの?」
「うん、途中で中止になった。それも関係していることなんだけど。戸波くん、昨日の朝礼で先生が話したこと覚えてる?」
「あの、図書室の窓ガラスに悪戯されてたって話? 犯人はまだ見つかってないらしいけど……まさか──」
今ホットな話題だ。珍しくカンが働く。
「うん。音楽室もやられたの。多分同じ人。図書室の犯行を目にしたわけではないけど聞いた噂通りってことはそうでしょ」
音楽室の入口を開き俺に入るように促す根武家。
中には吹奏楽部と思われる部員が数人と顧問の先生が集まっていた。
「こっち」
部外者が入り込んだことで一瞬注目を集めたが根武家が手を引いてくれたお陰ですぐに興味を失ってくれた。集団から少し離れた場所で根武家からタオルを受け取る。
「申し訳ない」
「いいよ、私にも責任あるし。それよりあっち。なんて書いてあるかここから見える」
ハンカチでも思ったが女子の私物はいい匂いがする。タオルで顔を拭いているだけなのに興奮してきた。
「聞いてる?」
「う、うん!」
窓ガラスにはとても鋭利なものでつけられたであろう傷跡で、
【2-6
くるいさき】
と。氏名に加え、丁寧に学年クラスまで刻まれている。佐久良から聞いた情報通りだ。
「久留井か……。同じクラスだよな」
昨日のホームルームのことを思い出す。よく目があったあの人だ。
「隣の席だからよく知ってるでしょ。沙希も私と同じ吹奏楽部。明らかに彼女を攻撃するためにやってるでしょ?」
「確かに伝え方にはインパクトがあるけど直接的な攻撃とは言えないんじゃないか? 名前を書いただけだし、久留井を傷つけたいのなら悪口とかを書くだろ」
名前が書いてあることでその人を犯人だと思うわけではない。むしろ一番犯人から遠い存在と見られるだろう。一件目と二件目で刻まれた名前が別なら尚更だ。
「沙希にとっては注目を集めるだけで嫌がらせみたいなものなの。本人はなんとも思っていなくても周りが騒ぎ出す。あんまり器用じゃないから誤解を招くのよ」
「というと?」
「これに関しては無関心。人から心配されてもまるで関心を見せないの。それで、沙希を気の毒に思った先輩が犯人探しを始めようとしたんだけど、『犯人が誰かなんてどうでもいいですし、それは先生の仕事で先輩がやるべきことじゃないです』ってきっぱり言っちゃって。当然、空気は最悪。ついさっきまで沙希を心配していた先輩が今は敵みたいな顔してる」
どっちに対しても気の毒にという言葉しか思い浮かばない。
久留井のこともよく知っているわけではないが彼女らしい言動なのだろう。被害者にされることで逆に苦しむ。価値観のズレが人間関係のズレをもたらす。
「久留井に限っては噂が広まれば攻撃になるって感じか」
久留井の性格を知っている人間が思い浮かびそうな手法ではある。標的だと認識させることで周りの同情を買い過度な憐れみを受ける。特段問題視していない久留井は自身と周囲の関心度の相違がストレスとなり拒絶する。そして双方の間に軋轢が生じる。周りくどい考え方だがあり得る考え方として頭の一端にしまっておこう。
「でも、それなら俺を連れてこない方がよかったかもしれないな。同じクラスだし、このことを誰かに話すかもしれない」
「まぁ、そうなっても仕方ないと思ってる。だって吹奏楽部自体がちゃんと情報統制できているわけじゃないし、どうせすぐ噂になると思ってるから。戸波くんをここに呼んだのは戸波くんがいい人だって知ってるからだよ。少しでも理解者がいてくれた方が助かるでしょ?」
「俺、あまりいい人って言われないけどなー」
「これも風の噂だよ」
誰かが奇特な吹聴でもしているのだろうか。自覚がない分奇妙な気分だ。いい人の噂が広まれば俺もそれに見合う行動を取ることだろう。そして、そんな無理をしていると本来の自分との乖離が激しくなり精神的な負担となる。折角、俺にいい印象を抱いている根武家を裏切るのも悲しいことだ。こんな考えはネガティブだろうか。もう既に後ろ向きな想像をしている時点で俺はプレッシャーを感じているのかもしれない。
「沙希は性格的にも無害だし誰かしらの反感を買うような人じゃないのはわかるでしょ。だから私は不審に音楽室の周りを彷徨いていた青篠先輩を疑ったの。私はまだ犯人じゃないかと疑ってるけど戸波くん的には目立ては正しいと思う?」
「よく知らないけど久留井と青篠先輩との関係性は皆無だと思う。あと、あの人は短絡的だからこんな周りくどいやり方はしないんじゃないかな」
「同じ部活の先輩だからって庇ってない?」
「安心して。見て分かる通り、俺もあの人はあまり好きじゃない。それにこれは俺の見立てであって、根武家が疑い続けてわかることだってある。俺に苦情がくるからやり過ぎるのはやめてほしいけど」
「そっか。じゃあ、なるべく迷惑がかからないように見張ってみようかな」
根武家はひとまず納得してくれたようだ。
青篠先輩がやったということはない。こんなに器用なはずないし何よりあの人の精神状態には水道で触れている。怒りはあっても焦りは感じなかった。
俺が気になっているのは人選だ。図書室では葉土角紀で音楽室では久留井沙希。どんな関連、法則があるのか。
「沙希、こっち来て」
音楽室に入ったときから既に目に入っていたが当人である久留井沙希もこの空間の端の方にいた。被害者であること、隣に男がいたことからあまり見ないようにしていたが根武家が呼んだことで話を聞くことができそうだ。ついでに男も来た。
「なんで濡れてんの?」
開口一番、久留井は俺の異様な様を見て純粋な疑問を呈してきた。
そりゃあ気になるよな。だが、俺は答えない。
「気にしないで」
正確には答えてもいいけど説明が面倒臭い。あのストレス系男子である青篠先輩の奇行を常人に理解してもらうのは困難だ。
「濡れたままだと風邪引くと思って私が連れてきたの。橘くんは知り合い?」
「いや。誰?」
初対面の男に高圧的な態度を取られる。場違いな俺をあまりよく思っていないようだ。
帰属意識が強いようで。部活中でもないのに排他的な姿勢を見せるということは彼にとっての拘りがそこにあるからだ。彼の怒りの感情が頭に伝わってくる。
「戸波帆高くんだよ。みんなからは戸波くんと呼ばれてる」
紹介するほどの呼び名じゃない。むしろ俺がいかに周囲とユーモアをセッションしていないかが浮き彫りになるじゃないか。
「あー、知ってる」
偉そうな奴だ。高身長で高圧的、凡庸な俺を完全に見下している。
「俺は知らない」
「彼は橘氷音くんだよ。同じ吹奏楽部で学年も一緒、クラスだけ別なんだよね。でも、5組だから体育とかは合同で受けてるはずだよ」
「……あー、はい、うんうん」
「知らないのに無理に合わせなくていいから。別にそんなことで傷つかないし。知名度で一喜一憂するような馬鹿と一緒にするなよ」
知らんよ。友好的な雰囲気を作ろうとしたのにそんなに邪険にしなくても。なんかやたら睨んでくるし。恨まれるようなことしたかな。
橘とかいういけすかない男のことは諦め久留井と話すことにする。
「おはよう、久留井さん。調子どう?」
「なにその英語の教科書1ページ目みたいな会話の導入。話すことは少ないけどいつも会ってるよね」
Good morning Ms.Kurui. How are you? みたいな事だろうか。いい着眼点だ。橘も感情がなくてもこのくらいの返答をしてくれないと。
「確かに不自然だったけど調子くらい聞いたっていいだろ。昨日は元気でも今日は違うかもしれないんだから」
「戸波くんなりに気を遣ってくれたんだと思うよ。さっき、私が過剰に心配しないように釘を刺しといたの」
根武家の目配せで久留井は理解する。
「あー、同情も気遣いもいらないよ。私は平気。なんとも思ってない」
本当になんとも思っていないのだろう。今まで忘れてたと言わんばかりな反応だ。ここまで淡白になれるのも珍しい。
「なら、なんで自分の名前が使われたと思ってる? 心当たりはないのか?」
「戸波くん、それは私から説明したからいいんじゃないかな」
俺はどうしても本人の口から聞きたい。根武家には悪いが俺は踏み込む。久留井にもし思い当たる節や後ろめたいことがあるのなら俺の知りたいことのヒントにもなる。俺の持病はこういうときこそ役に立てなくては。
「お前らのそういうのがストレスなんだよ。関係ないんだから首突っ込んでくるんじゃねえよ」
「逆に先輩たち以上に野次馬でしかない俺みたいな部外者の方が答えやすいだろ?」
ピリッと頭が痛む。心配を装うよりダイレクトに知りたい欲を示した方が感じの悪さは小さいと思ったのだが普通にうざがられてるな。
ただ被害者であることを突きつけて揺さぶったつもりだが怒りを感じるのは一人だけ。おそらく橘だけだ。久留井には何もない。
「戸波くんが聞きたいのなら全然答えるけど、本当に身に覚えはないんだよね。誰からも嫌われてないってことじゃないよ。多分、私を嫌いな人はいるんだと思う。でも、そんなこと考えたことなかったから断定はすることはできない」
無難な見解であり回答だ。俺から見ても考えは同じ。この何にも靡かない性格が誰かの気に触れてしまったのかもしれない。
「考える必要はないさ。久留井を嫌いな人がどれだけいようが俺らは沙希のいいところをよく知ってる」
はー、なるほど。こいつ久留井のこと好きなんだな。わかりやすい。俺に対してとは大違いだ。
そうとわかると意地悪をしてみたくなるのが俺です。
「とか言ってる奴が一番怪しかったりするよな。敢えてピンチに陥れて手を差し伸べることで自分のポイントアップを狙おうとする独占欲が強いタイプ」
「あ? 喧嘩売ってんのか?」
「別にー。久留井が人間不信にならないように予防してやっただけ」
額を抑えて橘を煽る。自分が傷つこうともやられた態度で返さないと気が済まない。
「出て行けよ。部外者」
「はいはい。ありがとう、根武家。タオルすぐ返すよ」
ここにいてもストレスが溜まるだけだ。久留井とは軽く話せたし、この件を解決する糸口はまだ残している。
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