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 十月十一日、母明子は珍しく十八時頃帰宅した。優真は久しぶりに母と食卓を囲むことになり、そして何より出来立ての料理を食べてもらえて、食事を用意している間鼻歌を歌うぐらい嬉しかった。


「嬉しそうね。何か良いことあったの?」

「え?だってお母さんとひさびさに夕食一緒に食べられるからね」

「そんなに久しぶりだっけ」


 盛り付け一緒にやろうか、と立ち上がりかけた母を制し、優真は手際よく食卓に皿を並べていく。


「朝食はちょくちょく一緒に食べてるけど、夕食をゆっくり一緒に食べるのは久しぶりだよ」

「そうね。朝はバタバタしてるから話どころじゃないものね」

「今日は僕の話聞いてもらうからね」


 ぶりの照り焼き、作り置きのきんぴらごぼう、小松菜の白和え、大根と油揚げの味噌汁に白米。優真の目指した出来立ての一汁三菜を目の前で食べてもらえるとはなんと幸せなことか。ひとりうなずいて席に着き、久保田家の夕食が始まった。


 来月中学校で文化祭が開催されることや、所属している囲碁部の大会も来月開催されるのでそれに出場すること、参加費は日用品買い出し用の財布から出したこと。去年買ってもらったスマホで同じ部活の友人とコミュニケーションを取っていること、さらにもう一人の友人と共に三人で団体戦に出場すること。

 最近日暮れが早くなったのでクローゼットの中身の衣替えを検討していること等、夕食中は近況報告と季節の話題に終始した。


 主に優真が喋り明子は相づちをうつばかりではあったが、最近は特に忙しくて言葉を交わすことも少なくなった母が、きちんと目を合わせて話を聞いてくれている姿に優真は暖かい気持ちで話すことが出来た。


 夕食後は二人並んで食器を洗う。これも久しぶりのことだ。


「お夕飯とっても美味しかった。ありがとう」

「食べたいものあったら言ってね。調べて作るから」

「どっちがお母さんがわからないね」

「早めの恩返しと思ってもらって」


 優真の言葉に明子は困ったような申し訳ないような顔をするが、母に美味しい食事を提供するのは優真にとってとても有意義なことなのだ。どうにも伝わっていないようだが。


 食器洗いが終わると明子はパソコンを立ち上げた。


「優真、お母さんこれからしばらくパソコン使って仕事するから」

「ああ、じゃあ僕は自分の部屋で静かにしてるね」


 この家のパソコンはリビングの一角にあるノートパソコンのみである。普段は二人で共用しており、明子が不在の間は優真が料理のレシピや家事の時短術などを検索するのに使っている。

 団欒の終わりを少し残念に思いながらも、優真はやはり母の過ごしやすさを尊重した。


「そんなに気を遣わないでテレビ観ててもいいよ?」

「今日そんなに面白いのやってないんだ。それに今から宿題するから」


 優真は自発的にテレビを消して、「ごゆっくりどうぞー」と言い残し自室に移動した。



 午後八時五十二分。宿題も終わり同じ囲碁部の拓巳たくみとスマホでメッセージのやり取りをしていた。


『親が風呂入れつってるから入ってくるわー』

『じゃあ僕も入ってくる』

『後で宿題教えてくれー』

『まだやってなかったの?』

『忘れてた―』

『お風呂から上がったら教えてあげるよ』


 さて、と部屋から出てお風呂を沸かすスイッチを押しに行く。部屋から出ると母はまだパソコン画面とにらめっこをしていた。


 看護師の仕事は患者の相手だけでなく、病気についてのレポートをまとめたり最新の医療について勉強をしたり、また師長となると部下の評価やシフト作成など様々あるのだと母は以前言っていた。

 特に師長となった今年度からは持ち帰って仕事をすることが多くなり、今のように何やら専門書を開きながらパソコン画面とにらめっこしている姿は珍しくなかった。


 そんな母を見て優真はコーヒーを入れてあげようと、キッチンでインスタントコーヒーの瓶を持ち上げて気づいた。


「あ」


 瓶には一杯分にも満たない量の粒しか見られない。しかもどうやら予備のストックも切らしているようだ。自分はコーヒーを飲まないからと言って、母が毎朝飲むインスタントコーヒーの残量確認を怠るなど、久保田家の家事を担っている優真としては痛恨のミスである。


 明日買ってこよう。そう思い瓶を戻そうとしたが、母が毎朝コーヒーを飲む習慣があることを考える。一日ぐらいなくたって……いやしかし今日このあと飲もうと思うかもしれない。


 なにも明子はインスタントコーヒーを切らしたぐらいで怒りはしない。怒りはしないが朝から少し気落ちするかもしれない。またその様子を目にして自分も気落ちするかもしれない。なによりこれは自分のミスなのだから。


 時刻はまだ九時にもなっていない。いつも明子が飲むメーカーはメジャーな商品なので、徒歩五分で行けるコンビニにも置いてあるだろう。

 優真は買いに行くことに決めた。この悩んでいる時間でコンビニまで往復すればいいだけだ。


 優真にとって自分の落ち度により「母に快適な生活を提供する」という日々の目標が損なわれるのは、久保田家の主夫として、息子として、我慢ならないことだった。


「お母さん、コーヒー切らしちゃってたからちょっとコンビニまで買いに行ってくるね」

「……どうぞー」


 集中しているときに話しかけると明子の反応が鈍いのはいつものことだ。

 普段ならこんな時間にコンビニに行くと言ったら止められそうだが、作業に集中するあまり優真の言葉を深く理解していないようだ。それをわかった上で優真も声をかけているのだが。いわばこれは「出かけるときにちゃんと声はかけた」というアリバイ作りだ。


 優真はなるべく静かに自室に戻りいつもの黒いダッフルコートを羽織った。財布とスマホを両ポケットに入れ、そろりそろりと玄関まで後退する。母が正気に戻らないよう静かに声をかけた。


「じゃあ行ってくるねー」

「……いってらっしゃーい」


 いささか間があいた返事をしたものの母が振り返らないことを確認し、いたずらっ子の表情で優真は静かに玄関扉を開けた。

 (一応許可は取った体ではあるが、)初めての夜間無断外出である。優真はちょっとした冒険気分になり、思わずマンションの廊下をスキップしながらエレベーターに向かった。


 徒歩五分の冒険は思いのほか早く目的地に到着した。夜風を満喫しながら歩いているとすぐだった。


(こんなに簡単なことならやっぱり買いに来てよかった)

 最寄りのコンビニで無事にお目当てのインスタントコーヒーを買えた優真は胸を撫で下ろし、ホットスナックコーナーの誘惑に駆られながらもそれを振り切り、足取り軽くコンビニを後にした。


「ああそうだ拓巳にお風呂上がるの遅くなるって言っておかなきゃ」


 コートのポケットからスマホを取り出し、出かける直前までやり取りをしていた友人にメッセージを送信する。


『お母さんのコーヒー買いにコンビニまで出かけたから、宿題教えるの遅くなる』


 これでよし。スマホをポケットに仕舞い、両手も左右のポケットに突っ込む。まだ十月なのに夜はもう寒い。そろそろマフラーも出しておいた方が良いかもしれない。

 そんなことを考えつつ、優真は車も人通りも少ない交差点で歩行者用の信号が青になるのを待っていた。


 家ではもうお風呂の準備が出来た音楽が流れただろうか。そうなったら母は息子がいつの間にか出かけていることに気づくだろうか。そして母が焦っているところに何食わぬ顔で優真が帰ったら怒られるかもしれない。

 何分夜に一人で出かけるのは初めてのことだったのと、課題をクリアした達成感もあって優真はとても気分が高揚していた。


 なんて言い訳しようか。お母さんにコーヒーを飲ませてあげたかったから。なんて言葉で夜間外出を許してくれる母ではないだろう。声はかけたがそれを言っても怒りそうだ。

 小賢しい息子に対して困りながら怒る母を想像して、ちょっと楽しくなった優真は鼻歌を歌い出した。




 やがてそこに、居眠り運転の乗用車が突っ込んでくるまでは。

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