序章
第1話 ヒトとAI〜終わりの冬
炎が川を飲み込んでいた。
体が重い。
手を伸ばそうとしても、足を動かそうとしても。
体の全てがそれを拒んでいるような感覚に襲われた。
腕の中にある小さな命を守らなければならないのに。何をしようとしても全てを痛みが飲み込んでいく。
苦しい。
炎の中で喉が焼けたのだろうか。酸素が足りない。頭が重い。
そんな中でも動かされたのは、愛情か、罪滅ぼしか。
炎を逃れ、橋の下まで辿り着いた。
散らばる段ボールの上に、黒く焦げたワンピースの切れ端を敷く。これで未来を変えられるのならば。その一心で、全身の力を振り絞る。
小さな命をひとつ、置いた。
「こんな世の中でも、〝生きる意味〟は必ず存在する……ごめんね。それを絶対に、見つけ出して」
最後に映ったのは、命を照らす暁光だった。
どうか、この命が世界を救わんことを。
見えないものも、見えているものでさえも、その全てを我々は見通せない。
島国Xの首都外れに存在する、闇に支配された影の街。そこに住まうは人としての何かを失った者、悪事を働く者、そして、ほんの一握りの物好きだけ。
「……オダマキ。何か用か?」
「骸町でカラプスの構成員が五人暴れている。代わりに制圧を頼んだよ」
物好きはページが茶色く日焼けした本を閉じた。手元に置かれたランプを消せば、辺りは暗闇に包まれる。
「カラプス? あぁ、チンピラか。報酬は弾めよ」
「もちろんだとも。いつも助かるよ」
物好きは暗がりから飛び出した。
金色に輝くショートヘアに、マリンブルーの瞳。明るい海を巣食う、どんよりとした紫の影。全身を黒一色に包み、手袋で手元を隠したその人物——名をアイリスという物好きは、影の街を拠点とし、知り合いから仕事を受けてこなすことで生計を立てていた。
「この国の治安が悪いのも、王の堕落しきった政治のせいか」
廃ビルの二階から街を眺める。都市独特の眩い世界などというものはそこになく、点々とした明かりのみが蠢いていた。
アイリスの瞳は、眩い世界を映さない。
その時、辺りにアイリスを呼ぶ音が響いた。未来化の著しいこの時代においては稀有な代物、スマートフォンからの信号である。
「場所を言い忘れていた。骸町の外れにある、小洒落たバーの中にいるはずだ」
「雑魚の制圧にさえ私が出なければならんとはな。下位の奴らも落ちたものだ」
アイリスはため息をつく。
「仕方ないさ。どこも人手不足のくせに、仕事のない組織が最も好待遇なんだから」
電話の向こうから聞こえる台詞に、暗い
「お互い、地獄で歓迎されそうだな」
「死ねるといいな、君も僕も。……君の先輩も向かうと聞いた。さっさと片付けた方が楽だと思うぞ」
アイリスは何も言わず電話を切った。廃ビルの二階から飛び降りコンクリートに着地、全速力で駆けていく。
アイリスの住まうX国における現在の政治体制は、特徴的なものとなっている。
国の権威かつ絶大的な戦闘力を誇るX王を最高権威とし、王の名の下に十の戦闘部隊——皇帝隊が存在する。
だがある戦争を機に、皇帝隊の大部分は機能を停止した。
今から三十年以上も前の話。
全てにおいてあらゆる生物を超える、完全なる人工知能——アダムが誕生した。
アダムは目まぐるしい進化を遂げ、ついには人類のどの兵器をも上回る技術を開発した。
傀儡となった改造人間の襲撃により、多くの人類が死亡した。
その状況を打開するべく開発されたのが、人類の洗脳を受けたアダムのコピー、イブ。
原初を騙るAIとその複製の戦争は、全世界に数え切れぬほどの犠牲を出しながら何十年と続いた。
この大きな戦争を人類は『AI戦争』と名づけ、忘れてはならない惨劇として記している。
六人の神と三人の王、そして一人——皇帝隊の隊長と呼ばれる彼らこそ、AI戦争で先陣を切って戦った者たちだ。
そして彼ら皇帝隊は、打倒アダムを掲げるイブが作り出した『強化細胞』を搭載している。
そんな大戦を終えた直後こそ、アイリスの生きる時代。人々の心は既に荒みきっていた。
当時のことを思い返して虚無を掴み、アイリスはまたため息をついた。
バーのドアを蹴破ると同時、見えた影に銃弾を撃ち込む。困惑の表情をその顔に貼り付けたまま倒れた男を一瞥して、アイリスは残りに歩み寄る。
「なんだお前!」
「悪いな。仕事だ」
二人は銃を構えるも意味などない。
アイリスは二人の脇腹を手で抉っていた。強化細胞の成せる技である。
一仕事を終えたアイリスはロングコートの胸ポケットからライターを取り出した。
手袋を脱ぎ捨て火をつけると、木製の床に落ちる前にそれは灰となる。
「邪魔したな。今起こったことは忘れてくれ」
怯える店長の顔を見て、人と治安をまた見限ったその瞬間。
店の雰囲気とミスマッチな明るい声が辺りに響く。
「あれ、アイリス? 帰ってきてたなら教えてよ」
「く、桑水流先輩……お久しぶりです」
桑水流と呼ばれるその人物はアイリスを横目で見ると同時、死体のそばにしゃがみ込んだ。
「にしても酷い殺され方。いい教育受けてるねぇ」
全て見透かされているような気がして、アイリスは桑水流から目を逸らした。
「カラプスの構成員って聞いてたケド。それより大きい例の組織が暴れてる以上、こっちに人員は割けないな」
「できるのは犠牲者を弔うことだけですね」
「うん。ほんっと嫌な世の中だよ」
桑水流は何事もなかったかのように立ち上がり、アイリスの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「かわいい後輩をいじめる気分じゃないし、今日はもう終わり。私の気が変わらないうちに帰んな」
ひらひらと手を振る桑水流に一礼し、アイリスはバーを出ていった。
桑水流麗奈。幼少期からアイリスを知る人物であり、皇帝隊第六隊——自警を兼ねる組織に所属する。
バーを出て帰りの車に乗り込むと、鬱陶しい電子音が車内に鳴り響いた。
「仕事はもう終わった頃かな。時に、以前話したAIがようやく完成したよ」
「……また悪趣味なものを。お前が生み出した兵器は毎度ロクなことにならん」
「犠牲こそ不完全の象徴だ。限りなく完成に近づいたとしても犠牲をゼロにはできないよ」
「話はそれだけか。なら二度とかけてくるな」
「ちょっとちょっと、待ってくれ。そのAIを君に譲ろうと言っているんだ」
オダマキの声が弾みのついたものに変わる。面倒臭さを察したアイリスは、スマートフォンの向こう側で顔を顰めた。
「この乱れた世界を整えるAI——名前をルディア。君に彼を育てて欲しい」
「育てる?」
「ディープラーニングというやつだよ」
明るい口調で語るオダマキを忌避するように、アイリスは深々とため息をついた。
人類に敵対しないAIを育てるとなるのであれば、全ての行動に気を遣い、それすらも悟られないよう自然に振る舞わなければならない。かつてない面倒事に違いなかった。
「……なぜ私が」
「育ててくれれば報酬だって弾む。こちらには既に実験体がいると知っているだろう? それに、君は〝生きる意味〟を求めていると聞く。貴重な経験になるはずだよ」
「だがAI戦争の二の舞いになる可能性も」
アイリスの言葉を遮って、守時は続ける。
「ルディアは脳を壊せばそれで終わりだ。ロボットに近いから、電子の海に逃れることはできない。アダムやイブとは違うってことさ」
アダムやイブは電子世界と繋がりを持ち、その上で人間の体を奪って顕現した。一方ルディアは肉体に閉じ込められた存在。
つまり、邪魔になったら殺せと言っているのだ。
「……不要だと思えばすぐに殺してしまうぞ」
「あぁ、好きにするといい。定期的に報告をたの」
オダマキの言葉を遮りアイリスは電話を切った。
時に、強化細胞にも種類がある。
肉体の一部を青く染める強化細胞に対し、肉体を赤く染めるアダムの暴強化細胞。
これらの二つはAI戦争終結の際民間にも出回ったが、当然ながら粗悪品や偽装品なども流通した。それらを摂取した人間はヒトを辞めたと言われている。
影の街から少し離れた場所に位置する街。アイリスはオダマキのところへ向かうため車を走らせた。
音楽は流れない。
誰もいない寂れた夜の道路を少しでも楽しむには、そちらの方が適当だった。
横目で窓を眺めると、儚い色の街灯が次々に流れていく。その景色は無限のごとく続いていた。
しかし、趣を楽しむ時間はすぐに潰えることになる。車体の傾きを感じ取ったアイリスは反射的にハンドルを切るも、車ごと軽々と吹き飛ばされてしまう。
(敵——カラプスか?)
窓を叩き割りアイリスは身を投げ出す。大爆発を起こした車は熱風を噴き出していた。
受け身を取って一息に立ち上がったアイリスは、目の前の青年に気がついた。
「初めまして、アイリス様。……いえ、マスター。半自立型AI、ルディアと申します」
アイリスを見た青い瞳の青年は跪いた。
人間には見えないぎこちなさで、安物のデッサン人形は愚鈍に顔を上げる。
「アイリスさん、でいい。それと、最初の仕事だ」
頭を掻いて何度目かのため息をつき、アイリスは続けた。
「お前の開発者に車を弁償するよう連絡してくれ」
奇想天外な物語が今、幕を開ける。
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