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明子は優真が泣いているのかと思ったが、どうも様子が違うようだ。では怒っているのかとも思ったが、それも違うようだ。今の優真は悲壮感に溢れている。
全然違うとはどういうことだろう。自分は何を思い違いしていた?いや、言葉が足りなかったのかもしれない。
明子が気を引き締めて再度謝罪の言葉を述べようと口を開くも、喋る前に優真が手で制止した。
「お母さんあのね」
「はい」
「僕はお母さんが――」
優真が言い終わる前に玄関扉の鍵が開く音がした。明子の母が合鍵で開けたのだ。
「待って、おばあちゃん来たみたい」
「えっ」
「そうだ、おばあちゃんにも優真と会ってもらおう」
「お母さん待ってっ」
すっかり優真の存在を信じた明子は、優真の引き留める声が聞こえず早足で玄関に向かった。
優真がいつまでこの世にいるかわからない。だが今この瞬間に会えるのだから、母にも孫を会わせてやりたいと純粋に思ったのだ。
てっきり明子は寝込んでいるかまたリビングでぼんやりしているだろうと思っていた母は、出迎えた明子を見てとても驚いていた。
「明子!ああびっくりした。起きていたのね」
「うん。お母さん毎日ありがとう。今日はちょっと元気が出てきて」
「それは良かったわ」
「お母さんに会わせたい人がいるの」
「会わせたい人?」
昨日までの廃人状態とは打って変わってどこか嬉しそうな表情を見せる明子。その変化に戸惑いながらも、母は明子の後をついてリビングにやってきた。
幽霊とはいえきっと母も喜んでくれるだろうと明子は早速優真を紹介した。
「見て。優真がね、会いに来てくれたの!」
優真がなんとも言えない表情でゆっくりと立ち上がり、「おばあちゃーん」と控えめに手を振る。
……母のリアクションがない。
さっきの自分と同じように驚いて固まってしまったのだろうか。死んだ人間が突然目の前に現れたら無理もない。
そう考えて母を見ると、母は厳しい表情で明子を見ていた。
「明子、ゆうくんはこの間亡くなったのよ」
リビングに寒々しい空気が流れた。
「それは私もわかってるの。そうなんだけどね」
優真が現れたからといって手放しで喜ぶなと言いたいのだろうか。だが少しくらい喜んであげないと来てくれた優真がかわいそうではないか。
思っていた反応と違う表情の母に、明子はなんと説明しようか優真を振り向く。すると
「お母さん、おばあちゃんには俺の姿が見えてないんじゃないかなあ」
困り顔を見せる優真から全然視線が合わないよ、と解説が入った。
なんということだ。まさか幽霊の優真が見えるのは自分だけだったとは。
何もない空間を向いて目を見開く明子を、母はとても優しく優しく諭してくれる。
「明子はずっと寝てないし、ご飯もあんまり食べていないから、きっと疲れてしまったのね」
「えーっと、そうね。私どうかしてたみたい。もう少し寝てこようかな……」
誤算だった。いや、浮かれていたのだ。二度と会えないと思っていた息子と会えたことに。
一般常識で考えれば「死んだ人間が現れた」などと言って何もない空間を見せる人は正常とは言えないだろう。「幽霊が見えるようになった」よりも「幻覚症状が出た」というほうが断然、現実的解釈であることも明子はわかっていた。
「ゆうくんを亡くしてからの明子の落ち込みようがずっと心配だったのよ。一度お医者さんに診てもらいましょう」
まずい。完全に「子供恋しさに幻覚症状が見え始めた母親」だと思われている。先ほどの自分が同じ考えに至っただけに、母考えが手に取るようにわかる。
(私には優真がこんなにはっきり見えるのに、まさか自分以外の人には見えないなんて……!)
優真に言われたように明子は幽霊や怪奇現象の存在を信じていない人間だった。そのような現象をこれまでの人生で見たことがないからだ。怪談話のメジャーな舞台たる病院勤めであるが、一度も遭遇したことがない。
だが創作の話やテレビ番組などでそのような現象にはいくつかのパターンがあることも知っていた。もちろん「見える人」と「見えない人」がいるということも。ただ、優真に会えたことで舞い上がっていた明子はそういったパターンがまるっきり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
一方優真はその可能性に気づいていたようで、祖母を見つめながら「先に俺一人でおばあちゃんの前に現れて反応を見ればよかったね」と冷静に分析している。
だがそれも後の祭りだ。
気の迷いだった、寝ぼけていた。事態の軌道修正をはかる明子の言葉を母は「うんうん」と聞き流し、いつの間にか母が予約を取り付けた心療内科にかかることに決定してしまった。
よりにもよって予約が取れたのは明子が勤める病院の心療内科だった。
明子の母もさすがに勤務先は気まずいだろうと候補から外していたのだが、近隣のクリニックはどこも「当日の予約は一杯です」と断られてしまったようだ。なるべく早く診てもらいたい母が最終的に電話して予約が取れたのが総合病院である勤務先だったというわけだ。
予約は午後の診療の遅い時間に取れたと母は言っていたはずだが、十六時を回った現在も待合室は順番待ちの人が多く座っていた。
隣で母が問診票を書いている間、明子は優真が運び込まれたときのことを思い出していた。
血で覆われた真っ青な顔とその独特な血液の臭い。弱々しい呼吸。触れることをためらわれる程に無数の骨折箇所がある身体。それらを総合的に判断して別れを悟った瞬間。
大切な命がを目の前で失われていくあの絶望感。
あの場でもっと自分にできることがあったのではないか。
もっと早く優真を追いかけていれば。合流できていれば、あるいは。
否、「外出してくる」と声をかけられたときに引き留めていれば。
あの日家で仕事をしなければ。
そもそも自分がコーヒーを買い忘れていなければ。
もっと優真と会話をしていれば。
家事を任せなければ。
どこで、どこから私は間違えたのか。
連日考えていた「もし」の濁流に飲み込まれ仄暗い感情に覆われそうになった明子だが、目の前をうろうろする息子の幽霊がその思考を遮った。
なぜか明子たちについて病院までやってきた優真は誰にも見えないのを良いことに、待合室にいるあらゆる人に手を振ってみたり空いている椅子に腰掛けてみたり壁を通り抜けられるか試してみたり(通り抜けは成功した)、とにかく落ち着きがない。
(こんなに落ち着きのない子だったっけ)
息子には小さな頃から公共の場では大声を出さない、騒いで人様に迷惑をかけないことを言い聞かせてきた。他の子と比べて大人しい部類の優真は生前はその言いつけを守っていたはずだが、幽霊となった今では関係ないようだ。
あれこれ試して新たな発見をしては顔をほころばせている。幽霊の身体はそれなりに気に入っているらしい。
隣に母がいる状態では話しかけることもできず、また誰に迷惑をかけているわけでもないので、明子は優真の年相応の遊びを見守ることにした。
そんな優真を見守る明子があらぬ方向を見て微笑んでいるのを見た母が、ますます心配しているとも知らずに。
時間が過ぎるにつれ、待合室に来るより帰っていく人の方が多くなり、ついには待合室は明子たちのみとなった。どうやら診察の順番は一番最後に回されたようだ。
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