7
十月十八日、明子は久しぶりに買い物をするために外出した。
いくらか母がレトルトのおかゆやヨーグルトなど食欲が無くても食べられそうな食品を買い置きしてくれていたが、なにせ明子がほとんど食べないため生鮮食品はあまり買わないようにしていたようだ。
昨日優真の机からアルバムを見つけたことにより、明子に少しだけ、ほんの少しだけ心の持ちように変化が訪れていた。
見つけた当初はまた崖から突き落とされたような気持ちになった。自分の知らない優真がそこにいたからだ。
いやもしかしたら優真は日常の中でそういう交友関係やエピソードを話してくれていたかもしれない。だが自分の記憶にはない。聞き流していたのか、あるいは優真が話すことも諦めてしまっていたのか。息子の交友関係や部活について把握していないだなんてやはり私は母親失格だ。
けれどもじっくりと写真を眺めているうちに、優真が実に楽しそうな、心からの笑顔を見せていることに気づいた。
自分は確かに母親失格で何もしてあげられなかったのかもしれない。だが優真の人生は寂しい思い出ばかりではなかったのだ。
写真のようにふざけあえる友人関係があったり、真剣に取り組める部活動があったのも確かだろう。体育祭の写真や誰かの家で撮られた写真がこうして優真の手元にあるということは、きっとそれを貰うぐらいの友人関係を築いていたのだろう。
あの日優真が亡くなった日の夕食で、優真自身が「部活で仲の良い友人がいる」と言っていたではないか。息子の世界はこの家の中だけではなかった。学校や部活で楽しく過ごしたであろう日々もあったのだ。
アルバムをめくりながらそのことに思い至り、明子は優真のことをもっと知りたいと思った。あの子は亡くなるその日まで、どんな友達や先輩、先生に囲まれて過ごしていたのか。学校生活ではどんな様子だったのか。明子は何も知らない。
今さら優真の人となりを知ったところで本人は帰ってこないのは承知している。これは所詮自己満足であることも自覚している。だが何も知らないままで優真の死をただ悼んでいるより、知った上で偲んでやりたい。
明子は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた優真に感謝こそすれ、疎ましく思ったり意図して邪険に扱ったことはなかった。何かと世話を焼く息子に申し訳無く思う気持ちはあっても、鬱陶しいと感じる母親ではない。
優真にどう思われていたかはわからないが、明子はできるだけ息子とは良い関係を築きたいと願っていた母親だったのだ。
明子の生きる気力は相変わらず無いに等しい。ただ自分の知らないところで優真がどんな人間だったのかを知るまでは死ねないと、そう思った。
優真のことを知るためにはいろんな人に話を聞かなくてはいけない。そのためにはまずは人間らしい生活をしなければと明子は考えた。
子供を亡くし見るからにやつれたおばさんが「話を聞かせて欲しい」などと言ってきたら聞かれた側は萎縮してしまうだろう。
人間に戻る第一歩として、明子は買い物に出た。
一週間近く廃人のような生活をしていたため、スーパーを一周しても食べたいものは何も思い浮かばなかった。少しばかり気持ちが上向きになったとはいえ急に食欲が出てくるものでもないらしい。
スーパーではとりあえず日持ちする根菜類とタンパク質を補うための卵を購入し、食欲が出るようになるまでの間はそれらで乗り切ることにした。
葉物野菜は買わなかった。買ったところで食材が傷む前に見事に使い切る料理好きの主夫はもうこの家にはいないのだ。
一人暮らしで足の早い食材を使い切るのは難しい。
明子はこの一週間一切出歩かなかったことによる運動不足も相まって、家に帰り着く頃には少し息切れしていた。明日から職場復帰しなければならないのにこれではまるで自分のほうが患者ではないか。
(仕事に戻る必要……あるのかしら)
これからどんどんお金がかかる育ち盛りの扶養家族がいたからこそ、これまでがむしゃらに働いていた。だが一人暮らしともなればそんなに必死に働かなくても良い。
否、優真がいるときも働き過ぎていたのだ。仕事と優真どちらが大切なのかと問われれば問答無用で優真だと即答できる。
だからこそ息子と生活するために必要なお金を稼ぐために働き、その間息子をないがしろにしていた自分は全くもって本末転倒だ。
あれだけ家庭をかえりみず身を粉にして働いた結果がこれだ。何よりも大切だったはずの優真は自分の元からいなくなり、その優真に対してしてやれたことが何も思い浮かばない自分だけが残ってしまった。
マンションのエレベーターに乗り込んだ明子は買い物袋を握り直し自嘲する。
(これじゃ私も雄也と変わりないわね)
雄也は葬儀に顔を出し、憔悴している明子に向かって「今後養育費は支払わないからな」とだけ告げるとさっさと帰ってしまった。
優真の顔を見たかどうかも定かではない。
結局雄也にとって自分たちはその程度の存在だったのだろう。
明子がどれだけ優真を大切に思っていたとしても、それが優真に伝わっていなければ、行動が伴わなければ意味がない。優真の好意に甘え、主夫の役割を押し付けていた母親は優真にはどう見えていたのか。
自分はそうまでしてなんのために働いていたんだろう。
もう少し自分の気持ちを整理する時間がほしい。退職を考えるか休職を願い出てみようか。
明子がまとまらない思考のまま玄関の鍵を開けると、家の中で誰かの気配がした。母と入れ違いになってしまったか?
思えば母には連日大変な心労をかけてしまった。出歩ける程度には心身が回復したことを伝えて安心してもらおうと、靴を脱ぎつついつもより大きな声で帰宅を告げた。
「ただいまー」
すると聞こえるはずのない声が答えた。
「お帰りなさい、お母さん」
恐る恐る顔を上げると、そこにはあれほどもう一度会いたいと願った、息子の優真が満面の笑みで出迎えてくれていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます