花は今日も咲いているか。

あさみ

第1話花は今日も咲いているか。




 子爵夫人、エレナ・フランフィードにとって結婚は義務だった。


 エレナは伯爵位を持つ家の次女として生まれた。

 両親はごく一般的な貴族で、父は高圧的な人間だったし、母は散財を好んだ。二人とも暇を見つけては別の相手と遊んでいたが、それもまあ、ありふれた貴族の姿だろう。

 そんな二人の元で、エレナはそれなりに愛されて育ち、十八歳になった年に父の決めた相手と結婚をした。

 相手は父の派閥に属するフランフィード子爵。お互いの政治的な結びつきを強めるための結婚で、言葉通りの政略結婚だった。

 それは良い。貴族の結婚などそういうものだから。


 

「エレナ、申し訳ないけど、またしばらく家を空けるよ。仕事が忙しくなってしまってね」


 屋敷のホールにて、金色の髪に帽子を乗せながら、夫アーノルドは申し訳なさそうにそう言った。

 もちろんその表情が上辺だけのものだとエレナは知っている。

 エレナがいまここに見送りに出ているのも、使用人たちの手前、仕方なくやっていることだ。


「ええ、お気になさらないで。いつものことだもの」


 つんと顎をあげ、ちくりと刺すように言うと、夫はわざとらしく肩を丸めて出て行った。

 


 夫であるアーノルドとは上手くいっていない。

 いつからというのなら、初めから。



 アーノルドは、いわゆる女好きだ。それも特別に美しい女が好きだ。それはきっと、彼自身がそれなりに整った容姿をしていることもあるのだろう。

 そしてエレナは、決して美しい女ではなかった。

 髪はどこにでもある赤毛で、髪質なのか、いくら手入れをしても乾燥している日が多い。

 目も鼻も口も特に主張のない部品ばかりで、少し張った頬がコンプレックスだ。体に際立った凹凸もなく、豊満な胸もない。

 

 アーノルドは初めて会った時から、エレナを気に入らない様子だった。ただアーノルドはエレナの父に逆らえない。元々何かの政略でアーノルドが父の助けになり、その褒美のような形でエレナが嫁ぐことになったのだ。

 アーノルドにとっては、父に可愛がられている証がエレナであって、見た目が気に入らないからと拒否することはできなかったのだ。


 アーノルドとの夜の生活も、最初の一年だけだった。

 子供は授からなかった。アーノルドは言葉こそ濁したが、原因はエレナだと決めつけた。 

 理由はすぐに分かった、その頃、彼の愛人に子供が出来たからだ。


 それを知った時には怒りもあったし悔しさも感じたが、正直いえば何よりほっとした。これ以上、アーノルドと愛のない行為を続けなくていい。自分に子供が出来ないなら、もう跡継を作る行為は不要だ。

 幸い、彼の愛人に生まれた子供は男児だった。その子はいま五歳。七歳になったら、その子を養子として迎え、子爵家を継がせることが決まっている。

 その事を、父にうまく話して納得させたのはエレナだ。

 おかげで、アーノルドはもうエレナに頭があがらなくなった。

 アーノルドは常にエレナの顔色をうかがい、機嫌を取ろうとしている。それは時に愉快で、時に不快でもあった。

 女遊びも依然止まないが――、まあ、家に居られても面倒だから、出掛けてくれるのはせいせいする。


 エレナは夫を見送ると、つまらない気持ちでふんと息を吐いた。

 私室に戻ろうと階段をあがり、突き当たりを曲がりかけた所でエレナは足を止めた。

 角の向こうから、メイドたちの声が聞こえてきたからだ。


「ちょっと、ここの窓枠に埃が乗っているわよ。奥さまに見つかったら叱られてしまうわ。奥さまったら、ちょっとした汚れでもすぐに見つけるんだから」

「本当だわ、大変。この間だって、窓に少し拭き残しがあっただけで随分怒られたのよ」

「そりゃずっと家に籠もってらっしゃるんだもの。窓を見るぐらいしか、やることも無いんじゃないかしら」

 

 ひそひそとした話し声に、エレナは眉をひそめた。


 最近は、時々こうして陰口を聞いてしまうことがある。彼女らはエレナを馬鹿にしている――、とまではいかないでも侮っているのだろう。迂闊にもエレナにその声を聞かせるのは、決まって若いメイドだ。彼女らの口は、餌を待つ小鳥のように閉じることを知らない。

 いくらエレナが表面上アーノルドとの仲を繕った所で、メイドである彼女らに夫婦仲が冷え切っていることは隠せない。そして彼女らのような若い女は、単純な貴賤よりも、美しさや男に愛されていることこそが優れていると思いたがる節がある。


 エレナはうなじの後れ毛を軽く直すと、わざとカツカツと足音を立てて歩いた。

 角を曲がれば、彼女らは忙しそうに手を動かしていた。そしていまエレナに気付いたとばかりに、こちらに向き直って礼をする。


 ――ひとが見ていなければすぐにサボるくせに、少し注意したぐらいで文句をいうなんて、どういう教育を受けて育ったのかしら。


 エレナは顎をあげながら、澄ました顔で彼女達の前を通り過ぎた。

 彼女らをクビにするのは簡単だが、顔ぶれを入れ替えた所で結果は同じだろう。まあ、今よりもっと陰で悪口を言うようになるかもしれないが。

 それより余所に行って「あそこは夫婦関係が無い」「奥さまはヒステリックだ」と言いふらされるほうが面倒だ。


 エレナは自室に戻って扉を閉めると、「はあ」と重い溜息を吐いた。

 面白くない。

 何かも楽しくない。

 なにげなく部屋にある鏡を見れば、極めて平凡な顔をした女がつまらそうな表情をしていて、さらに気分が沈んだ。

 髪は艶のなさを誤魔化すように引っ詰めて結い上げ、ドレスは『身の程を弁えている』とでも言いたげに地味な色合い。

 見ていてなんと面白くない女だろう。なんの華やかさもない。

 ふと部屋を見渡す。

 思えば、部屋も殺風景だ。嫁いできた当初は、張り切って装飾品にこだわったりもしたが、最近はそういうこともするのも忘れていた。

 まがりなりにも女主人の部屋だというのに、花のひとつもない。

 以前はメイドらが勝手に花を飾っていたが、エレナは別に花が好きでも無いし、しおれるのもイヤで、飾るのをやめさせたのだ。

 

 ――また、花でも飾ってみようかしら。


 大層なものでなくともよい。

 自分に比べて、あまり大層なものは気が滅入る。

 庭に咲いている花を少しだけ切って飾るのはどうか。

 自分で選んで、好きな花を少しだけ飾るのだ。

 そうすれば、少しはこの心も華やぐような気がした。



 エレナはふらりと庭に出た。

 薔薇の生垣の間を歩きながら、今が春薔薇の季節であったことを思い出す。エレナは普段、客人が来た時ぐらいしか庭を歩かない。

 色とりどりの薔薇を適当に眺めながら少し歩くと、若い庭師の男がひとり、生垣の手入れをしているのを見つけた。


「ねえ。あなた」


 男の前で足を止め、エレナは軽く顎をあげた。


「部屋に飾る花を切りたいのだけど、お願い出来るかしら」

「え?」


 声を掛けると、庭師は驚いた様子でこちらを振り返った。

 どうやらエレナが誰か分からないらしい。

 そして、それはエレナも同じだった。

 

 ――うちの庭師にこんな男がいたかしら?

 

 庭周りのことは、雇う人間のことも含めて執事に一任してあるが、それにしても顔を見たことが無い。

 エレナは軽く腕を組むと、顎を斜めにそらして男を見つめた。

 年は二十歳前後だろうか。エレナより少し年下に見える。焦げ茶色の中折れ帽を被っていて、肌はよく日に焼けている。髪は亜麻色で、瞳は緑色。人懐っこそうな顔つきで、背が高く、がっしりとした体つきをしている。

 まじまじと男を観察してから、エレナはふと、執事が「春になって庭に人手が必要になるので、しばらく通いの庭師が出入りする」と言っていたことを思いだした。それが彼だろう。

 男も同じ時間エレナを観察し、身なりから身分を察したのだろう。慌てた様子で帽子をとって頭を下げた。

 

「失礼しました! 花ですね! ええ……、っと、いま、ルドーさんを呼んできます」


 ルドーはフランフィード家の園丁長だ。

 アーノルドの祖父の代から仕えているという古株で、住み込みで働いる。

 

「……別に、わざわざルドーを呼ばなくとも、あなたが切ってくれればいいのだけど」

「すみません、オレはまだここに出入りし始めたばっかで……。ほら、ルドーさんはこだわりが強い方でしょう? オレ、すぐに聞いてきますから!」


 男はそう言うと、ちらっと視線を奥へ向けた。

 そこでは、ルドーが木にはしごをかけて高い場所の枝葉を切っている。 

 エレナは少し考えてから「分かったわ、聞いてきて」と頷いた。彼に『ほら』と言われるほどルドーのことは知らないが、庭師のこだわりを無碍にするほど急いでいるわけでもない。

 男は「すみません」と再度頭を下げると、ルドーの元に駆けていった。そして二、三会話をして、また走って帰ってくる。


「お待たせしました! あの、仰って頂ければどの花でもすぐにお切りします!」

「そう、ありがとう」


 エレナは短くお礼を言ってから、庭を見渡した。


「庭、綺麗にしてくれているわね」

「ルドーさんは、とても腕がいいですよね。オレ、尊敬しています」

「……そうなの」


 嬉しげに頷く男に、エレナは他に何と言っていいか分からずそう言った。

 『ほら』とか『腕がいいですよね』とか、いち雇い人である庭師のことを、いかにも『知っているでしょう』という風に話されても困る。

 実際ルドーがきちんと仕事をしてくれていることは知っているが、腕がいいかまでは知らない。庭など、来客があった時に子爵家としての体面が保てればそれでいい話だ。

 だいたい“たかが”通いの庭師が、女主人である自分に気軽に話かけすぎではないか。

 恐らく彼は、まだあまり貴族の家に出入りをしたことがないのだろう。身分の差に対してどうも馴れ馴れしい。

 だがそれをわざわざ口するほど嫌な人間にもなれず、エレナはわざと近くの薔薇へ視線をそらした。真っ赤な薔薇が風に揺れている。


「綺麗ね」

「薔薇がお好きですか?」

「どうかしら?」


 花が好きかどうかはともかく、薔薇が好きかどうかなど考えたこともない。


「これをお切りしますか?」


 庭師が艶やかな赤い花弁に指で触れて訊ねる。

 エレナは唇に指を添えて黙り込んだ。薔薇か――、それも真っ赤な薔薇。あまり華やかな花は気が滅入ると思っていた所なのに、これは……。

 悩んで、庭師を見つめる。

 だが、ここで『もっと地味な花がいいの』と言ったらこの庭師は自分をどう思うだろう。ただでさえ馴れ馴れしい彼に同情でもされたら? 


「……そうね、その薔薇を切って頂戴」


 結局、エレナはそう見栄を張った。

 不思議なことに、いざそう口にしてみると、その薔薇を部屋に飾るのもそう悪くない気がした。

 庭師はニカッと笑って頷くと、帽子の位置を直してから腰にかけた鞄から鋏を取りだした。

 それから、鋏を握るのとは反対の手で軽く薔薇を触る。

 何とはなしに、エレナはその様子を見つめた。男の手はごつごつとして大きい。指は長く節くれ立っていて、短く切りそろえられた爪の先は土で汚れている。夫の指とは、まるで違うと思った。夫の指はもっと細く、白く、女をエスコートするためだけに存在しているとでもばかりだ。

 エレナは、この庭師の指こそ男の指だろうと思った。それは、はっきりと夫への当てつけに。

 パチッと軽快な音を立てて男が薔薇を切る。エレナをそれを受け取ろうと手を出したが、庭師は「とんでもない」と首を横に振った。


「奥さまにこのままお渡しすると、お手が汚れます。茎の水切りなどをした後で使用人の方に渡して、部屋に飾るようにお伝えしますので!」

「……それなら、後で私が使用人を来させるわ」


 ひとりで庭に出て、若い庭師に花を切ってもらっていたなど、下手にメイドに知られたらどんな噂を立てられるか分からない。エレナから信頼出来る人間に頼んだ方が良い。

 エレナは出した手を引っ込めようとしたが、そこで、彼の視線が自分の指に刺さっていることに気付いた。


「……なに?」


 不審に思って訊ねると、庭師は慌てた様子でまた頭を下げた。


「し、失礼しました! ……そのっ、美しい手だと思って」


 美しい手? エレナは自分の指先に視線を落とした。

 思いつきで庭に出て、そう長居をするつもりもなかったから、いまは手袋を付けていない。白く滑らかな手がむき出しになっていることに気付いて、エレナはハッと手を胸元に引き寄せた。

 

「そんな綺麗で、白い指を……、オレは見たことがなかったので……、つい!」


 顔を下に向けている男は、エレナの様子に気付かずまだ言い訳に続けている。


 ――綺麗な、白い指……。


 それはそうだろう。

 彼の周りにいる女はみな庶民だろうし、水仕事で手も荒れているだろう。

 エレナは手を荒らすことは勿論、畑仕事をして日に焼くことも無い。

 これは子爵夫人である自分だからこそ保てる美しさ。エレナの身分そのものだ。

 エレナは男の頭を見下してから、ふんと息を吐いた。


「失礼だと思うのなら、二度と家の女主人に対してそんな口を利かないことね。他の家なら、罰を与えられても文句は言えないわよ」

「も、申し訳ありません!」

「……あとで、使用人を寄越すわ」


 エレナは冷たくそう言い捨てると、顎をそらして踵を返した。

 肩を張り、いつも通り不機嫌そうな顔で使用人の前を通り抜ける。

 そして部屋に戻って扉を閉めるなり、エレナはへなへなとその場に座り込んで手を握りしめた。


 ――綺麗と。


 綺麗と言われた。綺麗と。

 エレナは、ひとに自分の体を褒められたことがなかった。結婚前も、結婚してからも、誰かに「綺麗」と言われたことは一度もない。それが例え手でも――、指先であっても、エレナは嬉しかった。

 長く走った後のように心臓が早鐘を打っている。目の奥が熱く、鼻がツンとしている。

 それは、エレナが初めて感じる種類の喜びであり、高揚だった。




 それからエレナは、週に何度か庭に行き、部屋に飾る花を選ぶようになった。

 その内に、あの庭師がトマという名前であることを知った。トマが週に二度、ルドーの手伝いにきていることも。エレナは――、彼が来る日を選んで庭に行くようになった。深い意味はない。決して。

 

「この花は――、で。こうして――、下の――から切ると」

「……ふうん」


 今日も庭に出て、エレナはトマの話を聞き流していた。

 エレナが来ると、トマはこうして花の説明をしてくれる。だがエレナは花に興味がないから、ろくに頭には入ってこない。だが、この時間は悪いものではなかった。 

 少し向こうでは、エレナ付きのメイドであるサリーが立っている。最初の日以降、エレナはトマと二人きりにならぬよう気をつけていた。女主人が若い庭師に入れあげているなど噂をたてられては面倒だからだ。さらにサリーなら口が固いから、エレナが滅多にない頻度で庭に出ていても、余計なことを想像して吹聴することはないだろう。


 手袋は今日もしていない。

 もちろん、深い意味はないのだが。


 部屋に戻ると、エレナは窓際に飾った花を見つめた。

 花を飾るようになってから、窓辺に椅子が一つが増えた。

 エレナは一日の幾らかの時間を、そこに座って過ごすようになった。

 相変わらず花を好きとは思わないが、そうしている自分は、まるで余裕のある貴婦人のようで中々悪くない。

 いまもエレナは椅子に向かうと、ドレスの裾に気を使いながら腰掛け、ゆったりと窓枠に肘をついた。少し花を見つめてから、窓ガラスに視線を移す。そこにはエレナの姿が映っていた。

 いつもひっつめていた赤い髪は、いまは上部だけを結い上げ、あとは腰に流している。ドレスも淡く華やかな色合い。不思議なことに、髪も肌も、以前より少し艶めいて見えた。


 ――そうね、認めるわ。


 部屋に花を飾るようになったあの日から――、エレナの心は確かに華やいでいた。



 初めてトマに出会った日から、ちょうどひと月が経った頃。

 突然、トマが屋敷に来なくなった。エレナは一週間ほど様子をみてから、ルドーに「そういえば」と何でもないふりをして事情を尋ねた。


「最近、あの若い庭師をみないけれど、何かあったの?」


 ルドーもまた、何でもないように「ああ、トマですか?」と肩を竦めた。


「他の屋敷へ手伝いに行ってるんですよ。来月にはまたうちに来てくれるって話ですが」


 それを聞いて、エレナは自分でも信じられない程ほっとした。

 良かった――、また彼に会えるのだ。

 ここ最近、泥を跳ねたように憂鬱な日々が続いていたが、それが一瞬で晴れていく。

 ルドーの「私が花を切りましょうか?」という提案を断って、エレナは早足に部屋へ戻った。

 窓枠に飾った花は、少ししおれかけている。

 

 ――トマ……。


 エレナはふらと窓に近付き、椅子に腰掛けた。

 祈るように両手を組み、ただ花を見つめる。

 少しするとサリーが部屋にやってきて、エレナと花を見比べて首を傾げた。


「花を変えましょうか?」

 

 サリーは、エレナがしおれかけの花が嫌いなことを知っている。

 エレナは首を横に振った。


「……いいわ、このままにしておいてちょうだい」

「しかし……」

「いいの」


 視線は花に置いたまま、エレナは軽く微笑んだ。


「……いいのよ、このままで」

 



 そして、数日後の夜半。

 深く寝入っていたエレナは、乱暴に扉を開ける音で目を覚ました。


 ――何?


 上半身を起こして視線を向けると、そこにはシャツを着崩した男がひとり、扉にもたれかかるようにして立っていた。


「アーノルド?」


 エレナは訝しげに夫の名を呼んだ。

 廊下の明かりに目を瞬かせてから、もう一度視線を向ける。やはり間違いない、彼はアーノルドだ。だが、どうも様子がおかしい。

 アーノルドは洒脱な男で、こんな風によれたシャツを着るなど、普段なら絶対にしない。また優雅さを好むから、夜分にこんな風に”余所の”寝室に押し入るような粗野な振る舞いもしない。彼に愛人の子がいると発覚してから、二人の寝室はずっと別だったのだから。

 そもそも彼は「しばらく家を空ける」と言ってからずっと留守していた。それが、こんな夜更けに連絡もなく帰ってくるなんて。


「……そう、帰ってきたのね。こんな遅い時間にいったい何のっ」


 とりあえず、深夜に起こされた腹いせに嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開いたが、最後まで言い切ることは出来なかった。

 アーノルドがつかつかと大股にこちらに歩み寄り、エレナの肩を乱暴に掴んだからだ。


「――いやッ」


 酒の匂いがする――、エレナは咄嗟に彼の手を振り払った。

 そのままベッドの柵まで後ずさり、自分の肩を両手で抱きしめる。


「なんのつもり!」

「なにがだ! オレはお前の夫だろう! オレは、お前を好きな時に抱く権利がある! 違うか!」


 その乱暴な物言いに、エレナはびくっと肩を震わせた。

 どんな相手でも、目の前で怒鳴られるのは単純に怖い。

 

 ――なによ……。


 まさか彼がこんな乱暴なことをするとは思わなかった。

 アーノルドは女にだらしがなく、誠実さのかけらもないが、これまでエレナに怒鳴ったことは一度も無い。心のなかではエレナのことを疎ましく思いつつも、結局は頭を下げてこちらの機嫌をとってくる。アーノルドは、いつもそういう男だった。

 それがなぜ今日は――、酒に酔っているからか。なにがあって、自分を失うまで酒を飲んだのか。


「ああ、そう……」


 エレナは、ふと思い至って鼻で笑った。

 

「女にフラれたのね?」


 確信を持って訊ねると、アーノルドがはっきりと顔を引きつらせた。

 その瞬間、エレナはえづくような不快感を感じ、それまで感じていた恐怖も忘れて笑い声を上げた。


「女にフラれて家を追い出され、ヤケになって酒を飲んで、腹いせに普段は抱きたいとも思わない妻に迫っているのよ! なんて矜持の無い男なの! 滑稽よ、あなた!」

「黙れ!」


 ガッと強く肩を掴まれ、エレナは反射的に彼の頬を平手で叩いた。


「黙るのはあなたよ! 酔って乱暴をするなんて、そこまで最低な男だとは思わなかったわ!」

「うるさい! オレは、お前の夫だ!」

「夫らしいことなど、何一つしていないくせに!」


 吐き捨てると、アーノルドはカッとした様子でエレナを強引にベッドへ押し倒した。

 考えるより早く、その腹を思い切り蹴り上げる。

 アーノルドが「うっ」と唸るのを遮るように、エレナは声を荒げた。


「やめて! 大っ嫌いよ、あなたなんか!」

「黙れと言っているだろう!」

「私を怒らせていいの!? どうせ、お父さまに頭が上がらないくせに!」


 父のことを出すと、アーノルドが一瞬わかりすやく怯んだ。

 エレナはおかしくなって、更に言葉を続けた。

 

「あなたの愛人の子供をどうするかだって、私が決めるのよ! 私が! 分かったらもう二度と、私に偉そうにしないで頂戴!」


 そう言った瞬間、頬に鋭い痛みが走った。

 彼に平手で叩かれたのだ。それに気付くより早く、アーノルドが叫んだ。


「うるさい! 黙れ、黙れ! 誰がお前みたいな女と結婚したいと思うものか!」


 ハッと息を飲み、アーノルドを見上げる。

 彼は目を血走らせてエレナを睨み付けていた。

 

「美しくも無ければ、可愛げもない! 高慢で、すぐに他人を見下す! お前のような女となんか、オレだって結婚したくはなかった!」


 エレナは――、すぐに何も言葉が出ず、ただ嗚咽を漏らした。

 ただ両目から涙を流し、彼を睨み付けることすら出来ず、顔をそらす。

 最低な気分だった。最低で、最悪で、悔しくて――、惨めだ。

 分かっている。分かっていた。アーノルドが自分との結婚を望んでいなかったことは、よく分かっていた。だけど……。


「嫌いっ、嫌いよ……! あ、あなたなんか……!」


 嗚咽まじりに言えば、アーノルドはハッと我に返ったように、エレナを押さえつけていた力を緩めた。エレナはその隙を逃さず、もう一度の彼の腹を蹴り上げてベッドから逃げ出すと、寝間着のまま部屋から飛び出した。

 夫婦の喧嘩に気付いているのかいないのか、宿直の使用人は誰も出てこない。その事にほっとしながら、エレナは足早に廊下を進んだ。

 どこでもいい。アーノルドのいない所へ行きたかった。


「エレナ!」


 だが少し走った所で、正気に戻ったらしいアーノルドが追いかけてくる声がした。

 エレナは慌てて階段を駆け下りると、屋敷の裏口から庭に飛び出した。

 外に出るとうっすらと小雨が降っているの気付いたが、屋敷に戻ってアーノルドに見つかるのがイヤで、エレナは庭を奥へと進んだ。当然辺りは真っ暗だが、少しすると目も慣れて、生垣にはぶつからずに歩けた。

 トマと初めて出会った場所を通り抜ける。

 もちろん今はそこにトマはおらず、エレナは軽く鼻を啜った。


 ――雨が。


 頬に当たる雨が強くなってきたのに気付いて空を仰ぐ。

 厚い雲に覆われた夜空には星ひとつない。

 エレナはさらに最悪な気分になって、感情にまかせて「ああ!」と声を荒げ、その場で地団駄を踏んだ。流れる涙を拭い、頬に張り付いた髪を指で払って、さらに進む。もう少し進めば納屋がある。とりあえずそこで雨を凌ぎ、気持ちを整えてから、屋敷に戻るなり、そこで一晩を過ごすなり考えようと思った。

 だが納屋に着き、扉を少し開けた所でエレナはびくっと肩を震わせた。

 中から「誰?」と、男の声が聞こえてきたからだ。


 ――誰かいるの?


 まさか強盗だろうか。エレナは咄嗟に逃げだそうとしたが、さらに続いた「誰ですか?」という声に動きを止めた。その声に聞き覚えがあると気付いたからである。


「……トマ?」


 訊ねると、中にいる男が驚いた様子でこちらに駆け寄ってきた。


「まさか、奥さまですか?」


 トマが、半開きだった扉を中からガラッと勢いよく開く。

 エレナは信じられない気持ちで彼を見上げ、さらにどうしていいか分からずに体を強ばらせた。なぜ彼がここにいるのか――。

 トマも何と言っていいか考えあぐねているようだったが、エレナの頭から足元までを見つめると、体を斜めにして道をあげた。


「雨です、どうぞ中へ」

 

 促され、エレナは少し迷ってからそれに従った。

 確かに、いまは雨だったからだ。 

 トマが、納屋の隅に置いてある洋灯に火を付ける。ぽうと暖かな明かりが広がると同時、彼の背中に藁がついているのが見えた。


「ここで寝ていたの?」

「はい」

「……どうして?」


 彼は通いの庭師だし、そもそも来月まで来ないと聞いていたのに。


「ほら、昨日ルドーさんが腰を痛めたではないですか? オレもそれを聞いて、朝の手入れを手伝いに来たんです。オレ、最近は別の所に手伝いに行っていたんですが、ルドーさんが心配で慌てて様子を伺いにきて、それがもう遅い時間だったので、折角だから今日は泊まって行けば良いと執事の方が」

 

 そんな話は全て初耳だ。

 だがエレナはいつも就寝が早いから、庭師を納屋に泊まらせるぐらいのことなら、執事が気を利かせて言わなくても不思議ではない。ルドーが腰を痛めたことも知らなかったが、それこそわざわざ執事がエレナに言うことはないだろう。

 エレナは「そう」と軽く頷いてから、首を傾げた。


「でも、それならルドーの所に泊まればよかったでしょう」


 ルドーの住んでいる小屋も、この敷地のなかにある。

 少なくとも納屋よりは広く快適な場所のはずだ。


「オレは体が大きいから、納屋で寝る方が気が楽なんです。寝相も悪いし、いびきもかくから」


 照れくさそうに髪を乱しながら言ってから、トマは心配そうにこちらを振り返った。


「奥さまは、一体どうされたんですか?」

「……別に、何でもないわ」

「何でも無いって様子ではないです」


 トマはこちらに歩み寄ると、まず開けっ放しだった扉を閉めてから、そっとエレナの腕に触れた。


「……泣いておられます」


 男の体温を感じると、ふっと、それまで張り詰めていたものが和らいだ。

 するとまた涙が込み上げてきて、ふいと顔を横へそらす。


「夫と喧嘩をしたのよ。それだけ、……どこにでもある話だわ」


 トマは、エレナの横顔を見つめて口を開いた。

 

「叩かれたのですか?」


 エレナの腕をぐっと掴み、トマが言葉を繰り返す。


「頬が、赤くなっています。叩かれたのですか?」

 

 エレナは何も答えなかった。

 ただ視線を床に落とし、鼻を啜ることで肯定とする。

 トマは今度はエレナの手に触れ、強く握りしめた。

 

「許せません、オレなら……」


 オレなら?

 唐突に――、エレナは自分がいま危うい足場に立っていることに気付いた。

 悪魔に囁かれたように、ゆっくりと視線をトマに向ける。彼の緑色の瞳はまっすぐにエレナを映していた。


「オレなら……、奥方のように綺麗な方をもらったら……、きっと、一生大事にするのに」


 エレナは思わず喉を上下させた。

 まるで酩酊したように気分が良くなり、心臓の鼓動が早くなる。


 ――そうよ、私は……、この男に会いたいと思っていた。


 これは待ちにまった再会だ。嬉しくないはずが無い。

 胸に喜びがわき上がると同時、脳裏に夫の顔がちらついて、エレナは彼にしなだれかかった。


「……トマ」


 トマがわかりやすく体を強ばらせる。

 エレナはある種の確信をもって彼を見上げた。


「……あなたに、ずっと会いたいと思っていたわ。会いたかった」


 わざと皿を割るような高揚感に突き動かされて、エレナはそう言った。

 トマが人懐っこそうな緑色の目を大きく見開き、喉を上下させる。エレナの心臓は、まさに破裂しそうだった。

 見つめ合い、数秒。

 トマが激しくエレナの唇に噛みつく。エレナは迷わず唇を開いて、そのキスを受け入れた。

 春の終わり頃とはいえ、暖のない納屋は肌寒い。二人はぬくもりを分け合うように、激しい口づけを繰り返した。

 エレナが“酔い”に任せて続きを強請ると、トマが荒々しくエレナの寝間着の裾をたくし上げる。トマはエレナの背中を壁に押しつけると、自身のズボンの前をくつろげ、全く余裕のない様子で深く繋がった。

 エレナは涙を流して、その全てを受け入れた。 

 背中に藁をつけた庭師の男と、このような納屋でする行為に、エレナはいま、間違いなく女としての悦びを感じていた。



 洋灯の明かりが、狭い納屋のなかを照らしている。

 ひとときの情事を終えた二人は、壁を背に寄りそって座っていた。

 エレナは彼が持ち込んだ毛布を膝にかけ、彼の肩に顔を預けている。しっかりと繋ぎ合わせた手は、二人の間の床に置いて。


「オレ……、本当はもう、ここへは仕事に来ないはずだったんです」


 少し落ち着いた所で、トマがふとそう言った。


「え?」


 エレナは驚いて声を上擦らせた。

 ルドーは確かに、「トマは来月また来る」と言っていたのに。


「実は、ある貴族のお方にオレの腕を気に入って頂けて、専属でお屋敷に雇って頂けることになったんです。それがここから離れた場所なのでもう手伝いに来られないと、つい先日ルドーさんにお話をさせて頂いたところでした」


 果たしてそれは、エレナがルドーから話を聞く前だったのか、後だったのか。

 狼狽えるエレナに気付かぬ様子で、トマは言葉を続けた。


「今日は、ルドーさんが腰を打ったという話をたまたま知り合いの職人から聞いて……。それで明日一日だけでも手伝わせてくれって、オレが頼んだんです」

「……そうだったの」

「あと……、そうしたら、最後に、奥さまに会えるかも知れないと思ったから」


 頬を赤くしてトマが囁く。

 それを聞いたエレナは、一瞬で他の全てがどうでもよくなって胸を高鳴らせた。指の腹で、彼の手の甲をさするようにしながら、握る力を強める。熱い視線を向けると、どちらからともなく唇が重なった。唇を吸い、舌を吸い、角度を変え、何度も何度もキスをする。その隙間を縫うように、トマが囁いた。


「奥さま、どうか、オレと一緒に来て下さい。贅沢は出来ないかもしれませんが、庭師として腕も認められてきたし、きっと生活には困らないはずです。……オレ、絶対に奥さまを大切にします。幸せにします」

「トマ……」


 エレナはこれ以上なく満ち足りた気持ちになって、頬に涙をこぼした。

 想像してみる――、彼と共にいった未来を。

 庭師としてどこかの貴族の家に働きに出る彼を、エレナは家であたたかい食事を作って待つ。彼のために洗濯をし、繕いものをし、家を整える。彼となら、もしかすると子供だって授かるかも知れない。

 だがそこまで考えた所で、エレナはすっと頭の一部が冷えていくのを感じた。

 エレナは少し沈黙し、視線を彷徨わせてから、再び口を開いた。


「……ねえ、トマ。あなたは、私のどこを好きになったの?」


 互いの指を擦り合わせて遊びながら訊ねる。

 トマは照れくさそうに指で頬をかきながら答えた。


「……手を」

「手?」

「奥さまの手を、とても綺麗だと思ったんです。奥さまのように綺麗な手をした女性を、オレは見たことがありません」


 それは、彼に初めて会った時にも言われた言葉だ。

 エレナは目を瞬かせて、彼と繋ぎ合わせた自分の手を見つめた。

 絹のように滑らかな白い手。そこには赤ぎれはもちろん、シミひとつない。


「オレは、ずっと奥さまに憧れていました。オレは……、奥さまのように綺麗な方をみたことがありません」

「……私が、綺麗?」

「はい! いつも凜としておられて、高貴で、まるで女神のようだと……、オレはいつも……」


 そこまで聞いた所で、エレナは思わずふっと笑ってしまった。

 トマが、その反応に首を傾げる。エレナは何と返したものか――、少し悩んでから、やはり微笑んだ。


「……ありがとう、嬉しいわ」

「では……」


 ぱっと顔を輝かせるトマに、エレナは首を横に振った。

 繋いだ手を、そのまま胸のあたりまで持ち上げ、もう片方の手をそこに添えた。


「私はあなたとは行けないわ。……あなたにはきっと、私より良い人がいくらでもいる。幸せになって頂戴」

「そんな……!」

「トマ、私も……、


 トマは、エレナの言葉の意味が分からない様子で首を傾げた。

 

「奥さま……、だけど、旦那さまは……」

「私なら大丈夫よ」


 トマの視線が、エレナの頬に刺さる。

 エレナは、やはり少し考えてから、彼には夫の暴力の理由は話さないでおこうと決めた。


「心配してくれてありがとう。私は……、あなたが一緒に行こうと言ってくれた、その言葉で十分よ」

「だけど、そんな……」


 トマが、諦めきれないとばかりに下唇を噛む。


「奥さま……、オレは、三日後の早朝にこの街を発ちます。それまでに、もしも気が変わったら……」


 縋るような言葉を、エレナは素直に嬉しいと感じた。

 これがひとつの舞台なら、なかなか満足のいく幕引きだ。

 エレナは微笑み、頷いた。


「ええ、考えておくわ」




 三日目の朝。

 エレナはいつものように、サリーに手伝って貰いながら朝の支度を調えた。

 髪はゆったりと結い上げ、ドレスは淡い色を選んだ。

 女主人としての格好を整えた後は、食堂で朝食だ。部屋を出るエレナのために、サリーが扉を開ける。するとちょうど部屋の前を通りかかるアーノルドと出くわした。


「やあ、エレナ。おはよう」


 彼は偶然を装ってそう言ったが、エレナはそうでないことを知っていた。

 あの日、トマと別れた後。

 屋敷に戻ってきたエレナを見つけるなり、アーノルドは平謝りした。酒に酔っていた。“仕事で”色々あってむしゃくしゃしていた。君にとても失礼なことを言った。全て本心ではないんだ。本当に申し訳ない――。

 言い訳の種類は、それこそ庭に咲く薔薇の数より多かったのではないか。

 アーノルドにとって、エレナを怒らせて良いことなど一つもないのだ。

 いまも何とかエレナの機嫌を取ろうと、部屋の前をうろついていたのだろう。


「ええ、おはよう。アーノルド。」


 挨拶を返すと、アーノルドはあからさまに胸をなで下ろした。

 エレナは良い気分で彼の前を立ち去ろうとしたが、ふと思い直して足を止めた。


「そうだ、アーノルド。お父さまと、あなたの子供の面会の場を近々作ろうと思っているのよ。そのことについて話をしたいと思っていたのだけど」

「ああ、ありがとう、エレナ! 今日は午後から時間があるから、ゆっくりと話そう!」


 ほっとしたように、アーノルドが大きく頷く。

 エレナもまた、優雅に微笑んだ。

 アーノルドが、朝食の前に仕事があると言って書斎に去って行く。エレナも食堂へ向かおうとしたが、そこでサリーに呼び止められた。

 

「……奥さま」

「なに?」


 振り返るとサリーは扉を開けたまま、じっと部屋の奥を見つめていた。


「花が枯れかけておりますが、どういたしましょう?」


 訊ねられて、エレナもまたそちらへ視線を向けた。

 僅かに開いた窓から差し込む風に、白いカーテンが揺れている。

 その傍らには、ほとんど枯れかけている一輪の花。

 エレナはしばらくそれを見つめた後、小さく微笑んだ。


「いいわ、捨てて頂戴」

「……よろしいのですか?」

「いいのよ」


 エレナは笑みを浮かべたまま、軽く片手を振った。


「もう、華やいだから」


 その言葉に、サリーが目を丸くする。

 エレナは「ふっ」と笑い声を漏らしてから、颯爽と前を向いた。 

 ちょうどその時、階下から何かをひっくり返して割る音と、若いメイドたちの悲鳴が聞こえた。どうやら何か失敗したらしい。エレナは腰に手を当てると、「全く!」と言って肩をいからせた。


「あの子たち、また何かやらかしたのね! 私が見張っていないと、すぐにこれなんだから!」


 憤慨しながら、廊下をカツカツと足早に歩いて向かう。

 その背後からは静かに、扉の閉まる音がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花は今日も咲いているか。 あさみ @Hub1345

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ