第37話 天敵
影の街の拠点が割れてから、アイリスとルディアは親アイリス派の拠点を使っていた。首都復興のため内部争いが一時停止したとはいえ、戦いが完全に終わったわけではない——人目をつくところを避けた選択の結果だった。
しかし、新たな作戦を行うに際して、拠点を知る面々にも聞かれたくない話題について話し合う必要があった。そこで住まいのない二人が選んだ手段は、影の街に戻ってくることだった。
「相変わらずの治安だな、ここは。一時的に前の拠点を使うが、知り合いが部屋の片付けをしているところだ……終わるまで、別のところで今後の方針について話すとしよう」
ルディアは首肯してすぐ、腕のバンドから影の街のマップを開く。
「そちらの通りに小洒落た雰囲気のカフェがあるそうですよ。いかがでしょう」
「……お前、いつの間にマップなんか作ったんだ。この街の詳細な地図なんざどこにもないぞ?」
「滞在期間は短いものでしたが、最初のマスターが住まう地ですから。少しでも快適にと思い、以前作りました」
ルディアは小さく頭を下げた後、道を先導して進み出す。自我が芽生えていくAIを前に成長の早さを感じつつ、アイリスは彼の後に続いてカフェの扉を通った。
店内は落ち着いた雰囲気で統一されていて、首都襲撃など知らないと言わんばかりの静寂と落ち着きを保っていた。
入店した二人を迎えたのは、皺だらけだが覇気のある老人だった。四角い眼鏡の奥にある双眸で入店者二人の顔を確認すると、老人は枯れた声で事務的な挨拶をする。
「いらっしゃいませ」
アイリスとルディアは会話を聞かれぬよう、店主からは離れた席に向き合って腰掛けた。
古風な雰囲気とはまた似合わない電子パネルの上で「ホットコーヒー」を選択すると、十秒もしないうちに店主がコーヒーを淹れ始める。注文はパネル、提供はダイレクト。このたった一人の従業員が必要かどうかさえ曖昧な、閑古鳥の鳴く中途半端なこの店は、内緒話をするのには十分向きだった。
運ばれたホットコーヒーを前に、死神はまず店主の動向と様子を確認した。皺だらけの顔は表情があまり読み取れない——記憶が曖昧なアイリスの中に訪れた記憶はなかったが、特に注意する必要はないように感じられた。
店内を彩る音楽に耳を傾けたアイリスだったが、好みに合わなかったのか、おもむろにコーヒーとキスをした後、本来の目的について喋り始めた。
「それで、だ。和倉五鈴の救出……警備を突破して奴を救うのは十分に可能だろうが、その後が厄介だと思っている」
「皇帝隊の実力者が追手になる可能性が高い……ということですよね」
アイリスは首肯した。
警備の役割に回る者は平均的な実力の筈だが、脱出の際に追ってくる相手はそうもいかない。ただの隊員で対処できないことがわかれば、隊長格が出動することもあり得るだろう。
「そうなれば私たち二人でも厳しい。話を聞くに、和倉五鈴自身も万全の状態ではないと聞く。怪我人を守りながら皇帝隊を相手取るのは難しかろう」
「ええ、間違いない。何人かの増援がないと厳しいですね」
アイリスは視線を自らの手のひらに落とした後、小さな声でぽつぽつと言った。
「確実なのはロベリアとラーヴァだが……、ラーヴァは当分戦えんだろう。オダマキはアテにならん。そして、今回は桑水流先輩も敵側だろうな」
「桑水流さんが敵、ですか?」
「あの人は悪を許さない。ともすれば、殺人鬼の脱獄に協力すると思うか?」
ルディアは思考する。
最高戦力となる桑水流は敵に回ると予測され、かつて自陣にいた味方は戦線離脱および達観の姿勢を取っている。榎本海月もジャックも思考が読めないため難しく、戦闘可能な協力者は一人しか存在しなかった。
「彼奴らの口ぶりから察するに、神帝裁判の開始まで時間がない。隊長格全員が揃う機会を作り、内部争いを終結させようとする魂胆……その場でお前の提案を出せば通るはずだ。しかし、私たちのどちらかが口にしたところで通じるわけはない。容疑者とその味方だからな、私たちは」
どうしたものかと首を捻るアイリスだったが、彼女から答えが出てくる気配はない。
「他の戦力を説得するのは?」
「説得に失敗した瞬間に詰みだ。立派な叛逆行為だぞ、これ」
肝心のAIからもアイデアは出てこず、たったの三人で皇帝隊全存在を前に和倉五鈴を救う必要があるようにさえ思われた。
いくらアイリスが強いとはいえ、彼女に勝るとも劣らない存在が六人。そこに副隊長が加わるとなれば、三人がいかなる連携を見せようとも——和倉五鈴が協力しても、犠牲無しに逃れることはかなわない。
「しかし、隊長。蛇足かもしれませんが、……もし和倉五鈴を救出できたとして、その先に貴方を待ち受けるのは死罪に他ならないはず。それもお覚悟の上、なのですよね」
「国単位の問題にしなければいいだけだ。昔から逃げるのは得意分野でな、最悪国外逃亡でもしてやればいい」
冗談混じりに呟いたアイリスだったが、AIの目にはそれが本心であるようにも映っていた。
少なくとも、今の
「思考する時間をください。一度停止状態に入ってもよろしいでしょうか」
「好きにしろ。知らない機能ばかりだな、お前」
ルディアの何にも興味を示さなかったことを僅かに悔いたアイリスだったが、思考を重ねる暇もなく、ルディアが動きを止めた直後、——肌が焼けるほどの殺気が彼女を襲った。
「お客サン誰もいないし、最高のタイミング? アイリスちゃん、オジサンのこと覚えてるかなァ」
まるでナイフを心臓に突き立てられたような、強烈な痛みさえ錯覚するほどに強い殺気。
これまで対峙してきたどの者とも違う異常な気配を前にして、アイリスの額を冷たい汗が流れた。
「お、お前……。な、なんで、ここに」
アイリスは、初めてその顔に怯えを宿していた。
「何でって言ってもねえ。そりゃまあ、うちの元隊員が趣味で開いてるバーにさァ、うちの副隊長を殺した悪虐の輩がいたわけじゃん。オジサン気になって飛んできちゃうよねェ」
その男は鬼。
綺麗に整えられ、手入れがされた長い黒髪は、男の奇妙さを体現している。黒いスーツに灰色のローブと、全体的に暗い身体の中で、アイリスを見下ろすその瞳だけが強化細胞の水色に輝いている。
「やめろッ、それ以上私に近づくな」
「そういう訳にもいかなくってさ。オジサンだってそりゃ嫌だよ、君みたいな若い子を処刑台に送るのはサ。でも」
完全に起動を停止してしまったルディアは頼りにならない。
心の奥から現れる計り知れない恐怖を前にして、アイリスの体は震えていた。
そんな彼女の態度など露知らず、男は言う。
「嬲り殺しちゃうよりマシでしょう?」
「っ……!」
次の瞬間。
男の長い脚がアイリスの脇腹に命中した。
「がはッ、あ、あぅっ」
「御免ねェ、悪気はないんだ。大人しく連れ去られてくれると、オジサンも助かるなぁ」
「はっ、はっ、はーっ……今になって私の連行とは、空気が読めないんだな。
男は名を法条司と言った。
それは、皇帝隊第三隊の隊長の名であった。
「ん〜? 呼び捨てできるくらい強くなったんだねェ、君」
路地裏に叩きつけられ、よろめきながらも体勢を立て直したアイリスだったが、目の前にいる法条の圧を前にして、再び地面に膝をつくこととなってしまった。
「う、ああッ」
無意識のどこかでルディアに助けを求める一方で、この情けない姿を見られなくて済んだという安心が脳裏をよぎった。
重圧に体をやられて、死神の体は蜘蛛の巣に囚われた蝶のように動きを封じられている。しかし、脳裏をよぎるのは、傷ついた迅雷の姿と、ボロボロになりながらも〝誰か〟を守ったラーヴァの姿。
法条司の圧を必死に堪えて、アイリスはよろめきながらも立ち上がった。
「……まだやることがあるんだよ。捕まるわけにはいかないな」
一本のナイフをぎゅっと握り締めたアイリスは、己の首飾りを無理やり千切った。瞬間、その長い髪がアメジストの色に輝いて現れた。
戦闘用の軽装に身を包み、アイリスは
「おぉ、すごい色だねェ。オジサン手加減できないから、覚悟して頂戴なァ」
紫紺化したアイリスを前にしても怯むことなく、法条は口の端を吊り上げた。
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