第44話 古傷
心の中に渦巻く感情の出どころを見つけて悦んだのか、紫紺化したアイリスは叫び声を上げる。
場の空気が紫色に染め上げられ、誰一人として声を上げることもできない。
紫紺化とは生命の鼓動を著しく早めるもの。精神に作用する特異的な強化細胞を持つアイリスが解き放った空気は、己が実力を凌駕するプレッシャーを知らない者たちを次々に眠らせていく。
咆哮を終えたアイリスが向かったのは毒島ではなく、苦痛に顔を歪める輩の一人だった。
「借りるぞ」
強化細胞すら持たないこの男の目にはアイリスの存在すら映っていない。手元から消えたナイフに首を捻るだけであった。
同じ動きを三度繰り返し、アイリスの手元には三本のナイフが用意されたことになる。
身体が躍動する度に人が苦しみ意識を失う。国を護る者の姿とはかけ離れた死神の姿を見て、海月さえも言われようのない奇妙な感覚に襲われていた。
三本のうち二本を懐にしまって、アイリスは毒島を一瞥する。
刹那、死神の姿が消えた。
瞬きの間に制空権に入ると同時、伸びてくる毒島の腕の回避先を瞬時に判断——数センチの隙間を作って後方に退き、同時に短いナイフを投げた。
至近距離のナイフを避ける術は彼になく、毒島の胸部には銀色の刃が突き刺さる。
しかし一度目の攻撃が成功したと同時、彼女の顔面に向かって紫の蹴りが飛んできた。
擦りでもすれば死に至る猛毒。かつて自らが様々なことを教えた部下の攻撃だというのに、アイリスの目には全くの別物として映っていた。
アイリスが選んだ対抗策は自らの脚で彼を蹴り返すことだった。
猛毒はアイリスの服へと染み込み、その真っ白な肌を蝕んでいく。もっとも、その程度の苦痛で彼女の手が止まることはない。
「受けましたね、猛毒。手間取ってると死にますよ隊長」
「お前の主はピスケス家か化け物だろ。私はどちらでもないぞ——いや、今の私は化け物かもしれないな」
「……ッ!」
毒島は複雑そうな顔で後退り、またすぐにアイリス目掛けて突進する。
無論、圧倒的な動体視力を誇るアイリスがあれ以上の攻撃を受けてやる道理はない。彼女はその冷たい視線を一切外すことなく攻撃を躱し、最適な瞬間に毒島の体へナイフを突き刺した。
「昔の部下を相手にするのは私も疲れたよ。毒島、大人しく死んでくれないか」
アイリスの口から発せられた名は同胞に向けたものではなく、ただ処理すべき敵への事務的な言葉だった。
二本のナイフが彼の体に刺さったままで、黒いスーツが赤みを帯びて変色し出す。
毒島はあらゆる痛みに抗いながら、三度拳を振り下ろした。
毒手に手を染めてかなりの年数が経つのか、彼の手は恐ろしい色に腫れ上がっている。そんな悍ましいものを見ても眉一つ動かすことなく、アイリスは三本目のナイフで拳を受け止めた。
わざわざ膠着状態に持ち込んだアイリスだったが、特に何も言うことはない。毒島の顔を見ただけで、すぐに戦闘を再開してした。
力の衝突で震える拳を深く抉ると共に懐を取って、アイリスは毒島の腹を蹴り抜いた。
毒島は呻き声を上げて後退り、禍々しい色の胃液を吐き散らす。
そして、ついに言ってはならないことを口走った。
「お前だけは道連れにしてやる。お前の愛したこの国も、俺の主が全部壊してくれ——」
この男は、先ほどアイリスが悪意で選んだ言葉を、ついに肯定した。
それは迷いによる裏切りではなく、心からの裏切り。彼の言葉を聞いた瞬間、死神の心は急速に冷え切った。
目に宿す光を冷ややかに、死神はナイフを投げ捨てる。
「そっか。なら、満足するまで復讐しろよ」
アイリスは毒島との距離を一気に縮め、変色した右腕を掴み上げた。そのまま腕を捻り、一切の躊躇いなしに骨を砕く。
毒手に肌を掠めつつも背後を取り、毒島に刺さった
この光景を称するのならば、一方的な蹂躙。或いはあまりに平淡な単純作業。
満足のいくまでと言っておきながら、死神は容赦なく毒島を追い詰めていく。
それは何か、見たくないものから目を背けているような執心を兼ね備えていた。
アイリスは毒島の足を払って腹部に拳を叩き込み、空いたもう片方の手でこの裏切り者を押し飛ばす。
毒島は刺さっていた二本目のナイフを抜いて捨てる。それらは空虚な音を響かせた。
もはや毒島に勝ち目がないことは、既にこの一瞬より——否、初めから証明されていた。
所有者のいなくなったナイフを拾い上げて、アイリスは毅然とした足取りで革靴の音を地下道に響かせる。
「……遺言くらいは聞いてやる。何かあるか」
「アンタ、不器用なのは変わらないな。多分、それが好きで皆ついて行くんだろうなあ……」
毒手による負担は相当に彼を追い込んでいたのか、自分の敗北を悟った途端に毒島は遠い目をした。
過去に思いを馳せているのか、目の前にいるアイリスに自分の理想を重ねているのかはわからない。
少なくとも、一度裏切った相手に対しての未練を抱いているのは間違いなかった。
「人生の最後だぞ。もっと言葉を選べよ、馬鹿野郎」
アイリスの声が僅かに震えた。
そんなことを言われてもと、毒島は複雑そうな顔をした。
「俺はアンタを裏切ったが、理由まで知って欲しいわけじゃない。さっさと殺してくれよ。おかしくなっちまいそうなんだ」
ナイフを持つ手が揺らぐ。
さまざまな苦労の末に一人前に育て上げた部下の命を、自分が終わらせることになる。
それは誇り高き最後ではなく、大義という言葉で固定された世界のための処刑。
ただ首を切るその苦しみが、アイリスにとってどれだけ大きいものかなど他の者には理解できない。
アイリスは躊躇いながらも膝をつき、同じ目線で毒島の首にナイフを当てた。
自らが殺すことになったとしても、自分以外の誰かの駒になって死ぬよりは何倍もマシだと言い聞かせながら。自分のために死の淵を彷徨う仲間をかつての部下と天秤にかけて、鬼になるために前者を取って。
覚悟と共に力を加えたその時、出来事は起こった。
「アカン、離れろ!」
返り血だらけになった海月が、恐ろしい空気を纏うアイリスを呼び止めた。
直後、彼女を痛みが襲う。
毒島の手がアイリスの腹に叩き込まれる。
腹部は痛々しく、赤黒く変色していた。
「今、何よりも先、アンタを道連れにする考えが先に浮かんじまった。俺、もうおかしいな」
「恩をどれだけの仇で返したら気ぃ済むんや……! どこまでも腐りよって、ぶち殺したる!」
海月は顔を真っ赤にして激昂し、毒島は全てを諦めたような表情でローブを纏う虎と死神を嘲笑する。
この男は結果として復讐を成功させたかに見える。
傍から見れば、全て毒島の目論み通りだった。
「いいよ、海月」
しかし。
全ての反撃も罵詈雑言も、紫に濁った視線が制す。痩せ細った男の頬にアイリスの白き手が触れた。
「お前は本当にどうしようもない男だな。入ったばかりの頃は美少年だったろうに、髑髏みたいにやせ細ってさ。私は死した部下のことも、育ててきたお前たちのことも憶えていたい。だが、お前たちに縛られていては先に進めない。……私のために多くの者が体を張って、生まれるはずのない争いだって生まれた」
アイリスが想起するのは、首都で血に塗れた迅雷の姿に相違ない。
自分の処罰で内部争いを引き起こすことになって、組織の退廃とその油断が首都襲撃を引き起こした。
かつて戦場を共にした戦友を、相当な苦しみに追いやることになった。
「でも、まだ報いられる先がある。お前が自らの理想に傾倒したように、私も幻想と理想に傾斜することにする。お前を狂わせた男も殺さなきゃならないし、この国だって救う必要がある。だから、全てを受け止めるのはこれで最後だ」
アイリスは毒島の手をそっと退けて、再びナイフを手に取った。
毒島は何も言えなかった。
あれだけ裏切ってなお、罵倒も失望も何一つ向けられなかったのだ。
それこそ、最大の別離とでも言えようか。
この男の仕えた隊長の、この死神の信頼する戦友の言葉が、毒島への最後の手向けとなった。
「生に傾斜し続けるよ。迷っている時ほど、何も上手く行かないタイミングというのはないらしいからな」
真っ赤な花が最後に咲いた。
毒島肇は生命を終えた。その事実がそこに広がるだけだった。
アイリスも海月も、それ以上は何も言わずに地下施設を出た。
昼間の日差しは痛々しい。
地上への扉を開けた瞬間に漏れた光を受けてアイリスは顔を顰め、自分の腹部を少し摩った。
戦闘は終了し、じきに第六隊が捕縛作業の引き継ぎに入るとのことらしく、二人の戦いは既に終了したことになる。
「……痛まないんか」
アイリスは言葉を返すことなく外に出る。
常にそこにあり続ける炎の惑星を一瞥して、ようやく一つの言葉が漏れた。
「痛むのかもな。でも、所詮は古傷だ」
もう何度目かもわからない、新しい季節が来た。
アイリスは春風を浴びて、アスファルトを踏み締めた。いつか必ず、思い出せるように。
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