5

 それは角を曲がった瞬間わかった。いや、曲がる前からわかっていたというべきかもしれない。


 何か金属の焼ける臭い。

 人々のざわめき。

 そして職場で嗅ぐような血の臭いが漂う。


 明子が想定していた中で一番最悪な光景がそこにはあった。


 フロント部分がひしゃげた乗用車。それから少し離れた横断歩道の信号機の真下に横たわる、見慣れた黒のダッフルコートに包まれた人間。


「優真!」


 駆け寄った息子の顔半分にはべっとりと血がついており、呼びかけてもぴくりとも反応しない。

 周囲を見渡し叫ぶ。


「救急車は呼んでますか!」

「保護者の方ですか?救急車と警察は呼びました!」

「ありがとうございます!――優真!優真!」


 声をかけ続けながらコートのボタンを外し、なるべく患部を触らないようにして容態を確認する。脈はある。だがかなり弱い。呼吸も弱い。このままでは心肺停止になるだろう。

 頭部外傷。頭上の信号機の柱にもべったり血が付いているところをみると車と信号機に挟まれた可能性が高い。となると内臓の損傷も免れない。肋骨は少し触っただけで嫌な音を立てた。手足も骨折しているようだ。


 医師ではないので診断することはできない。だが時折救命にも駆り出された経験のある明子はこのような交通外傷の患者を幾度となく見てきた。

 頭部の損傷が激しすぎる。おそらく損傷した内臓でも大量出血が起きている。全身状態も悪い。ショック状態。


 長年整形外科で看護師をしてきた明子の脳は仕事用に切り替わり、実の息子が事故に遭ったという非常時でも冷静に観察することが出来た。冷静に判断できてしまった。


 必要な処置とそれにかかる時間及び患者の体力を考える。


 考えた、結果。


 これは難しい。


 もちろん息子の命を諦めたくはない。しかしどうしても経験と知識と理性が頭の隅から声をかけてくるのだ。これは難しいよ、と。


 やがて救急車と警察が到着した。明子は救急隊員に母であることを告げ同乗する。その際地面に散らばっていた優真の財布、スマホ、そしてレジ袋から飛び出していた見慣れたインスタントコーヒーの袋を回収した。


 病院に着くまでの間、明子はそっと優真の手を取り両手で包み込んだ。手の甲にも擦過傷が出来ているのを見つけ、優しくさすってやる。


「ごめんね。痛いよね。ごめんね」


 まだわずかに息がある優真の頬も撫でる。

 その温もりを忘れないように、慈しむように優しく撫でた。

 病院に着くその瞬間まで優真の顔を見ていたいのに、涙が溢れて視界が滲んでしまう。


 明子は知っていた。この後病院に運び込まれれば救命措置が始まり、医師と看護師が手を尽くし終わる頃に対面しても、その温もりは失われてしまっていることを。それならば今のうちに、生きている間に、少しでも長く優真の体に触れていたかった。


 二人を乗せた救急車が着いたのは、明子の勤務先だった。




 やはり優真は全身の状態が悪く手の施しようがないということで、まもなく息を引き取り死亡確認が行われた。

 エンゼルケアの前のまだ体温が残るうちに再度対面させてもらえたのは同僚に対する温情だろうか。

 比較的綺麗になった頬を撫で、手を握り、そして最後に頭を撫でた。本当は抱きしめたくてたまらなかったが、これ以上優真の体を傷つけたくなくて堪えた。


 それからのことはあまりにも現実感がなく、顔見知りの救命科のみんなになんと言ったのか、後から病院に来た警察の聞き取りになんと答えたのか、はっきりとしない。


 ほんの数時間前まで一緒に食卓を囲み会話をしていた優真が、自分の職場で、眠ったように横たわっている。明子はこの状況が信じられなかった。

 現場に駆け付け、全身状態を自ら確認したのは確かだ。助からないと自分でもそう思った。だがそれでも受け入れられないのだ。なぜ、どうして優真が目を覚まさないのか。


 明子はふわふわとした状態で救命の年下の看護師に促されるまま手続きを終え、気がついたら霊安室に連れられていた。優真には真っ白なシーツがかけられている。


「あの、久保田さん。誰かご家族には連絡しなくていいんですか……?その、優真くんのお父さんとか、久保田さんのご両親とか」


 手に持った真っ白なタオルで優しく顔を押さえてくれる。どうやら自分はずっと泣いていたらしい。

 彼女、松本里菜は一時期整形外科に配属されたことがあり、明子が何かと面倒をみていた後輩だった。優真とも何度か会ったことがある。気遣わしげに明子を伺う里菜の目も潤んでいる。


「そうね。ごめんなさい。ずっとぼうっとしていたの。今から連絡するわ」


 一旦霊安室を出て、一瞬迷ったが元旦那の雄也ゆうやに連絡した。


「――はい」

「明子です」

「こんな夜中になんだよ」

「あの……優真が今日事故に遭って……息を引き取ったの」


「亡くなった」とは口に出せなかった。雄也の反応を待つ。


「ああ、そうなんだ」


 なんの感情も籠もっていない、まるで自分とは無関係な人が亡くなったような言い方だった。

 分かれたとはいえ自分の息子が亡くなったというのにこの人は。


「いま、霊安室に優真いるから」

「葬儀決まったら教えてくれ」

「顔見に来ないの?」

「こっちにも生活があるんだよ」


 言外に「あなたの息子が亡くなったのに?」を含ませると、雄也は苛立って声を荒げた。

 そうだ。この人はこういう人だった。久しぶりに雄也の冷めた言葉を聞き、電話をかけたときには混乱していた明子の頭がスッと落ち着いて過去の記憶を思い起こさせた。雄也は所詮自分たちより今一緒にいる家族の方が大切で、だから離婚することになったのだ。


 「葬儀のときに顔を見に行く。それでいいだろ」と一方的に電話が切られ、明子は電話をするんじゃなかった、と後悔した。

(こんな人、優真に会いに来なくてよかったんだ)


 続けて実家の家電にかける。コール音が鳴っている間になんて言おうか考えていると、また涙が止めどなく溢れてきてしまい、母につながったときには号泣して言葉にならなかった。


 なんとか言葉の端々から孫が事故に遭い亡くなったことを理解すると、二人は深夜にもかかわらず駆けつけてくれた。霊安室に戻ってからは優真の隣で泣き崩れていた明子の肩を母が抱いてくれ、二人が到着したことに気づいた。


「明子は怪我は大丈夫?」


 袖口に付いた血液を明子のものだと思ったらしい。母はしきりに明子の腕を見ようとする。


「私のじゃないの。私は一緒にいなかったから……。後から現場に駆けつけて」

「ゆうくんは一人で出歩いていたの?」


 明子の両親は優真のことを小さい頃の呼び名の「ゆうくん」と呼ぶ。呼ばれる度に優真はいい加減恥ずかしいからやめて欲しいとはにかんでいたものだ。

 明子はかぶりを振りときどき声を詰まらせながら答えた。


「私の飲むインスタントコーヒーが無くなってたから、気を利かせて買いに行ってくれたみたいで」

「みたいとはなんだ」

「優真が外出したとき、私、家で仕事に集中しててあんまり覚えて無くて」

「自分の子供が夜に外出するのに気づかなかったのか!?」

「お父さんゆうくんの前よ。静かにして」


 父から怒られて改めて自分はなんて酷い母親だったんだろうと思う。

 気を遣わせてばかりで、それなのに何にもしてあげられなかった。忙しいから、疲れているからと理由をつけて、息子のことをないがしろにしていた。

 明子の母は夫をなだめながら娘の背中をさする。


「ゆうくんは優しい子だから明子のために買ってきてあげたかったのよきっと」

「ううん、お母さん。私酷い母親なの。もうずっと家事は全部優真がやってくれてたの。私優真にお世話されてたの。でも優真に何もしてあげてなかったの」

「明子……」

「最後に優真がなんて言って家を出たのか覚えてない。思い出せない。優真は確かに声をかけてくれたのに。無断で外出するような子じゃないの」


 一度言葉にすると止まらなかった。自分はいったい何を見ていたんだろう。何をしていたんだろう。


「私きっと聞き流してたの。いつもそうだったから。『コーヒー買ってくるね』の後にも何か言ってたはずなのに。振り返ってないから優真がどんな顔してたのかもわからない。出かける優真にいってらっしゃいって言ったのかどうかも……覚えてないの……」



 あんなに優しくて可愛くて愛おしい大切な我が子だったのに。

 変わり果てた姿で横たわる優真の手を取るが、すでに固く、冷たい。

 もう笑うことも泣くことも話すこともできない。

 二度と「お母さん」と呼んでくれない。


 今更後悔しても遅い。

 優真はもう、いない。



「コーヒーなんかなくたっていいんだよって。家事もしなくていいよ。生きていてくれるだけでいいんだよって言えばよかった。もっと一緒にご飯を食べて、私が作った料理を食べさせてあげればよかった。優真の話を全部全部聞いてあげれば……ありがとう。ごめんね。ってもっと言ってあげるべきだった。大好きだよって言ってあげればよかったんだよね。気づかなくてごめんなさい。私が母親でごめんね優真。何にもしてあげられなかった。ごめんね。ごめん。ごめんね……」



 気づくのが遅すぎた。

 優真はもうこの世から、いなくなってしまった。



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