第5話


「あなたは最近、よくストレスを感じますか?」


 少し間があったのは、考えているというよりは質問を脳に回しているように思える。

 ぼーっとしている状態なので言葉を理解するのに時間がかかるのかも。


「……はい」


「どういうときに感じる?」


「……っ」


 何かを言おうとして、それを躊躇うように口を開いたまま固まった。それを口にすることに抵抗を持っている証拠だ。


「大丈夫ですよ。それを口にすることで気持ちが楽になります。言葉にすることはとても大切なことなんです。ゆっくりでいいので言葉にしてみましょう」


 俺がゆっくり、諭すような口調で話すと氷室は躊躇いながらも口を開き、少しずつ言葉にしていく。


「……両親が厳しくて、家にいても自由なんてなくて。家でも、学校でも、みんなが私に理想を押し付けてくる」


「みんなっていうのは?」


「父、母、それに友達やクラスメイト、先生もそう」


 氷室の両親は厳しい人なのか。まあ、これだけしっかり育っているのだから納得だけど。

 

 それと。

 理想を押し付けてくる、というのはどういうことだ?


「理想を押し付けてくるというのは?」


「本当の私はそんな人間じゃないのに、みんなが私の理想像を勝手に創り出して求めてくる。だから、私はそれに応えようとして、みんなの理想の私を演じてる」


 そう言った氷室の表情は少し苦しげだった。それだけ嫌だと感じているのだろう。


 しかし。

 氷室がそんなことを思っていたとは知らなかった。もちろん俺以外の誰もが知る由もない事実だ。


 もしも彼女が普段の振る舞いを演じているのであれば、その演技は演劇部も顔負けなレベルでパーフェクトだ。


 あんなに楽しそうに笑っている裏でそんなことを思っているなんて、誰も思わない。


 俺はそんな経験なんてないが、やはり理想を押し付けられるというのは苦しいのだろう。


 窮屈で堪らないのだろう。


 学校でも家でも自由がないのだとするならば、好き勝手に振る舞えず誰かの抱く理想を演じ続けているのだとするならば、それによって溜まるストレスは計り知れない。


「ストレスを解消するためにしていることはある?」


 ストレス解消法は人それぞれだ。

 暴食に走ったり、汗をかいたり、大声を出したり、趣味に没頭したりと人の数だけ存在する。


 俺の場合は寝るか読書だ。

 寝れば一時的にストレスは収まり朝目が覚めればそれなりに落ち着いている。読書に没頭すれば読んでいる間はストレスを忘れられ、読み終わった頃には気持ちが落ち着いていることが多い。


「……一応」


 そう呟くように言った氷室の頬は微妙に赤らんでいた。


 家では親の監視があるのだとすれば大きなアクションは起こせないだろう。暴れたり走り回ったり、そういうことははできなさそう。


 ていうか、そんなことをしている氷室の姿は想像できない。


「それはなに?」


「……」


 言いたくないのか、氷室は口を閉じたまま止まっている。けれどさっきみたいな苦しそうな表情はなく、恥じらうような顔だ。


 もしも暴れたりしてるなら人に話すのは恥ずかしいだろう。躊躇うのも無理はない。


 けれど、それは言葉にしてもらわなければ次に進めない。


「……い、です」

 

 俺がずっと待っていることを察して、氷室はおずおずと小さな声で答えてくれた。


 しかし、上手く聞き取れなかった。


「もう一度、しっかり言葉にして」


 俺が訊き返すと、氷室はすうっと小さく息を吸って吐いた。そして、空気と一緒に漏れ出すように言葉も吐き出した。


 今度ははっきりと。


 しかし淡々とした口調で。


 それでいて躊躇うように。


「自慰行為、です」


 と。


 そう言った。


「……えっと」


 聞き間違いかと思った。

 まさか氷室の口から自慰なんて言葉が出てくると思わなかったから、俺は動揺して言葉を詰まらせた。


 俺も既に彼女に理想を押し付けていた。

 氷室真冬という人間が卑猥なことに興味があるはずがないと決めつけていた。


 そういうことか、と俺は一人で納得する。

 

 同時に。

 動揺が悪手であることに気づき、すぐさま立て直す。


「ストレスを解消する手段を持っていることはとてもいいことです。それに恥ずかしがることはありません。それは誰もが行っていることなんですから」


 動揺したところを相手に悟られると、相手は自分のしていることが間違っているのだと思ってしまう。


 彼女は今、自分のしていることは正しく、それが自分のためになると思い込んでいる。

 そこに疑問を持たれると根本が否定されてしまう。


 気をつけなければ。


「……はい」


「ひ、」


 これは知っておくべきことだと自分に言い聞かせながら、俺は恐る恐る言葉を探して吐き出していく。


「頻度は、どれくらいですか?」


 やましい気持ちがないわけではない。

 氷室の口から聞いた自慰行為というワードに興奮を覚えたのは事実だ。


 けれど、頻度を把握することは彼女のストレスの度合いを把握することになる。


「毎日」


「それは必ず?」


「……必ず。寝る前に一度。それをすることで、よく眠れるから」


 あの氷室真冬が毎晩寝る前に自慰行為を行っているなんて、誰が信じるだろう。

 いや、人間としておかしいことは一つもないんだけど、でもやっぱり普段の氷室からは想像できなかった。


 そう思ったとき、同時にそれこそが俺の作り出した氷室真冬のイメージであることを理解した。

 こういうことか。

 誰もが氷室にそういった理想像を抱き、それを押し付けてきている。そんなつもりはないんだろうけど、発言や視線がそれを氷室に伝えてしまうんだ。


「ストレスを解消することことは大切なことです。だから、それを止める必要はありません。それを続けることとは別に、今抱いているストレスを少しでも解消していきましょう」


 その日は、そうやって氷室の胸の内を聞き出しながら、少しでも彼女の中のストレスを軽減できるように催眠を行った。

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