8

 優真の姿を前にしてああついに、と明子が壁にもたれかかる。

 ついに自分は幻覚まで見るようになってしまったかと。


 心労のせいか不眠のせいか、栄養失調のせいか。あるいはその全てが原因か。

 無理もない。あのようなかろうじて生きているだけの状態で何日も過ごしていれば心身に不調が出なければおかしいのだ。

 

 職場復帰の前に心療内科にかからなければならないなと明子は思案する。どれだけ会いたいと思っていたとはいえ、一度死んだ人間が目の前に現れたて「再び会いに来てくれた」などと単純に喜ぶほど正気を失ってはいないはずだ。


 だが息子の形をしたその幻影は、なんとその場から動き出して明子に話しかけてきたのだ。


「お母さん大丈夫?具合悪い?前より痩せてるみたいだし……辛いならそのまましゃがんだほうがいいよ。お水持って来ようか?」


 それはもうはっきりと声が聞こえた。ダッフルコートは着ていないが、あの日の服装のまま生前の元気な優真と寸分違わず同じ姿形で明子を心配そうにのぞき込んでくる。

 幻覚にしてはあまりに現実的すぎた。


「お母さん?――あ、もしかして僕の声聞こえてない?というか姿が見えていない?そっかそういうパターンか」


 どうしようどうしようと目の前の幻影が焦り出す。

 問いかけに返事をせず呆然と固まる明子を、幻影の優真はどうやら「自分の姿が見えていないし声も聞こえていない」と勘違いしたようだ。


「うーん聞こえないならしょうがないな。ああ、お母さん買い物に出てたんだね。冷蔵庫に仕舞ってあげたらいいかな」

 

 壁にもたれたとき床に落とした買い物袋を幻影の優真が持ち上げた。持ち上げたのだ、自分が今しがた買ってきた商品を。

 いそいそと玄関を離れていく幻影の姿に明子の脳が動きを取り戻し、ほとんど無意識に声を発した。


「――優真?」


 幻影の優真は飛び上がって勢いよく振り向いた。


「えっ?見えてるの?聞こえてる?」

「うん」

「もー!それならそうと返事してよ!意思疎通できないのかと思ったじゃん!」


 ああ恥ずかしいと耳を赤くして怒っている姿は間違いなく優真だ。会話も成立している。

 これが幻覚でないなら夢の可能性があるな、と明子が現実逃避しかけたとき、優真が近寄ってきて明子の額に手を当てた。


「さっきから動かないけどやっぱり具合悪いの?熱はなさそうだけど。歩ける?」

「具合が悪いんじゃなくて……」


 今自分に触れている手のひらは間違いなく優真のものだ。最期に触った冷たく固い質感と、今額に感じる柔らかな体温を比べてしまい、どうしようもなく涙が溢れてきた。


「お母さん?」


 どうしたの、と再び顔を寄せる優真と目線が合い、明子はたまらず優真の身体を抱き寄せ声を上げて泣いた。優真が亡くなって初めて声を上げて泣いた。



 しばらくの間されるがままだった優真が、やがてよしよしと明子の背中や頭を撫でてくれていることに気づき、明子はぱっと両手を上げて離れた。


「優真ごめんね、痛かった?あの……」


 号泣している姿を息子に見られたのは初めてかもしれないと思うとなんだか妙に恥ずかしさがこみ上げてくる。

 あわあわと言葉を探す明子とは対照的に優真は落ち着いたもので、「まあまあ。とりあえず座ろうか」などと明子の手を引いて室内へ誘導した。そのままソファに座らされ、優真は買い物袋の中身を冷蔵庫へ収納していく。


 明子は慣れた手つきで冷蔵庫に品物を片付けていく息子を眺めながら、これは一体どういう状況だろうかと思考を巡らせる。

 さっき抱きしめたとき全身で感じた温もりと感覚は生きている優真そのものだった。だが祭壇を見れば優真の骨壺が確かに鎮座している。お骨を壺に納めたのは明子自身だ。それは間違いない。


 ならば今目の前にいる優真は?やはり夢なのだろうか。こんなにも自分にとって都合の良い夢が見られるのだろうか。


 やがて優真はお盆に急須と湯飲み2つをのせてリビングにやってきた。自分はソファに座らずカーペットに正座し、湯飲みにほうじ茶を注いでくれる。


「あんまり食べてないみたいだからコーヒーはやめたほうがいいかなと思って、ほうじ茶にした」

「ありがとう」


 空っぽの冷蔵庫を見ていろいろと察することがあったのだろう。優真は何も言わなくとも空腹の胃に負担が少ない飲み物を用意してくれたようだ。

 明子は出された湯飲みをすすり、ほうっと息をはいた。


「少しは落ち着いた?」

「うん」

「今何を考えてる?」

「……これは夢なのか幻覚症状が出ているのかどっちなのかなって」

「あー」


 お母さんは幽霊とか怪奇現象信じないタイプだもんねえ、などと怪奇現象の可能性がある存在がまったり呟く。

 今飲んでいるほうじ茶は明子が淹れたものではなく、目の前で優真が淹れたものだ。これも間違いない。ということは本当に今この場に優真が存在していることになるのか。

 

 半信半疑の明子に不確かな存在の息子が説明してくれた。


「たぶん今の僕の状態は幽霊なんだと思うよ。あれこれ触れるし全然透明じゃないしお母さんとも会話できてるけど、鏡には映らなかったんだよね」


 ほら、と電源が消えたままのテレビを指さす。明子の姿は反射しているが、優真の姿は映らず、しかし湯飲みだけが宙に浮いて見えた。

 宙に浮く湯飲みに明子が肩をびくっと震わせるが、優真は自身の姿が映らないのが面白いのか湯飲みを上下左右に動かし、ね?と笑顔で明子を振り返った。


「まだ信じられないなら存分に触ってどうぞ」


 と、笑顔のまま頭を差し出してきた。撫でろということらしい。明子はゆっくりとその髪を、頭を撫でた。

 ああ、確かに優真だ。優真がここにいる。なぜ幽霊となって自分の元に現れたのか、どういうわけか全くわからないが、明子が優真の頭を撫でているのは事実だ。


 明子がその頭の感触を確かめるように楽しむように撫でていると、優真が静かに言った。


「お母さん、突然いなくなってごめんね。びっくりしたでしょ」


 頭を撫でる手を止めた。優真が頭を上げて湯飲みを両手で包み込んだ。


「悲しい思いをさせたかったわけじゃない。あのときはただ、お母さんが毎日頑張ってるからコーヒーを用意してあげたかったんだよ。遊びに出かけたんじゃなくて、おれが買い置き忘れちゃってたからこっそり補充しておこうと思っただけ。お母さんが集中してる間ならこっそり戻ればバレないないかなって思って。まあ、結果、こんなことになってしまったわけなんですけれども……」

「わかってるよ」


 だんだんと自分の言い草が言い訳がましいと思ったのか声が小さくなる優真に対し、自分も伝えなければと明子は背筋を伸ばす。

 もう二度と会えないと思っていた優真が目の前にいるのだ。あの日からずっと考えてきた後悔を伝えなければ。


「あの後気づいたの。優真がコーヒー買いに行ってくれたんだって。出かける前に声かけてくれてたよね。でも、お母さん振り返りもしないでそのまま行かせてしまってごめんなさい。コーヒーもお母さんが買っておくべきだった。優真が無理に買い物行かなくて良いようにするべきだった」

「別に無理して行ったわけじゃ……!」

「ううん。あの日だけじゃなくて、お母さんお家のこと全部優真に任せっきりになってたのが良くなかったの。何もかも頼りっきりになってた。だから優真が責任感を感じて……それにお母さん全然母親として優真に何もしてあげられてなかったことにも気づいたの。中学校に入学してからずっとそう。その前からもそうだったよね。寂しい思いをさせてたのはわかってたのに、優真に甘えてた。いまさら気づいたってなんだって思うかもしれないけど、今まで本当にごめんなさい。」


 明子が湯飲みをローテーブルに置いて頭を下げる。思考がまとまっていないまま話したものだから優真に自分の気持ちが伝わったか不安ではあるが、とにかく折角優真と話せる機会だ。言うべきことは言わなければ。


 一秒、二秒、十秒以上経過したはずだが、優真から何のリアクションもない。やはり「いまさらそんなことに気づいたの?」と怒っているのかもしれない。

 どうしよう。ソファに座ったままの謝罪は良くなかったか。


 明子が自分もカーペットに正座しなければと腰を浮かしかけたとき、優真が絞り出すような声で


「お母さん……全然違うよ……」


 と言い、目を開けて息子を見ると、両手で顔を覆いうなだれていた。

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