第6話




「……ん、くぅ」


 俺がパンと手を叩くと、氷室は朝に誰かに起こされたときのように表情を歪めながら目をゆっくりと開く。


「おはよう」


「……加藤くん。おはよう?」


 まだ意識がぼーっとしているのか、目が微妙に座っている。

 優等生の彼女のこんな気の抜けた顔を見たことがあるのは校内でもきっと俺だけだろう。そう思うと、そこはかとない優越感が込み上げてくる。


「気分はどう?」


「うん、悪くないわ。なんだか体が軽い」


 軽く伸びをしながら氷室が答える。そうすることによって胸が主張されるので俺は咄嗟に視線を逸らす。

 あんなことを聞いた後に彼女のそういうところを見ると変な気分になってしまう恐れがある。そうでなくても平然を装うのが大変なのだ。


「今日は何をしたの?」


「覚えていることはある?」


 俺が尋ねると、氷室はんーっと考える。

 一応、催眠状態のときの記憶は極力残らないようにしている。別に隠すことでもないのかもしれないけど、毎晩オナニーしてますというカミングアウトをクラスメイトにしたというのはあんまり覚えていたいことじゃないだろうから。


 それはとりあえず俺の胸の中に秘めておくことした。


「あんまり。ただ、なんだか楽しい思いをしたような」


「まあ、そういう気分になるようなことをしたからね。一人の空間で、ゆっくり眠るようなものわ」


 嘘ではない。

 あのあとにその催眠をかけたのだ。


 ストレスを解消する簡単な手段は楽しいことをする、だ。

 なので一人でゆっくりのんびり過ごす催眠をかけることによって、実際にそのシチュエーションを過ごしたような感覚だけが氷室の中に残った。


「言われてみると、確かにそんなことがあったような……催眠にかかっているときのことってここまで記憶に残らないものなの?」


「まあ、夢を見ている状態のようなものだからね。おぼろげに感覚が残っていることはあっても、はっきりと記憶に残るようなことはないんじゃないかな。まあ、記憶は意識に残るから、催眠術を使ってそれを思い出させることはできるみたいだけど」


「そうなの? それじゃあ」


「とはいえ、僕レベルだとそこまではまだできそうにないけどね」


 本当だ。

 本を読んで数日経っただけのど素人である俺にできることは少ない。もっと読み込んで練習すればできることも増えるだろう。


 そうすれば、もっと氷室を助けてあげられるかもしれない。

 それに……。


 いや、それは考えないでおこう。


 俺がそんなことを考えていると、氷室はちらと部屋の中の時計を目にした。


「なにかあるの?」


「いや、あんまり時間は経ってないんだなと思って」


「慣れないうちの長時間の催眠は良くないらしいから。長くても三十分以内に抑えた方がいいって書いてあったんだ」


「それは連続で行うのもあまりよくないの?」


「そうだね。かかりたいの?」


 そう言っているように聞こえたので俺は単刀直入に聞いてみることにした。

 すると、氷室は少し恥ずかしそうにこくりと頷いた。


「すっかりハマってるな……」


「べ、別にそういうわけじゃ」


 否定しようとしたが、事実そうなので強くは言えない様子だった。

 正直言ってこの時間は楽しいので、氷室が催眠術にハマってくれるのは俺からしても好都合だ。


「頻繁にかかるのもあんまりよくないらしいから、少し時間は置いた方がいいかも」


「明日まで待てばいいの?」


「んー、いや、こう連日続けて行うのもあんまり良くないような気がするから、明日は止めておこうか」


「まあ、仕方ないわね」


 残念そうに肩を落とす氷室は何かを見つける。

 俺は彼女の視線を追う。その先にあるのが俺のカバンであることに気づいたときにはもう遅かった。


 氷室はそのカバン――正確にいうならカバンから見えている封筒に手を伸ばした。

 そう、それは俺が朝に白木屋から預かった例のブツである。ぶっちゃけいうとエロ本である。中身がそうであることは昼休みに確認した。


 そういえば、氷室はそれが何なのか気にしていたな。


 なんてことを考えている場合ではない。


「ちょっと待っ」


 俺の制止が彼女に届くよりも先に、氷室の手が封筒に辿り着いてしまう。そしてそれの中身を確認しようとする。


「これの中身、気になっていたの」


 やべえ。

 このままだと俺は催眠術の参考書としてエロ本を読んでいることになる。しかも最悪なことにそのエロ本の内容が催眠術特集でそれ系統のエロ漫画が幾つも載っていた。


「ダメだ! 氷室!」


 俺が彼女に手を伸ばす。

 触れてしまってセクハラだと言われても構わない。とにかく見られることだけは阻止しなければ。


 だが。

 運動神経抜群である氷室は俺の手をするりと避ける。それはもう華麗なターンだった。


「……これって」


 見られた。

 終わりだ。


「一体、何の参考書なのかしら?」


 恨めしそうに俺の方を睨んだ氷室はもう一度エロ本に視線を落とす。

 ぶっちゃけ毎晩オナニーしているやつにエロ関連で何を言われても「いや、お前が言うなよ」と思ってしまうが。


「……」


 開いているのは漫画のページ。

 ぺらぺらと読み込んでいる。俺はもう何もできない。ただ氷室の前で彼女が再び顔を上げるのを待つだけだった。


「もしかして、私にこういうことをしたのかしら?」


 僅かに頬を染めながら、氷室は再び俺の方を見てくる。しかし、そこに嫌悪感のようなものはないように感じた。どちらかというとおふざけのような、からかいのような感じ。


 もちろん俺は否定する。


「もちろんしてないよ。最初に言ったけど、催眠術は何でもできるわけじゃない。あくまでも暗示の一種だから、氷室が拒否すればそれ以上のことにはならないんだよ。それはフィクションだから、上手くいってるだけ」


「本当かしら」


 疑うように呟いた氷室は本を閉じる。


「そろそろ帰りましょうか」


「ああ」

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