第3話

 それから続いた授業の時間も俺の頭痛が治まることはなかった。黒板をノートに写すことがやっとで何の勉強をしたのかなんて殆ど理解できていない。何度か腹痛を装いトイレ休憩を挟んでみたものの3限までが限界。ついに俺はギブアップを宣言して保健室へ逃げ込んだのだ。


 保険室には幸いなことに人がいない。神もそこまで意地悪ではなかったようだ。もし、病や怪我に苦しむ生徒がいたらその弊害を俺が受けることになるからな。


 仮眠を挟んだため大分気分も回復してきた。シーツを捲り体を起こすと腹が鳴る。


 そういえば朝吐いたまま何も口にしていない。そのことに気づいてようやく食欲が湧いてきた。人間とは不思議なもので頭で考えていなくても身体が教えてくれることがある。我ながらよくできた生き物だ。逆に考えれば頭で限界を考えているうちは余裕があるのかもしれないな。


 壁にかけられた時計を確認すると既に5限の時間を過ぎている。なんだか時間を無駄にしたような奇妙な感覚だ。しっかりと調子を崩し、保険室を利用する理由としては真っ当であるのに罪悪感がある。それは今の自分が復調しているからだろうか。いや、違うな。俺は今からでも全然帰宅できる。


「暇だなー」


 起きたら何もすることがない。お腹も空いたし喉も乾いた。このまま素数を無限に数え始めたらセルフで拷問が成り立つだろう。マゾと呼ばれる人たちはプライベートでやるのだろうか。それとも自分が痛めつけられることではなく人から命令されることに興奮を覚えるのだろうか。


「まあ、どちらにせよ部活には出ないといけないしな」


 俺にとって所属するサッカー部の方が学生の本分である学業よりも比重が重い。それは将来への展望を考えてのことではなく、単に自分の一生懸命になれる場所がそこにしかないからだ。このままではいけないのはわかっている。そろそろ本格的に勉強に移行しないと手遅れになる。でも、好きなことを理由にして逃げてしまう。高校二年生のあるあるだ。

 


 放課後。午前中の不調が嘘かのように俺はグラウンドを駆け回っていた。仮病を疑っている奴もいたが別に否定はしない。頭痛が本当だろうが嘘だろうが俺自身の問題で他人には迷惑をかけていないのだから。俺が勉強で遅れをとっていることの弄りであってもその場が楽しければ構わない。


 それに俺がサッカーに精を出すのはただ単に好きだからという理由じゃない。サッカーに集中しているときは何故が頭痛を感じないのだ。おそらく頭がサッカーのことを考えるのに容量を割いているかアドレナリンによって痛みに気づいていないかの二択だ。俺にとってはどっちでもいいが何の邪魔も受けずに好きなことをだけに打ち込めるこの空間だけは最も大切にしたいと思う。


 レギュラーメンバーのみで行われるミニゲームの休憩中、同じクラスでチームメイトの種巻発芽が声をかけてきた。


「戸波ー、もう大丈夫なん?」


「いや、全然大丈夫じゃない。いつもの一割程しか実力を出しきれていないなー」


 転がっていたボールをゴールの隅に蹴り込む。ネットに擦れる音が気持ちいい。キーパーがいても取れないであろういいコースだ。


「へー、お前って普段から絶不調なんだな。同情するよ」

 ゴール横に置かれたボトルで水分補給をしながら、ドヤ顔の俺に皮肉めいたことを言ってくる。


 種巻はいつもこんな感じだ。俺を平気で貶すことができる唯一の友達。俺の抱える頭痛の悩みも知っている。明る過ぎず暗過ぎず丁度いいテンションでいてくれる。


 お互いが適当な相槌で会話をするのが楽しくて雑談ばかりしてしまう。


「まるで今日以上の俺を見たことないみたいな言い方だな」


「心配してやってんのに素直に答えないからだろー」


 ボトルの水を俺に向けて発射してきた。


「やめろい」


「こういう遊びを彼女とやりたい」


「きっしょ」


 自分の肌にくっついたシャツを剥がしてパタパタと乾かす。 


「それで窓ガラスに悪戯した犯人は見つかりそうなのか? うちのクラスからとなると40分の1だろ。総当たりしてもすぐ見つかりそうだな」


 急にそんなことを聞いてくる。

 種巻はすでに俺が何の理由で頭痛を起こしていたか理解していたようだ。


 流石友達。よく見てくれている。自分の感情が俺に筒抜けになってしまうのにそんなことを気にする素振りも見せない。


 だが一方でこうして変にお節介をさせてしまっている。


「教室一つ分の空間に二人きりになることが難しいんだよ。仮に39回実践して頭痛の種を当てたところでそいつに自白させる自信はないし、執拗に追い詰めたことで頭痛が悪化する可能性だってある。俺の問題はそんな簡単じゃないの」


「でも、早く見つけないと大変だろ。犯行は悪質な訳だし、このまま誰も現れず風化するなんてことにはならないぞたぶん。学校としても放っておけば悪評に繋がりかねないからな。原因究明の為に全校集会は避けられないぞ。そうなったらやばいだろ?」


「頭爆発不可避。脳味噌爆散、周辺退避」


「中国語かな」


 全校集会……。考えもしなかった。全員がストレスを溜める最悪な空間だ。満員電車の比ではない。


「でも、最悪そうなりそうになったら簡単に避けられる方法が一つだけある」


 俺が罪を被る。避けるだけなら確実で簡単な方法だ。でもこれはできない。避けられるメリットに比べデメリットが大き過ぎる。それは今の種巻の表情からも窺い知ることができる。


「それはやめろよ。誰の為にもならない。その場の苦痛を避ける為に楽した結果、長期的に苦しみを味わうことになるのは目に見えてわかる。それに、ろくに概要を把握していないお前が自供したところで矛盾がすぐ出るだろ。嘘はすぐバレる。想像力が足りてなさすぎなんだよ」


 軽く怒られた。頭にもピリッと衝撃がくる。


「だからこれは最終手段だよ」


「それでも駄目だろ。全く関係のないお前が被る罪なんてない。お前からしても逃げでしかないからな。確かにその持病は気の毒だと思うけどさ、それをやってしまったら俺は世の中の正しさを信じられなくなる。そして、お前に対しても失望すると思う」


 こういう倫理観はしっかりしているんだよな。まだやってもないのに怒るなよ。


 普段くだらないことで笑い合う仲なのに冗談の範疇を逸脱した瞬間に抑制してくる。頭痛が絡むことに関しては特にだ。俺がそんなに危うく見えるのだろうか。楽しい馬鹿話のつもりが冷めてしまう。


「……確かにそうだな。俺はリスクを軽く見てた。自己犠牲がかっこいいとか思ってたけどこれは少し違うもんな」


 そう言ってやり過ごす。俺だって決して倫理観がない奴だとは思われたくない。


 飲み終えたボトルを戻す為に籠に近づくと種巻からもボトルが飛んでくる。自分で戻せと思いながらもしっかりキャッチし籠に戻した。


「手伝ってやるよ犯人探し。面白半分だけど罪が暴かれないままなのは気持ち悪いからな」


 何を思ったのかいきなりそんな提案をしてきた。手伝うもなにも俺は犯人なんて探す気はない。口では色々考えを言ったが我慢するか逃げるかの選択しかできないと思っている。どうせこれも冗談だ。


「情報もないのに犯人なんて探せないだろ。探偵ごっこに付き合ってる暇はない」


「情報はこれから集めればいいだろ」


 すごく簡単に言ってくれるが詳しい方法は全く説明していない。さっきまで倫理観の指導をしてきたくせにもう他人事だ。


 ホイッスルが鳴り練習再開が告げられる。


 気が抜けた俺はすっかり種巻と話すことに夢中になっていた。時間の経過と共にアドレナリンの分泌量も減少していく。隣のコートの状況を把握することに意識を向けることにも躊躇がなくなっていた。


 レギュラー組の隣のコートで練習するサブ組の方から顧問の怒鳴り声が響く。


「──痛っ!」


 顧問は身振り手振りを交えて別グラウンド練習している先輩への指導を行う。ポジションや動き方を伝える為に服や身体を引っ張り振り回す光景もこの部活では当たり前になっている。互いに暗黙の了解でこの指導法を受け入れていても今のコンプライアンスに厳しい教育論に当て嵌めれば体罰と捉えられてしまうのだろうか。


「青篠先輩怒られてるなー。あの人つい最近までこっちだったのに。調子悪いんだろうな」


 数ヶ月前まで同じレギュラー組で練習していた青篠幸也先輩。見た目が怖くてあまり話したことはないが多分内面も見た目通りの人だ。サッカーのプレーも上手いが荒く先輩のせいで怪我をした人もいた。サブ組に落ちたのだって素行不良が原因らしい。学校での態度も良くないのだろう。

 青篠先輩の観察をしていた種巻が俺を見て苦笑いを浮かべた。頭を抑えていることですべてを理解してくれる。


「早く練習戻ろう」


 余計な雑音に耳を傾けないように俺はボールに向かって走り出した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る