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「なるほど。亡くなった息子さんの幻覚が見えると言われたんですね」


 担当はベテランの内山美沙医師だった。看護師間の評判ではおっとりしているが必要な投薬治療をしっかり行う。その一方でカウンセリングも重視しており、時に長話となってしまうため「診療の回転が悪いと」たびたび上から注意されている。らしい。

 ただ根気よく患者の環境や精神状態が悪化してしまった原因などに寄り添うため、予後は良い。だったか。


 明子とは科が異なるため一緒に仕事をしたことはないが、お互い在籍年数が長いのでそれなりに知った仲だった。確か明子と同じぐらいの年代のはずだ。


 内山医師の問いかけに明子の母が答える。


「ええ。今日になって突然言い出しまして。孫が亡くなってからこの一週間、まともに食事も摂らずほとんど眠らず、ずっとリビングで座り込んでいたんです。その繰り返しで心のバランスが崩れてしまったのではないかと思いまして」


 診察台に座って話を聞いていた優真が「俺のせいで……」と肩を落とす。優真の前で憔悴していた生活を話すのはやめて欲しいが、優真が見えない母にそれは無理というものだった。


 明子としてはやはり顔見知りにプライベートなことを話さねばならない事態は非常に避けたいことではあったが、丁度復職についていろいろと考える時間が必要だとも思っていたところだ。

 診察室に入る頃にはいっそ心療内科にかかるのなら休職の診断書でも出してくれればいいのにとさえ思っていた。


 母の見解を一通り聞いた内山医師は、明子さんと二人でゆっくり話してみますね、と退出を促し、診察室には内山医師と明子、そして幽霊の優真の三人になった。


 ショートカットの髪を耳にかけ、内山医師が口を開く。


「久保田さん。顔見知りの私に話すのは気が引けると思いますが、私の質問には正直に話してください。久保田さんがこれから話すことは例え院内の同僚であっても他言しないことをお約束します。これは心療内科医として当然守るべきことです」


 おっとりした口調ではあるが、しかしはっきりとこちらの顔を見て言うので、明子も覚悟を決めた。医師の指示に従うのは治療の第一歩である。


「はい。わかりました」

「まず、久保田さんはご自身の健康状態をどのように把握しておられますか」

「睡眠不足と栄養失調、それと抑うつ状態、です」

「息子さんが見えることとそれらの症状と関係があると思いますか?」

「……思いません」


 精神医学分野には詳しくないので幻覚症状が発生する病状の判断には自信がない。だが優真は幻覚ではなく幽霊なのだ。


「息子は幽霊として現れたので医学的な見地での診断や推察には当てはまらないと思います」

「なるほど」


 内山医師は大きくうなずくと電子カルテに短く入力した。今の会話で何を判断されたのだろう。とても気になる。


 質問が重ねられていく。生前の親子関係。息子が家事全般を一手に担っていた生活環境。明子から見た優真の日々の様子。亡くなってからのこと。優真が現れたときの状況。明子は隠さず全てを話した。

 途中いかに自分が母として保護者として至らなかったかを話して涙がこぼれてしまった。そのとき視界の端で優真が何か言いたげにしていたが、やがて口を噤んでしまった。なんだろう。


 家庭環境についての聞き取りは内山医師はバインダーに挟んだルーズリーフに手書きしていた。それが何枚目かになる頃、いよいよ幽霊となった優真の話になった。


「では最後になりますが、息子さんは今もこの場にいますか?」

「はい」

「なぜ久保田さんの前に現れたか息子さんから理由を聞いていますか?」

「それは……いいえ。聞いていません」


 確かになぜ優真は自分の前に現れたのだろう。何か目的があるのだろうか。

 ちらりと隣の優真に目をやるが、優真も「理由なんか知らないよ?」と首をかしげている。


「本人も理由はわからないそうです」

「そうですか」


 ふむふむと内山医師はまた用紙に書き込み、少しの間紙とインクが擦れる音だけが流れた。

 他には何を聞かれるのだろう。これで終わりだろうか。どぎまぎしながら次の質問を待つ明子。

 

 内山医師は必要なことを書き終えると机にバインダーを置き、明子に向かって微笑んだ。


「久保田さん。私はあなたが幻覚を見ているとは思いません」

「え?」

「私は幽霊の存在を信じる人間なんです」



 明子は何も言わなかった。内山医師は変わらず微笑んでいる。


(これは話を合わせてくれている?それぐらい要注意な状態と思われたの?)

 自分から「幽霊が見える」と言ってしまったがために心療内科に連れてこられた人間が言えることではないが、「患者の妄想は否定せず、肯定して話を合わせる」という対処法があることも明子は知っていた。

 常識的に考えるならば、明子は要治療と判断されて治療を受けさせるために主治医が妄想に乗っかってきたと考えるのが一番あり得る話だ。


 内山医師は患者に寄り添うという評判を思い出し、自分はいったいどんな病名がつけられるのやら、と気が遠くなった。


 明子が遠い目をしていることに気づいたのか、内山医師が首をかしげた。


「久保田さん。今私のこと『変な人だな』と思いました?」

「いえ。私の妄想に話を合わせようとしてくれているんですよね」

「違います違います!そもそも私は久保田さんが幻覚を見るほど悪化してはいないと判断したんです」

「え?」


 慌てて顔の前で手を振り否定の意味を表した内山医師を見て、専門家に幻覚症状ではないと診断されたことに明子はひとまず胸をなで下ろしたが、そうなると今度は内山医師が心配になる。まさか本当に幽霊の存在を信じているのか。

 いまいち信じられないでいる明子の様子に、内山医師はなんと説明したものか、と手に持っていたボールペンを回す


「精神科医や心療内科医を長くやっているとたまに本物に出会うんですよ。もちろんほとんどが妄想や幻覚です。治療で改善した後に『あれは幻覚だった』と自覚する方が多いです。ただ、中には本人の精神状態は正常だけど『見える』場合や、科学的に説明できない現象が起きた場合もあります。私自身は見えませんが、実際にそういった現象をいくつか目の当たりにしています。結果として幽霊の存在を信じることになった……というか信じるしかないんですよね」


 普通信じられないと思いますがと内山医師は苦笑する。


「久保田さんは息子の優真君を亡くしたことによる急性的なうつ状態が見られます。ただ先ほど私がお話しした限り、久保田さんの思考は幻覚症状を起こしているほど支離滅裂ではなく、他人の私にもわかりやすく説明できるだけの整然さがありました。ご自身の状況も客観的に把握しておられます。うつ状態は少しの投薬と生活リズムを整えることでかなり改善できると思います」


 ですが、と内山医師が言葉を句切る。


「不安要素を挙げるならば、『優真君の幽霊が存在している』という一点です。これは私が把握した久保田さんの精神状態とイコールになり得ません。であれば私の経験則からすると『優真君の幽霊が実在している』と考える方が妥当です。以上が私の考えです」


 そのまさかだった。内山医師はすんなりと優真の存在を受け入れたのだ。

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