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 風呂が沸いたことを知らせる軽快な音楽が鳴り、明子は我に返った。どうもひどく集中していたらしい。

 息子の優真が風呂に入る時間か、と時計を見ると夜の九時二分だった。一服入れよう。インスタントコーヒーの瓶を持ち上げて、


「しまった。買ってくるの忘れてた」


 そうだ今朝切らしてしまったんだった。普段コーヒーを飲まない優真がそのストックが切れることに気づかないのも無理はない。今日は早く帰れるのだから自分で買いに行かなければと思っていたのだが、職場を退勤する頃にはすっかり頭から抜け落ちてしまったのだ。

(明日優真に買ってきてもらうようお願いしようか)


 自然と優真の家事遂行能力に期待してしまっている自分に気づき、苦笑する。


 中学生の息子に家事全般を任せきりになっている現状は、とても健全な家庭と言えないことは明子も自覚している。

 そつなく家事をこなす息子を見ては「これではいけない」と思うのだが、今年度に入り職場の大幅な人事異動が行われ、看護師長になるには比較的若い明子が任命されてしまった。

 通常の看護の仕事に加えて慣れない管理職の仕事も増え、帰宅する頃には疲労困憊なのだ。帰宅してからさらに家事をこなす気力と体力は残っていないのが現実だった。


 正直に言えば、優真が家事全般やってくれる現状はとてもありがたい。


 明子も優真が小さなころから「いずれは家族の一員として少しずつ家事をやらせよう」という心づもりはあったので、優真が自ら「家事をやりたい」と言い出したときはいい機会だと思った。

 だがしばらくしてどうも優真の理想形は自分が思うレベルより遥かに高いもののようだと気づいたのだった。


 完全に主夫になり代わろうとしている。しかも家事の呑み込みが早い。どちらかというと家事全般が苦手な明子より手際が良くなる気配すらある。

 明子は何度か無理をしているのではないか、子供らしく遊んで過ごす日があっても良いのだと諭してみたこともあったが、本人はけろっとした顔で「負担じゃないよ?」と言うものだから、それ以上は言葉を飲み込んだ。


 優真元来の人を思いやる優しい性格も相まって、中学生になった今ではまさに痒い所に手が届く存在となりつつあった。


 今日は久しぶりに一緒に夕食を食べたが、優真はそのことがよほど嬉しかったようで食事を準備する段階で鼻歌を歌っていたほどだ。優真に言われてそんなに久しぶりだろうかと明子は首をかしげたが、前回一緒に夕飯を共にしたのはいつだったか思い出せないことに気づく。


 寂しい思いをさせているのだろうと明子も気にはしていた。

 本人は決して言わないが、中学生になったとは言え母子二人暮らしになってもう三年。まだ三年だ。すれ違い気味の生活になったのは昨年からだが、今年に入ってからは特にひどい。


 家族と一緒に夕食を食べられるだけであんなに嬉しそうな表情をする息子。忙しさにかまけて息子に頼り切る生活をし、それなのに息子と一緒に食事すらできていない母親の自分が情けなくなってくる。


 明子自身忙しすぎて入学式からのこの半年は記憶が曖昧だ。今年は学校行事にあまり関われていなかったように思う。いつの間にか季節は秋になっていた。

 さっき話してくれた文化祭は見に行けるだろうか。授業参観はこの先もまだあるだろうか。それらに合わせて休みは取れるだろうか……。


 来月と言えば優真の誕生日がある。昨年は優真にとても悪いことをしてしまったことを思い出し、今年こそはケーキを用意してあげなければ、と明子は決意した。

(そうだ今のうちに優真に希望を聞いておこう)

 一ヶ月以上余裕があれば予約し忘れることもない。毎日見る手帳に書いておけばいいのだ。


 そういえばその優真が風呂が沸いたというのに部屋から出てこない。寝ているのだろうか。それとも先ほど話していた友人とメッセージのやり取りに夢中になっているのかもしれない。

 一応声をかけておこうと、優真の部屋の引き戸をノックする。


「優真ーお風呂沸いたよー」


 返事がない。寝ているのか?

 もし眠っているのなら無理に起こすのも気が引けるので、明子は小さな声で「開けるよー」と声をかけつつそっと戸を引くと、そこに優真の姿はなかった。


「優真?」


 自分は風呂が沸いた音楽が鳴ったあとずっとリビングを見渡せるキッチンにいた。優真の部屋はリビングの隣にあるため、風呂場に行くには必ずリビングを通らなければならない。


 嫌な予感がする。


 トイレ、風呂場、明子の部屋の扉をそれぞれ開くがどこにも優真の姿はなかった。


 いつ?いつから優真はいなくなった?家の中にいないということは当然外出したのだろうが、まさかこんな夜に、それも風呂を沸かす設定をしてから出かけるなんてことが考えられるだろうか。

 明子はずっとリビングにいて仕事をしていた。優真が部屋から出て家を出れば気づくはずだ。


 ふと、頭の中で「本当に?」と小さな声がした。


 そういえば優真がさっき何か言ってなかったか?それに対して自分はなんと答えた?

 思い出そうと室内を見回すと、視界に空のインスタントコーヒーの瓶が映った。


『お母さん、コーヒー切らしちゃってたからちょっとコンビニまで買いに行ってくるね』


 そうだ。コーヒーを買いに行くと言っていた。自分がなんと返事をしたのか思い出せないが、確かに優真はそう言った。果たしてこんな夜遅くに中学生の息子が――それも母親用のコーヒーを買うだけのために――外出することを自分は許可したのか?


 明子はその前後の会話が思い出せなかった。


 時計は九時五分を指している。……遅い。風呂を沸かすには十分以上かかるはずだ。対して最寄りのコンビニはゆっくり歩いても往復十分以内には帰ってこれるはず。


 ざわざわと胸騒ぎが大きくなり、明子は自分のスマホから息子のスマホに電話をかけてみた。家の中から着信音は聞こえない。やはり優真はスマホを持ってコンビニまで出かけたのだ。コール数を十まで数えたところで電話を切った。

 迎えに行こう。そして自分のせいでコーヒーなんか買いに行かせてごめんねと謝るのだ。次からは自分で買うから。たとえなくなっていたとしてもわざわざ夜に買いに行かなくていいんだよと言わなければ。


 財布が入った仕事用のバッグとコートを引っ掴み、明子はほとんど走るようにして家を出た。脳内を侵食するあらゆる悪い可能性を振り払うように、コンビニから帰る道すがらのんきに買い食いを楽しんでいる優真だけを想像していた。

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