第10話
さて、どうだろうか。
彼女は俺の部屋を見渡す。
その表情はどこか楽しげというか、気分が良さげなように見える。
催眠術が成功しているなら、彼女の目の前には広い海と綺麗な砂浜が広がっているはずだ。
どこがどうなっているのかは分からないので、どこかにぶつかりそうになったら止めなければならないが。
部屋の中を歩いた氷室はぴたりとその動きを止める。
どうしたのかと思ったが、突然靴下を脱ぎだした。
そうか。
彼女の目にはそこから先が海に見えているようだ。だから、靴下を脱いだんだ。
つまり成功だ。
氷室には今、広い海が見えている。
素足になった氷室は恐る恐る海のある場所に足を踏み入れる。どきどきしている表情のまま両足を揃えた。
「誰も、いない……」
呟いた。
それはまるで確認するように。
だから、俺はもう一度彼女に言い聞かせる。
「そうです。そこはあなた以外誰もいない。あなただけの空間なのです。好きなことをして構いません。誰にも見られないし、迷惑もかけない」
自分一人の空間で好きなことを好きなだけする。そうすればきっと彼女の中にあるストレスは解消されるはずだ。
「誰もいない」
もう一度呟き、ふうっと小さく息を吐いた氷室はそのまま大きく息を吸い込んだ。
そして。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
と、叫んだ。
言葉にもならない、溢れ出てきた感情をそのまま口から吐き出したようなただの声。
めちゃくちゃうるさかった。
お隣さんが家にいたのなら申し訳ない。が、もう遅いので心の中で謝る。
クレームが来たら頭を下げよう。
しかし、氷室は一人だと分かると叫ぶんだな。
まあこのレベルのボリュームある声を出せる環境は限られているか。カラオケに行けばいいんだろうけど、家が厳しいって言ってたし行けないのかも。
叫び終えた氷室の表情はどこかスッキリしているように見えた。気持ちが高揚しているのか、頬を僅かに赤く染めて、はぁはぁと少し息を荒げている。
こんな顔をしてくれたのなら俺としては嬉しい限りだな。
そんなことを思いながら自分の仕事に満足していると事態は急変した。
いや、そんな大事ではないのだけれど。
氷室が着ていたブレザーのボタンを外したのだ。海なのだから、イメージから暑く感じたのかもしれない。
最初はそう思った。
ぷち、ぷちとボタンを全て外し終えた氷室はブレザーを投げる。ひらひらと揺れてブレザーは床に落ちた。
続けて胸元のリボンを緩めた。
しゅるり、とリボンを解いてそれもブレザーのところへ投げ捨てた。
問題はそれだけでは終わらなかったことだ。
彼女はカッターシャツのボタンに手をかけた。何の躊躇いもなく次々に外していく。
上から一つ、また一つとボタンが外された結果、徐々に肌色面積が増えていく。
水色の可愛らしい下着が姿を見せたところで俺は咄嗟に後ろを向いた。
ガサゴソと物音がするだけ。
しかし、次の瞬間、床に落ちたカッターシャツが視界に入った。
もしかして氷室のやつ、このまま服脱ぐ気じゃねえだろうな?
俺の予想は当たっていた。
ストン、とスカートが落ちる音が聞こえた。
間違いない。
氷室は今、俺の部屋で下着状態になっている。このまま彼女を放っておくと何をするか分からない。
普通に考えれば海に入るために素っ裸になろうとしているんだけど……ん? 素っ裸?
ちょっと待って。
そのとき。
頭の上に何か温かいものが乗っかった。嫌な予感をひしひしと感じながら俺はそれを手にする。
やはり。
さっきまで彼女が装備していた下着である。
やばい。
そう思い、テンパった俺は振り向いて彼女をベッドに押し倒した。
このとき自分の失敗に気づいたが、もう遅かった。
ちゃんと順を追って解除していけば問題ないことだったが、予想外の展開に頭が混乱してしまった。
突然押し倒されたことで、催眠術が微妙に解けたのか氷室はぼーっとした顔のまま俺をじっと見つめてくる。
目はまだ座っている。
完全に覚醒しているわけではないようだ。
心臓がバクバクと高鳴る。
今は彼女の顔を見ているが、この視線を下に向ければ氷室真冬の無防備な姿があるのだ。
誰もが見たがっているその姿を、俺は今見ることができるんだ。
知らず知らずのうちに溜まっていた生唾を飲み込んだ。
俺はそのまま視線を下に向ける。
「…………」
ことはせず、目を瞑って深呼吸する。
落ち着け。
そんなことしちゃいけない。
早く彼女の催眠を解かないと。
そう思った、まさにそのとき。
「加藤くん?」
氷室真冬が俺の名前を呼んだ。
催眠術にかかっていれば、俺の姿が見えるはずはない。つまり、彼女の意識が覚醒したということだ。
男の部屋。
ほぼ全裸の氷室。
そしてそれを押し倒す俺。
最悪のシチュエーション、最悪のタイミングで目を醒ましてしまった。
「氷室……」
「これって」
自分の姿を確認した氷室が、戸惑うような視線を俺に向けた。
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