第29話 影の街
また別の場所にて。南の惨劇や戦残党の制圧から二日が経過した頃の話である。
かちり、かちり、かち。
影の街に潜みながらカウンターを押す者の姿があった。
女々しい青髪のその者は、いかにも重そうなロングコートに身を包み、寒さに吐息とメガネのレンズを曇らせていた。
かち、かち。
それに明確な意味はない。寒さとストレスを払拭するための行為に過ぎなかった。
「こんなところに女性が一人とは感心しない。何か探し物かな?」
路地に潜む青髪に、高級さの漂う背広を羽織り、ハットを被った男が声を掛けた。男の顔には作られた笑みが張り付いており、青髪のほうは一目で男の内にある卑しさを見抜いていた。
青髪は男を無視する。
かち、かち。
「時に、こんな街に住むくらいだ。金銭に困っているんじゃないかね?」
かち、かち、かち、かち。
また無視が続く。
憤った男は青髪の腕を掴もうと手を伸ばした。
かちり。
ロングコートが宙を舞う。青髪は逆さ吊りで、男の頭蓋の背後に静止していた。
「君は人を見る目がない。スイーツバイキングの店が潰れたせいでボクは虫の居所が悪いんだ」
人間離れした者にしてもありえない動きだった。体が物理法則を完全に無視していた。
「それと、ボクにそっちのシュミはない」
男の首に強烈な何かが飛んだ。
言葉を返す間も無く倒れた男を一瞥して、青髪はため息と共に着地した。
ふと腕を確認する。巻きつけられた小型のバンドは時刻を示し、同時に着信を受け取って蛍光色に輝いていた。
「もしもし亀卦川。なに、海月から呼び出し? なんで君が。……遊んでないでこっち手伝え、か。あいつらしい」
青髪は電話の向こうからの声を聞いて、気の合う友と雑談を楽しむような調子で答えた。
「ボクは豆の木じゃない。「と」でもないから。ジャックだよ、ジャック! いい加減覚えろこのタコ!」
平かな表情の青髪は電話相手の茶化す声を聞いて見た目に合わない大声を上げる。
青髪は己のことをジャックと称した。
「獲物? あぁ、眠ってる彼女がいつ起きるかでキミの動きは決まるんじゃないかな」
電話を切ったジャックは路地裏を出、その向こうにある郊外へと目をやった。
遠目でもわかる黒塗りのクルマ。そこに乗る二名の人物を視認したジャックは、気怠そうに路地裏を出ていった。
気分転換という名目で行われた稽古から二日後。
アイリスと桑水流はある街へと向かっていた。
影の街を抜けセントラル・アーコロジーの方面へと向かう途中で通りがかる、——アイリスが初めてルディアを学習に連れて行った場所であった。
誰も通らない旧車道を黒塗りの車が駆け抜ける。
桑水流が再びバイクを回そうとしたのを、この辺りは自分の方が詳しいので、と遠慮してアイリスが車を出した結果だった。
「曲がりなりにもアイリスの先輩は私だし。とうぶん追い越されるつもりはないよ」
道路には誰もいない。
わざわざ表に出たのは、買い出しも兼ねて少し茶を嗜もうと桑水流が提案したからだった。郊外で軽く買い出しを済ませ、その後で向かおうというプランの最中。
曇り空に冬の影と、ヘッドライトが昼間でもヘッドライトを必要とする暗さだった。
「君が久しく姿を見せて、あのAIを連れてきて。そろそろひと月経つのかな」
「えぇ。多忙すぎる一か月でした」
「あぁ、確かにそうだ」
ハンドルに自重をかけるアイリスに、桑水流は屈託のない笑みを浮かべた。
拠点の所在地から目的地までは時間があったので、二人は他愛もない雑談を繰り広げた。積もる話は続けるごとに崩れていき、何気ない二人のやり取りは長く続いた。
「君が昔のクルマを好む理由、なんとなくわかった気がするよ。最新機器じゃ景色なんて見られないし」
一区切りがついた頃、桑水流は満足そうに息を吐いた。辺りにあるのは和やかな空気に違いない。
そこで、アイリスは自分から話を切り出した。
「先輩。早いうちに話しておきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
内容を悟ったのか、桑水流はアイリスの方を見て頷いた。それ以上確認を取ることもせず、ぽつぽつとアイリスは語り始める。
「……私がはっきり覚えているのは、今この瞬間から、影の街への移住を始めた頃までです」
桑水流は態度で続きを促す。ゆっくりと、アイリスは続きを語り出した。
「第三隊副隊長の殺害容疑や、私が皇帝隊を去った理由に関する記憶は曖昧なのですが、あのとき私は皇帝隊を嫌悪していました。いえ、そんな感情はどうでもよくて」
ちょうどアイリスの旧自宅を通り過ぎた。
この一か月、飽きるほどに通った後輩の家を桑水流は一瞥する。
「戦争中に助けた
旧車道の高度が増していく。他の都市へと繋がるその道は徐々に高くなるよう設計されており、登りきれば影の街が一望できる高さになっていた。
アイリスは昔の住処を見た。
影の街には暗がりが多い。使われない建物が無駄に密集し、大量に路地裏が存在する。
「所在を隠蔽する代わり、たらい回しになっている皇帝隊の業務をこなす取引を守時は提案しました。賃金も支払うと条件提示されて私は承諾。それから数年間、影の街で生活を続けました」
目を細めれば色々と見えてくる。住まう者の生活の仕方も、暗がりの中に潜む者の姿でさえも。
「刺客が送られることもありましたが、あの時を考えれば、……悪くない生活だったと思います」
「そっか。苦しみから少しでも解放されていた時があったんなら良かった」
桑水流は初めて言葉を返した。
影の街はだんだん遠くなる。
目的地との距離は確実に近づいていた。
「私の持つ記憶はこれだけです。守時との関わりが長いことは覚えていますが、なぜ私を助けたのか、周りの反応を見るにただの友人とは考えにくい。先輩の記憶をお借りしたいのですが」
道路は傾斜に差し掛かり、下りの勢いで速度が増した。素早く流れて行く平坦な景色と共に、閑散とした郊外へ繋がる道が見えてくる。
「まず、君が皇帝隊を去った理由は私も知らない」
そう言った後で、桑水流がロベリアに用があって隊舎を訪れた時、アイリスの部下が彼女に問答するところを見たことがあると付け足した。
現在アイリスは第三隊副隊長殺害の罪に問われている。真偽はさておき、殺害後に隊舎に残って会話とは考えづらい。
「アイリスが殺害の犯人だと仮定するなら、皇帝隊を抜けるために罪を犯したという順番で考える方が自然だ。証拠を残さず綺麗に片付けられる人間なんて皇帝隊でも限られている。
しかしこの殺人は不完全犯罪だ。
だってそもそも、殺す対象がもう死んでいるんだから殺しようがない」
「——え?」
運転中にもかかわらず、アイリスは思わず桑水流の方を見た。自分の考えとは予想外のところで、ありえないくらいに物事が進んでいる。
「少し話は逸れるが、君の記憶は徐々に欠けている。
皇帝隊第三隊の副隊長がどうなったのか、君が知らないはずがない。
真犯人は王の勅命としてアイリスを犯人に仕立て上げた。公になっているのは副隊長殺害容疑だけだが、隊の内部にはそれ以外にも大量の罪をなすりつけて発表してね」
そこまで聞いてしまえば、結論が知りたくなるのは道理である。
アイリスの胸にかつてない緊張が走っていた。
心臓が強く弾み全身が震えるほどに脈を打つ。全身を駆け巡る感情に、アクセルを踏む力はどんどん強くなっていた。
しかし、結論よりも先に目的地がやってくる。
「……ひとまず区切ろうか。重苦しい話ではないけれど、結論は落ち着いた場で話す方がいい」
思わず顔を顰めるアイリスに対し、桑水流は笑いながら頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ほら行くよっ」
「せんぱっ、ちょっと」
運転席とは逆方向からアイリスはおもむろに引き摺り出される。フードを被り直して立ち上がり、目の前に立つ桑水流を見て停止した。
桑水流麗奈は微妙な
「かつて死した第三隊副隊長。その名は」
桑水流の口が動く。
——守時晴香
それは、かつて守時冬樹が失った奥方にして、ラーヴァの母親の名前だった。
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