第2話


「え」


 そんなことを言われれば、もちろん俺は動揺する。なので変な声が漏れた。


 聞き間違いでなければ氷室は今「自分に催眠術をかけて」とお願いしてきた。


「だめ?」


「いや、ダメじゃないけど。逆にいいの?」


「面白そうだし」


 そんなことを楽しそうに言ってくる。

 冗談半分というか遊び半分というか、怖いもの見たさというやつだろうか。


 まあ、氷室がそう言うのであれば俺は断る理由もないけど。


「……」


「どうかした?」


「いや、何でも。ちょうど今は他に生徒もいないし、やってみるか」


「いつもいないけどね」


 まあね。

 図書室は人気がないのかあまり生徒はやって来ない。昼休みはまだ来るらしいけど放課後はわざわざこんなとこには来ないよな。


 その分、氷室とゆっくり過ごせるので俺からしたら有り難い以外の何でもない。


「それじゃあ、簡単なリラックス効果のあるものでも試してみようか。つっても、今の俺にできそうなのそれくらいだし」


 初心者だしな。


「それじゃあ目を瞑って」


「うん」


 まずは催眠術をかけるための下準備を行う。

 聞いたことくらいはあるが『トランス状態』というものになる必要があるらしい。


 簡単に言うなら意識がぼーっとしている状態のことらしい。眠る直前とか寝起きとか、ああいうときのことを言うんだとか。


「ゆっくり深呼吸しようか」


 俺がそう言うと、氷室はすぅはぁと深呼吸を始める。深呼吸の際に動く大きな胸に視線が行ってしまうが、俺はその雑念を振り払う。


 邪な気持ちとか、雑念とか、そういのがあると失敗しやすいのだ。あくまでも献身的に、相手のことを第一に考えなければならない。


 今回で言えば、氷室のストレスを軽減させるとか、そういうことだ。


「体の力を抜いて、リラックスしてください」


「……」


 返事はないが、氷室が肩の力を抜いたのが分かった。こういう些細なところも見逃してはいけない。


 と、書いてあった。


「そのまま体の力を抜いているとだんだん眠たくなって、体が重たくなりますよ。でもそれは悪いことではありません。ですので、抗う必要はないんです」


「……」


 催眠術をかける相手について、大事なことが二つある。

 一つは催眠術に対して興味を持っていること。かかりたいという前向きな気持ちがあること。


 これは催眠術に対する警戒や恐怖心がないことを意味する。


 もう一つが信頼関係だ。

 極端に言うなら、この人になら何をされてもいいと思うくらいの気持ちが必要だ。


 催眠術というのは自分の意識を相手にコントロールさせることになる。それこそ本当にかかれば漫画なんかで見ることだってできてしまう。


 だからこそ、そうはならないという信頼を持ってもらう必要がある。


 この催眠術について言い出したのは氷室だ。なので前者については問題ないだろうけど、後者については何とも言えない。


 半年ほどこうして図書室で雑談はするけれど、氷室がどれだけ俺に心を開いているかは検討がつかない。


 少なくとも悪い印象を持たれているとは思わないが。


「……っ、くぅ」


 さっきから深呼吸を続けてもらい、導入の為の言葉をかけ続けていたところ、氷室の表情が歪んだ。


「どうかしましたか?」


「からだが、おもたく」


「大丈夫です。そのまま、ゆっくり体の力を抜きましょう」


 そのまま続けること一分程度。力の抜けた状態の氷室がぼーっとした表情で固まっていた。


 まさか、成功したというのか?

 簡単なものを試してみよう。


「イメージしてください」


「……はい」


「あなたの手には黄色いレモンが一つあります。ザラザラした皮、青っぽくみずみずしい匂いがします」


 俺がそう言うと氷室は自分の手を見つめる。


「そのレモンには切れ目が入っていますので、半分に割ってみましょう」


「……はい」


 虚ろな目をした氷室がゆっくりとレモンを二つに割る動作をする。これだけではまだ分からない。

 もしかしたら俺の言うことに従っているだけかもしれないから。


「どうですか、中から果汁が溢れてきて、とても爽やかな香りがしてきませんか? 美味しそうと思うなら、どうぞ一口かじってみてください」


「……」


 数秒。

 氷室は動きを止めた。


 ここで動きが止まるようなら中止だ。トランス状態に陥っていないことになる。


 考えることさえしてはいけないのに、氷室は何かを考えるように自分の手を見つめている。


「……」


 そのとき。

 ごくり、と氷室が生唾を飲み込んだ。


 そして、ゆっくりと手を上げて口の方へと持っていく。


 成功、か?

 

「どうですか。レモンの香りと酸味が口の中に広がってきませんか?」


「……っ」


 ごくり、と氷室は再び生唾を飲み込んだ。

 人間は酸っぱいものを見ると唾液が出る。どういった効果でそうなるのかは詳しくは知らんが、脳がそうさせるらしい。


 つまり、もし氷室が手の中にレモンがあると思っているのなら、それをかじったのだから唾液は出てくる。


 これは単純に想像力の話だ。

 トランス状態というのは暗示にかかりやすい。その状態を利用して、俺は氷室にレモンを想像させた。


 美味しいものを想像してお腹が空いたり、じゅるりと唾液を拭ったりするのと同様の反応だ。


 レモンを想像し、唾液が発生したということは、氷室はトランス状態に陥っている可能性が高い。


 つまり、催眠術の第一歩は成功したということだ。


「レモンは酸っぱいけど、でもすごく美味しい。それを食べれば食べるほど、あなたの中にある疲れが消えていきますよ。さあ、ゆっくり、少しずつでいいので、レモンを食べましょう」


「……はい」


 氷室はゆっくりレモンを食べる動作をする。本当に美味しいと感じているのか、彼女の顔はどこか嬉しそうに見える。


 ぱく。

 ぱく。

 ぱく。


 と、一口一口進めていく。そして、彼女の手が止まった。恐らく、レモンを食べ終えたのだ。


「どうですか? 体が軽くなっているのを感じませんか?」


「……ぅ、ふぅ」


 声は出ていないが、まるで温泉に浸かったときのようなリラックスした表情をする氷室。


 成功したかどうかは彼女の催眠を解いてみないと分からない。

 最初からあんまり長くするのは良くないと書いてあったし、この辺で終わっておくか。


「それでは、もう一度目を瞑って」


 そうして、俺は時間をかけてゆっくりと氷室の催眠を解いた。

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