第36話 死神の笑顔
アイリスは暗い顔で悩んでいた。
自分が犠牲になることは避けたいが、誰かを自分のために殺すくらいなら死した方がマシだと思った。しかし、
「……アイリス」
その逡巡を理解したのだろう。海月はゆっくりと立ち上がり、おそるおそる、死神の横へと座った。
この者に対する敵意は殆ど存在せず、故に多少の踏み込みさえ受け容れていた。
「気持ちは十分にわかる。ウチだって五鈴を犠牲にはしたくない。許せんことや」
だったらなんで。その頭文字が喉を通りかけた時、アイリスは意図を理解し、同時に発せられた海月の言葉を聞いた。
「でもな、どっちを犠牲にするかで相談なんざしとったら、また内部の争いになるだけ。そうなれば本末転倒や」
海月の手は力強く握られていた。
人格者と言われる彼女が、この悪行に手を染めることに憤りを感じないはずがなかった。
「それに、な。今ここにラーヴァを運んだんはウチや。ラーヴァは和倉五鈴の過去に同情し、人格のせめぎ合いに苛まれる
アイリスの脳裏にラーヴァの顔がよぎった。かつて彼女を救ってから、自分に誰よりも信頼を置いてくれた人物。その思いを無下にして和倉五鈴を処刑台に送ることは、国のためであっても、自分のためでは決してない。
これだけの判断材料があっても、アイリスは自らの葛藤に決断をつけることができなかった。どちらの選択を取ろうとも、自分にとって欠かせないモノを生贄に捧げなければならない。幾度となく失ってきたアイリスであるが故に、迫られる選択は彼女を何よりも蝕んでいた。
その時。
「アイリスさん」
死神の耳に、なんとも人間らしい男の声が届いた。
「なんて怪我してるんだ、お前っ!」
裂傷だらけの肉体を見て、アイリスはすぐさま立ち上がった。自分のために戦った者が傷ついたのだから、当然の反応だった。
「俺のことはお気になさらないでください。痛覚はさほど、通って、いませんので」
取り繕うルディアの身体が
アイリスは血を軽く拭き取って、応急措置用の薬を塗ってやる。最低限の処置を施した後で、ルディアを床に座らせた。
「厳しかったら無理はするなよ」
「マスターこそ」
思いもよらないルディアの言葉に、死神は僅かに顔を上げた。
「言ってくれるな、お前」
海月がジャックの介抱をしたのを確認すると、ルディアの正面にアイリスは座った。
「……聞いてくれるか?」
「ええ。俺は貴方のAIですから、どんなことでも」
アイリスはゆっくりと、己の心内を吐露し始めた。
国のためか仲間のためか、自分の命か同胞の命か。重要な当事者であるが故の葛藤、払拭しきれないほどの悩み——アイリスを蝕み続けた腫瘍について、ルディアは目を逸らすこともなく聞いていた。
全て話し終えたアイリスの顔に焦燥があったのは言うまでもない。
——しかし、このAIは違った。
人間以上の冷静さを常に誇り、出会ってから常に、傍でアイリスを見続けてきた人物。
だからこそ、人間が冷静さを欠いたとき、この者は誰よりも力を発揮する。
「どちらも死なせない、その手段があるのでは?」
「何だと?」
そして、ついに革新的な発想を口にした。
「和倉五鈴を犠牲にするのは、内部争いを終わらせてXを立て直すためなのですよね。でしたら、Xの復興を、和倉五鈴が処刑される前に済ませてしまえばいいのではないでしょうか」
ルディアの提案は斬新なものだった。
和倉五鈴を犠牲にするのはX復興のためであって、彼女の罪を裁くことは目的でない。つまり、Xさえ先に復興してしまえば、和倉五鈴がどうなろうと、つまり、アイリスが救おうと、榎本海月や桐崎にとっては関係がない。
最も、彼女を生かすことが大衆のためになるとは限らないが。
「……随分、大きく出たな」
思いもよらぬところからの発想を聞いて、アイリスは小さなため息をついた。
自分の手に落とされ続けていた目線をルディアの方に向けると、——アイリスは笑った。
乾いた笑いだった。とても不器用で、笑い慣れていない笑みの仕方だと、ルディアは思った。口の端を上げて、目を少し閉じる。多くの人間が当たり前に見せるはずの顔がぎこちなくて、AIの中に未知の感覚が浮かび上がった。
半ば呆然とするルディアを見て、アイリスは言う。
「そうだな。死神なんて揶揄されても、
AIにまた救われるとは。死神は心の中で呟いた。
死神の笑顔にまだ見惚れていたルディアは、彼女が立ち上がったのを見てようやく意識を現実に戻した。
「詳しくは後ほどだな。結局、頼れる人間は少なそうだが」
壁に空いた大きな穴から、アイリスは空を仰いだ。
戻ってきた海月に一度帰らせてもらうと言葉を残して、IとAIは拠点を後にした。
アイリスが悩みを払拭できた、それよりも前に遡っての出来事である。
人も住まないXの外れ。本来ならば化け物が闊歩する占領地域として扱われているこの場、人が生きられるはずもない。
しかし、和倉五鈴は飲み食いを行った上で生き延びていた。
過去に訪れたこともあるこの外れも、かつては人が暮らしており、化け物の掃討にかかったことだってある。軍に関わっていた人物しか知る由はないが、廃棄されたこの地点には、当時の最先端技術を使って保存された食品が数多く隠されているのだ。
化け物に踏み荒らされて使えなくなった拠点も多かったが、五鈴は襲撃の少なかった場などを的確に見つけ出し、移動を繰り返しながら生き延びていたのだ。
「傷はまだ癒えませんか。恍惚の和倉め、余計なことを」
草木がコンクリートを蝕む暗い高架下で、別人格——黒い髪を持つ五鈴は、この拠点最後の食事に手をつけたところだった。
(戻るたびに皇帝隊の警備は強くなっていく。このままでは、人を食べるのも時間の問題かしら)
汚いコンクリートの壁に身を預けた五鈴は、物憂げに天井を見上げた。
恍惚の和倉から分離した、より元の和倉五鈴に近い方が今の五鈴。彼女は恍惚の和倉と同じ人斬りでありながら、和倉が望まないことを行う反骨性も持ち合わせていた。サウスエンドでの事件を引き起こしたのも、この黒い五鈴である。
しかし、今は何かが違った。ラーヴァと名乗る副隊長に敗北して、意識を失ったのちに、恍惚の和倉さえも説き伏せられた。二つの存在が共に、ラーヴァという存在を認めていた。和倉五鈴という人格の複雑性、各人格の好みの違いなど、それらを考慮しても、起こり得ない稀有な出来事だった。
(もはや生きる目的も特にない。人を斬るだけ。……それでも、あの女に救われた命を捨てることは許されないと思ってしまう自分がいる)
五鈴は深いため息と共に立ち上がり、最後の保存缶を両断した。
その時だった。
「よう、和倉先輩」
高架下の向こうから男が現れた。相当な重量のハルバードを携えた長身の彼は、和倉五鈴を見て不敵な笑みを浮かべる。
「辺りに化け物がいないモンだから、和倉先輩が殺しちまったのかと思ったんすけどね。どうやら、Xから化け物が消え去っちまったみたいで」
「まァそんなことはどうでもいいんすよ。一応、元同組織のよしみってことで……傷つけたりは避けたいんで、大人しくしてくれると助かるんすけど」
ハルバードがぎらりと光る。男の中に潜む殺気を精一杯に抑えての言葉には、拒否権を認めないとする制圧力が込められていた。ただでさえ動かない体をいかに駆使しようとも、この男に勝てないことがわからないわけがなかった。
五鈴は鞘から手を離し、ただ黙って頷いた。
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