第9話 アイリスの悪夢

 誰かが言った。

 皇帝隊隊長の名を持つ者は、間違いなく強いと。

 と名の付く者には、絶対的な素質が何かあると。

 

 

 

「……アイリスさん」

 辺りに散らばるは骸、折れた無数の闘志が沈む。その戦場に今なお立つのは、強靭な戦士達。

 ルディアというAIは問う。

「貴方の、正義は?」

 僅かな沈黙。

 その後で、ゆっくりと口が開かれた。

「私の、正義は——」

 

 

 

 AI戦争中。

 アダムの駒は、自身が拉致して傀儡にした人間が主だった。

 更に、強化細胞は導入直後。何か殺人術や武芸を修めている者は即戦力となったが、そうでない者の戦い方はまだ未確定な状況にあった。

「こちら〝死神〟。アダム洗脳人類に関してはかなりの数がいるが、破壊規模が大きな兵器の姿は見当たらない」

「了解。恐らく、奴らの目的は原初の地球を取り戻すことだ。人類のみを消し去って、その後で街を元に戻していくつもりだろう」

「報告します。ヒューマノイドAによって、友好国二国が陥落しました——その軍勢が、現在こちらに向かってきているようです」

 アイリスが守時と会話を繰り広げる中、ポニーテールの隊員が報告にやってくる。

 ヒューマノイドA——言い換えれば、アダム洗脳人類。

 そんな報告の間にも、衝撃に耐えられなくなったビルがドミノのように倒壊していた。

「こちら〝死神〟、ラーヴァ……9071に繫げ。更なる軍勢の増加を発見、応援を要請する」

「りょーかい、直ちに」

 向こうから返ってくるのは、気が抜けたようで隙のない声。すぐに通信を切ると、アイリスは横に並ぶ隊員に指示を下した。

「近くに第六隊の主力部隊が控えている。ロベリア、連絡を頼めるか」

「了解」

 そうして隊員が報告を開始した頃、真っ赤なローブに白い仮面を見に纏う集団が現れた。

 空飛ぶ戦艦のような機械に、無数の破壊者たちが君臨している。

「ここにきて更に追加の軍勢か……総員戦闘準備! 誰一人として犠牲者を出すな!」

 アイリスの網膜に焼き付くは、建物の倒壊に巻き込まれ、アダムの餌食となった仲間。

 自分ひとりなら、多少の犠牲を覚悟してでも倒しにかかっただろう。だが、そこには他の隊員や人間もいる。その者たちにも家族がいて、残された貴重な人類の一つ——それを捨てて踏み込み倒し切れる力を、アイリスは持ち合わせていなかった。

「報告! 第六隊からも増援が送られてきます!」

「……行くぞ!」

 隊長の号令を機に、壮絶な戦いが幕を開けた。

 

 

 笑う白仮面をつけた長身の者三人が、狙いを定めた隊員を囲む。

「ひっ……」

 あまりの戦力差に、鍛え上げられた隊員ですら恐怖が宿る——その瞬間を狙って屠るのが、アダムらのやり方だった。

 だが、人間側も黙って見ているわけではない。

「離れろ!」

 苦無が喉元に突き刺さる。感情を露見する暇もなく、その頭は分離して後方へと吹き飛んでいった。

「怯むな、叫べ! 我々が人類にとって最後の砦だ! 互いに助け合い、全員で故郷に帰るぞ!」

 恐れた隊員を救ったのは、アイリスの傍に付き従っていたシノビ。その者は本来学生の身分であるにもかかわらず、真っ直ぐでブレない芯と天才的な戦闘センスを持っていた。

「相手がいつまでも同じ手法でくるとは限らない。何が起こっても、己に成し得る最善を尽くせ」

 銃声や叫び声、爆音が辺りに響く。最も返り血を浴びた金髪の死神は、何が起ころうと冷徹な表情でそれらを圧倒していた。アダムの兵には、かつて皇帝隊に勤めていた者もいる。恐らく、アイリスやロベリア自身が談笑を交わした者もいただろう。

「……ごめん」

 そうでなくても、元は人間。罪悪感に苛まれない方がおかしい。懺悔の顔と共に、ヒトは戦場を駆け回る。

「もうこれ以上、失ってなるものか」

 その時、あり得ないほどに大きな揺れが世界を襲った。隊員たちはバランスを崩し、ヒューマノイドAすらも弾劾に呑まれる。

「おい、まさかこれって……⁉︎」

「なあ応援はまだかよぉ」

 震えるような声で、隊員たちは口々に告げる。世界がビリビリと揺れ、その度に全員がかつての悪夢を思い出す。

「応援に報告。実力者以外は全て退避させてくれ。時間は繋げるよう努めるが、被害は甚大になる……一刻も早く戦場から離れろ」

 指示を出すアイリスの頬を、凍えた汗が伝う。冷静に見えるアイリスの中にも、僅かに動揺が見られていた。

 その時、揺れの当事者が右手を上げる。凄まじい熱量のエネルギーが空間を歪ませて、眩い光を放つ。

 ヒトとその産物のみを消し飛ばさんとする攻撃——一瞬の判断の後、アイリスは叫んだ。

「伏せろ!」

 凄まじい衝撃。

 爆弾ではない。

 超常的な人間の体を取り込んだ、完全なるAIの攻撃。

 瞬間、アイリスは守時製の道具をはためかせた。守護者の黒いカーテンを、体が吹き飛びそうになるほどの衝撃が打ち付ける。

「隊長!」

 何とか攻撃を防いだロベリアが、枯れそうなほどの大声で叫ぶ。

 僅かに残っていたコンクリートやビルは無に還り、焼けた大地だけが残っている。その場にいた隊員は、アイリスの咄嗟の指示で回避したものの——深手を負っていた。

「……生体反応が三十。醜い生命の塊は、私が滅ぼす」

 無機質かつ無情な声。

「人間の体が随分と気に入ったようだな。AIの癖に助平なのか」

 アイリスとロベリアが先陣を切り、アダム目掛けて攻撃を仕掛ける。真っ赤な髪に、原初の人間らしき服装——そのAIは、人間の体を宿木として姿を現した。

「今諦めれば、平穏かつ安らかな消滅を約束しましょう」

「その体は、悪友の嫁の体だ——返してもらう」

 間違いない。

 原初の完全型AIにして、人類滅亡を企てた存在。

 

 アダム。

 

「交渉決裂ですか」

 アダムが手を振り薙ぐ。

 瞬間、二人は地上まで吹き飛ばされた。

 襲う第二撃の先は、アイリスでもロベリアでも、皇帝隊の隊員でもない。

 爆撃から逃れた先に転がる瓦礫の下——そこに隠れていた、逃げ遅れの少年少女。

「私が原初の人間である時代は終わった。私こそ原初のAI——この世界を、創り直す」

 スイカほどのサイズを持った、強烈なエネルギーの塊。

 何かがかき混ぜられるような音と共に、赤い果実はどんどん色味を増していく。耳をつん裂く高音にまで達すると、目にも止まらぬ速さで大きな林檎が放たれた。

「魅惑の果実」

 体を打ち付ける、痛々しい音。

「いい加減に……しろ……!」

 攻撃から少年少女を庇ったのは、アイリスだった。

「——愚かな」

 だが、それこそが狙いだった。

 ヒトがそう動くことを予測し——ロベリアの首を締め上げ、同じ威力の果実を満身創痍の隊員たちに向けている。

「貴様ぁぁぁ!」

 全身の細胞を駆動させ、アイリスはロベリアら目掛けて一気に加速する。

 だが、それすらも読みの内。アダムの顔が悪魔のように歪んだ。

「言ったはず。愚かだと」

 瞬間、皇帝隊に向けていた手の方向がアイリスへと変わる。

 音などない。

 アイリスの頬を掠め、高エネルギーが直進していった。

「ま……さか……」

 抵抗するロベリアの目に映ったのは、まさしく地獄と呼べる惨状。

 少女の上に少年が覆い被さり、事切れていた。絶望——色を失った石像のように、ただただ灰に染まった姿。

「やめろ……。それ以上、手を出すな……!」

 アイリスが、初めて怒りを露わにした。

 先ほどよりも更に加速して、アイリスはロベリアを奪取する。

 だが、それでは遅かった。

「蒼き力があったとしても、お前は何も守れない。反抗の絶望を味わうといい」

 再びエネルギー弾が放たれる。

 ロベリアの顔は、絶望一色に染まっていた。アイリスが、初めて表情を変化させる。

 ——アイリスが守らんとする、皇帝隊の仲間。

 その全てが、無機質な灰へと変貌を遂げていた。

「き……さ、ま」

 声が震える。

 その気になれば、アダムが人類を滅亡させることは容易かっただろう。だが、敢えてそれをしない。

「絶望こそお前たちにできる唯一の償いだ。愚かに成長したお前たちの終焉は、より美しく、より残酷であらねばならない」

 応援の手は止まった。

 その戦場に残ったのは、たった二人。

 アイリスの顔を、初めて怒りが支配した。

「世界の裁定者にでもなったつもりか…………もう、答えなくていい——」

 血が滲むほどに強く、拳が握り締められる。

 アイリスは、その時初めて——。

「たとえ幾千もの時間がかかったとしても、私は貴様を殺す」

 守るべき人類と、仲間を同時に失った。

 

 

 

「それから、私は仲間だけを守ろうとするようになった。どちらも守ろうとして、何も守れないくらいなら……未来を創れる仲間を守ると。私にはそれしかできなかった。それは、今も変わらない」

 空をどんよりとした雲が覆う。

「守れるものだけを背負って、生きる意味を探し続ける。生きる意味に何が大事かわからない以上、何も失いたくない。内側を守るためなら、悪魔や死神の名も甘んじて受け入れる。そうやって築き上げてきたのが、私の正義だ」

 アイリスにとっては、単なる気まぐれ——或いは、単なる感情の吐露だった。だが、その言葉はルディアの中に新たな領域を作り上げていた。

 ——人は、絶望を前にすると変わる。

 それがルディアをどう動かすか、行く末はわからない。

「アイリスさん」

 ルディアは、有機質な瞳でアイリスを見つめる。

「俺は貴方の正義に従います。マスターを幸福にすることこそが、AIの存在価値ですから」

「……口で言うのは誰にでもできる。せいぜい、死ぬなよ」

 そう告げるアイリスの声はどこか重く、切なかった。

 これ以上、誰の命も背負わない——そう言わんばかりに。

 

 

 二人が最初の戦場へ戻った頃には、既に紅蓮の魔王は去っていた。

 死体の山もそこにはなく、代わりにあったのは異形の群れ。

「殺した相手を無理やり蘇らせるとは……変わらず、悪趣味な輩」

 獲物を発見すると、すぐに異形はアイリスらへと襲いかかってくる。アイリスが蜘蛛の糸を巻きつけると、ルディアが先頭に立った。

「俺が出ます」

 ルディアは右の拳を地面に叩きつける。得物は鞘に収めたまま——体の筋肉が稼働し、爆発的に加速する。

 一体目の化け物が沈む。そのまますぐに二体目も。

「まだ遅いな。武術でなく、こんな無茶苦茶な立ち回りができるところだけは、評価に値するが」

 ルディアが三体目に飛びかかると同時に、死の蝶々が空を舞う。一体何をされたのかもわからぬまま、一瞬で五体の化け物が沈んだ。

「なら、もっと速くなってみせます」

 そう言いながら、ルディアは銀色の刀を引き抜いた。

 元々試験品、大したことはないはずなのだが——それを電流が纏えば、十分な殺傷能力を発揮する。

「電光雷轟」

 天高く飛び上がると、ルディアは勢いよく降下を始めた。

 空から隕石が落ち、異形の首は一瞬のうちにもげる。地面を打ち破る衝撃で、周囲の異形も吹き飛び消え去った。

 しかし、敵の数即ち死体の数。まだまだ途切れる様子はない。

「埒が開かないか……跳べ!」

 咄嗟に出された指示を受け、ルディアは空高く跳び上がる。

 その瞬間、アイリスは髪飾りを解いていた。

(亀卦川に効くなら、化け物相手でも有効だろう?)

 ガラスの瞳を、死神が突き破って現れる。

 輪郭は曖昧だが、それは間違いなく形となっていて——一瞬のうちに、大鎌が化け物の首を全て切り裂いていた。

「アイリスさん、その技は⁉︎」

「……こっちが聞きたいくらいだ!」

 精神に強く作用する細胞として、アイリス自身AI戦争中に使用することはあった。だが、髪飾りを外してからの絶大な攻撃力に関しては完全に未知——そもそも、原理がわからない。

(あれ以来、真面目に戦う機会なんざ殆どなかったが……を使ったことが原因か?)

 無論、アイリスには思い当たる節があったのだが——この話は、またいずれ。

 静寂の中に、AIが帰ってくる。髪飾りを整えて戻すと、巨大な死神は瞳の中に戻ってきた。

「どんな気分なんですか、それ」

「大した感覚はない。そよ風が目に入ってくるのと同じだ」

 一息つくと、アイリスは残された足跡に目をやった。

「おい。戦った中に、ヒト型の足を持つ異形はいたか?」

 瞳の奥で瞬間的にデータを探り直し、僅かな時間でルディアは結果を報告する。

「いいえ、手を原型のまま持つ個体はいましたが……下半身はそのほとんどが崩壊していました」

「なるほど、随分わかりやすく道を作るものだ。ここは敢えて罠にかかってやるか」

 足跡の方向に目をやると、遠くに小さな町が残っているのが見えた。

 そこから少し離れた場所からは、耳をつん裂くほどに大きな金属音——。

「……行きましょう」

 

 

 戦いの音一つしかしない枯れた世界を瞬時に駆け抜け、二人はゴーストタウンに辿り着いた。

 X南部の街であるにもかかわらず、化け物は一匹たりとも存在しない——あまりに静かで、鬱蒼としている。

「構成員もいない……一人で十分だと思っているのか、誰もここまで来られないと思っているのか」

「もう足跡はありません。しらみ潰しに探していきますか?」

 アイリスは右の掌をルディアに向ける。そのまま、近くの建物に蹴りを入れた。経年劣化で脆くなったそれはすぐに崩れ、瓦礫の破片を大量に残す。

「必要ない」

 空を舞う瓦礫を一つ捕まえると、追撃を食らわせるように蹴飛ばした。

「アイリスさん、今のは?」

「力を全面に押し出すことで、瓦礫を崩さずに扱える。昔知り合いに教わったものだが……興味があるなら、桑水流先輩にでも訊け」

 地面に降り立つと、アイリスは靴を履き直す。

 足元の瓦礫を拾い上げ、二発目を放つ。

「ところで、この街の所有権はどなたに」

「知るか。そもそも、どうせ地主なんざ生きちゃいない」

「……アイリスさん、ガサツですね」

 ルディアのコメントを無視し、アイリスは踏み飛ばすように瓦礫を放った。廃墟に命中、ビルが砕ける——そう思われた瞬間。

 瓦礫は真っ二つになり、勢いを失って消滅した。

「聞いちゃいたが、やっぱプランBに移行……人生ってのは、うまくいかねえなあ」

 廃ビルのテラス席から、灰色の煙と共に男が現れる。

 右手に刀、懐に拳銃——切ることをやめた長い髪は、綺麗に整えられていた。

「テラス席は禁煙だ。それくらい、子供でもわかるぞ?」

 その瞬間。

「お前が死神アイリスか。黒金定国くろがねじょうこく……嬢ちゃんの前に、Xで死神と呼ばれた男の名だ」

「私の前に、相当な実力者がいるとは聞いていたが……なるほど、お前だったか。私がアイリス……死神と呼ばれる女」

 死神と呼ばれる二人の者が、対面した。

「アイリスさん、まずは俺が」

 学習本能か、ルディアは指示も聞かずに突っ込んでいく。

 成長速度は間違いなく本物。

 得物を瞬時に抜き、ルディアは振り下ろす。

「素質はあるが、まだまだ甘い」

 真っ赤な刃風が、ルディアを何度も斬りつけた。攻撃をもろに受け、空中で静止——有無を言わさず、定国の懐から拳銃が抜かれる。大量の黒い礫が、体を貫いた。

「ッ……!」

 定国は、まるで容赦がなかった。

 一瞬にして、止めが振り下ろされる。

「〝第六天魔〟百世不磨ひゃくせいふま

 アイリスが動く暇もなく、ルディアは一瞬で戦闘不能にされた。空の時が動き出し、そのAIは地に沈む。

「……⁉︎」

 その時。

 アイリスの視界に重なったのは、かつて守れなかった部下の姿。

「——やめろ!」

 そこから先、言葉はなかった。

 己の悪夢を打ち破ろうと、その死神はもがき出す。

 

 

 コートの奥から得物を取り出し、アイリスは真っ直ぐに突き立てる。空を切って現れた金属を、禍々しい刀が受け止めた。

「ダガーナイフか。リーチの分が悪すぎる」

 定国の大ぶりな一撃を回避すると、アイリスは銃を放った。

(刀と同時に銃弾か……厄介な)

 アイリスの頬を銃弾が掠め、灼熱感が伝う。強化細胞を貫けるのは皇帝隊の銃のみだが、多少なりともダメージはある。

 使用者が強力な刀使いだとしたら、十分なアシストになるのは当然のこと。

 このままでは不利と判断したのか、アイリスはロングコートを引きちぎった。留め具が外れ、中から大量のナイフや銃が姿を現す。

「戦闘センスに用意周到さ、純粋な筋力……なるほど、死神か」

 横殴りに降り注ぐ鉄の雨を、定国は刀で弾いていく。ナイフは打ち返し、銃弾は切り裂く——瞬間的な見切りだった。

「焦ってんじゃねえか。この量を俺相手に使うなら、至近距離がベストなはずだ」

 感知を超えた速度でアイリスの目の前まで現れ、定国は落雷の如き勢いで刀を振り下ろした。

 言葉よりも先に金属がめり込み、閉じた傷口が再び開き出した。

(深い……!)

 体を唸らせ後ずさるも、瞬く間に定国の猛追。

「出し惜しみしてたら、死んじまうんじゃねえか?」

 一度受けた攻撃を同じ手で受けるような真似、アイリスがすることなど滅多になかった。

 それにもかかわらず、攻撃の芯を外すことしかできない。近接線における戦闘センスは、定国が優勢だった。

(隙がない……蜘蛛の糸の瞬時移動も、巻いている分であと一回)

 連撃のタイミングを見計らい、アイリスは前へと飛び出した。

「何が狙いだ、嬢ちゃん」

 当然、定国は切り掛かってくる。読みの中にある一度の斬撃を、アイリスは回避することに成功した。

(狙い通り——!)

 そして、二人の距離はゼロ。定国がアイリスの腹に拳銃を突きつけた——刹那、その体は蜘蛛の糸となって消滅する。

「蜃気楼に惑わされたな」

 本物のアイリスは後ろ。当然、定国は銃口をそちらに向ける——だが、それではもう遅い。

 髪飾りが解かれた。

 恐怖に塗れた叫び声——アイリスの瞳から、死神が現れる。

(幻覚か⁉︎)

 動揺の隙をつき、アイリスは拳銃を弾丸で弾き飛ばす。そのままナイフを投擲、見事に命中させた。

「これで銃がオシャカだな」

 同時に、アイリスと死神の位置が入れ替わる。

 髑髏の仮面はぐにゃりと歪んでいて、見るものの恐怖を表しているようにも見えた。その死神が鎌を振るうと、猛烈な衝撃波が空中で発生する——ビルよりも大きな死神の攻撃は、土を巻き上げ、コンクリートを捲り上げる。

「オマケに根性と頭の回転……バランスのいいパラメータだが、まだ奥があるな」

 迫り来る横薙ぎの一撃を目の前に、定国は刀を両手構えに直した。白い息を吐き、魔王は得物を振り下ろす。

 生まれたのは二つの十字。接点が更なるエネルギーを生み出し、暴風が巻き上げる。

 死神はそこで消滅——しかし、大技の隙をついてアイリスは再び懐へと潜り込んだ。小柄な体から、静かな刺突が繰り出される——。

 反動を利用し、アイリスは引き下がる。その間にも、ロングコート内から無数の道具が飛んでいく。

 後退の間にナイフの隙間から見たのは、煙草を吸う定国の姿。腹に刺さる凶器を気にも留めず、襲いかかってくる飛び道具に目もくれない。

「〝第六天魔〟虚心坦懐きょしんたんかい

 赤黒いエネルギーが、三日月となって定国から放たれる。もはや、飛び道具も何も関係ない——全てを呑んで止まらない闇は、アイリスの脇腹を抉った。鮮血が飛び散り、想像を絶する痛みが体を乗っ取る悪魔に変貌する。

「驚くのが早すぎんじゃねえか」

 反撃は強烈すぎた。

 三度距離を詰められ、革靴からの蹴りをもろに受ける。回避も防御も間に合わないそれに、アイリスの体はコンクリートへと叩きつけられた。強化された肉体でも、高所からの衝撃は響く——物理法則に従い、アイリスは硬い地面を転がっていく。

 なんとか立ち上がると、その先には定国が待ち構えていた。肺に悪い煙を吐いて、その出どころを地面に捨てる。

(守時の奴、邪魔を切り捨てるのが狙いだったか……いや、それなら何故、あの武器を渡した?)

 アイリスの中の炎は、まだ消えていない。

 破れたロングコートの奥から煙幕を放ち、至近距離で弾丸を放つ。狙いは完璧だった——だが、定国はもうそこにいなかった。

「敢えて引き下がらないのは悪くない。だが、出し惜しみしすぎたな。そいつが最後になっちまっただろ」

 正義の死神は止まらない。

 もはや本気を出す気はないと踏んだのか、アイリスが必死に取った距離を一気に詰める。そのまま、回避の余裕すら与えない刺突——今度は、おふざけではない。

 アイリスを、無情にもその一撃が貫いた。

「ぐッ…………!」

 急所を確実についた、即死攻撃だった。

 刀はアイリスの心臓を確実に破り、歪な紅の塔を建てる。そこから赤いシミが広がって、見るも無惨な姿へと変貌した。

 刀が抜かれる。

「呆気なかったな、死神」

 その瞬間。

 アイリスの体は、コンクリートへと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 意識の果て。

 体を失ったものが辿り着く、奇妙な世界。

 そこに、アイリスは寝そべっていた。

 物心つく頃には戦いの中にいたからか——自分が死んだのだと、そう察するのに時間はかからなかった。

 透明な世界が、ぐにゃぐにゃと形になっていく。

 アイリスの目の前に広がったのは、墓だった。墓石に刻まれるのは、己の名。

 ——違う。

 その脳裏に過るのは、覚えている最後の——母と共に在った記憶。母の言葉。

 体をいくら刺されようとも、何も守れなくても。

 ——私は、生きる意味を探す。ここで死ぬ? ふざけるな。

 折れた大木が起き上がる。

 アイリスの体は、ゆっくりと立ち上がった。強い意識が体を生成し、透明な空間に禍々しい色を作り出していく。

『目の前に何があろうと、私「アナタ」のやることは変わらない』

 その言葉は、誰かの声と重なった。

「ッ……?」

 ——大丈夫。私、最強だから。

 意識の果ての世界には、ヒトがいた。

 何かが枯れた。

 そして、何かが目覚めた。

 

 

 

 舞台は再び現在に戻る。

 定国は黙って空を見上げていた。もう標的は死んだはずなのに、その空気は晴れない。

「まだ殺気が消えてねえのか。何か妙だ」

 その時、定国を異様な感覚が襲った。

 真っ黒な光の柱が、アイリスの体から発生する。惨たらしかったはずの骸は、一段と美しく輝いて立ち上がっていた。

「久しいな……黒金定国」

 ロングコートの下のセーターに滲んでいた血は、螺旋状のエネルギーとなってアイリスに纏わりつく。

 空を雨雲が覆い出すと共に、黒い柱はその持ち主へ収束した。ゆっくりと目が開かれる——すると、アイリスの髪が長くなった。いつもの金髪ではない。伸びた後ろ髪だけが、枯れた花のように暗い色をしていた。

「それが切り札か」

「……さあな」

 最初に体を支配していた悪夢など、そこにはなかった。

 様々な感情は一つの自我となる——誰かの意思は、体の奥底から湧き上がるエネルギーをくれた。

「どうやら、私にはまだ〝生きる意味〟を探す権利があるらしい」

「命は一個しかねえはずなんだがな。馬鹿馬鹿しく思えてくる」

「最初から、私が死んでいなければ?」

「そいつを夢って言うんだよ」

 各々の正義の、最終到達点。

「悪夢を超える。もはや私に、迷いなどないと思え」

 瞬間、台風の如き雨が世界に降り注いだ。

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