第32話 私掠船
「あ」
いつものように、ジュリアンの抜け殻を撫でていたわたしは、思わず叫び声を上げた。
可憐で愛らしい形、その背中、人間でいうと肩甲骨の辺りに、小さな穴が開いていたのだ。カエルに肩甲骨があるかどうかは知らないけど。
「た、大変! どうしよう!」
わたしは途方に暮れた。穴は、まだ小さい。繕えばなんとかなりそうだった。でもわたしは、超絶不器用なのだ。縫おうとして、きっと、この穴より大きな裂け目を作ってしまうに違いない。そうしたら、そこからどんどん裂け目が広がって……。
気が遠くなりそうだった。
悲鳴のような声で、わたしは叫んだ。
「フェーリア! フェーリア!」
手先の器用な姉なら、きっとなんとかしてくれるはず……。
「ここにいたか、コルデリア」
例によってノックもせず、フェーリアがドアを開けた。突然現れた彼女は、髪を高々と結い上げ、白の戦闘服を着用していた。
「大変なことになった。でかけるぞ。来い」
命令を下す。
フェーリアがわたしに上から命じる時は、大抵は、的確な指示だ。だから、わたしも素直に従う。でも、今のわたしは動転していた。愛しいジュリアンの抜け殻に穴が開いてしまったというのに、大切な抜け殻を置きざりにして、どこかへ出かけられるわけがない。
「それどころじゃないのよ。ジュリアンが! ジュリアンの皮が!」
「ジュリアン? ロタリンギアの廃太子か?」
フェーリアの目が、わたしの手元に止まった。
「ほらみろ! やっぱりそれ、カエルの抜け殻じゃないか」
「違うなんて、一言も言ってないから。これ、わたしの宝物なのよ」
「へええええええ。た・か・ら・も・の、ねえ」
「穴が開いちゃったの。ほら、ここ、背中に!」
「ほほう」
からかうようにわたしを見ている。いつもならむっとするところだが、それどころではなかった。だって、大事なジュリアンの抜け殻に、穴が開いちゃってるんだもの。
「縫って。ジュリアンの脱皮の皮、縫ってよう」
「お裁縫なんかしている暇があるか、この馬鹿者!」
一喝された。
「連合軍司令部から至急便が来た。ぐずぐずしていると、お前のジュリアンにも危険が迫るぞ」
「えっ!」
「問答無用。戦闘服に着替えて、ついてこい!」
大股に歩き去っていく。
わたしは途方に暮れた。
穴の開いたジュリアンの抜け殻を残して、戦闘に?
こんな気持ちのままでは、戦えない。
「公女様」
それまで黙っていたメイドが、おずおずと口を出した。
「私の叔父が、細かい細工を得意としております。叔父に直させましょうか?」
「お願い!」
地獄に仏の思いで、わたしは、メイドの両手を握り締めた。
「とても大切なものなの。だからどうぞ直してくださいって、お願いして下さる?」
「叔父は、モランシー公の臣民です。わたしは、コルデリア公女、あなたの。敬語は不要です」
にっこりとメイドは笑った。
フェーリアは、城門の外で待っていた。
「時間が惜しい、詳細は移動しながら話すぞ」
そう言って、いきなり舞い上がった。もちろん、魔術で。
「クワッ」
わたしの後からついてきたオウム先生が心配そうに鳴いた。
「だいじょうぶよ、先生。ちゃんとついていけるから」
きっと、フェーリアのスピードを心配してるのだ。彼女は本当に無謀な速度で飛行するから。取り締まりが必要なんじゃないかしらと、かねがねわたしは思っていた。
「クワッ、クワッ」
何か言いたげなオウム先生を残し、わたしは、フェーリアに続いた。
「経済封鎖の話は覚えているな、コルデリア」
高々と空を滑空しながら姉が問うた。彼女の魔力は安定していた。
「もちろん!」
若干斜めに空を横切りながら、わたしは答える。
あの会議で、わたしは初めて大臣に褒められたのだもの。忘れるわけがないわ!
「モランシーのジャガイモ畑は順調ですわ!」
「!」
空高く飛んでいたフェーリアの高度が、がくんと下がった。
わたしより低い位置まで落ち、フェーリアが叫んだ。
「イモの話ではない! スパルタノスへの輸出入を禁ずるというやつだ!」
「覚えていますとも!」
わたしは年寄りではないわ。大切な話を、早々に忘れたりするものですか。
経済的に孤立させる目的で、同盟国は、スパルタノスとの貿易を禁じた。スパルタノスは農業国家だから、自国民が飢えることはないかもしれない。けれど、出来上がった農産物を輸出できないと、外貨獲得ができなくなる。
その上、スパルタノスでは鉄鉱石の産出がなく、質の良い硝石の生産も困難だ。これらの輸入が途絶えると、武器の製造ができなくなってしまう。
結果、経済的に疲弊した上に、武器も手に入らず、スパルタノスは、戦えなくなる……。
こういう計画だったはずだ。確か、何世紀にも亘ってスパルタノスとは天敵の、アゲイル国の発案だった。
アゲイル国。同盟国だけど、えげつない国だわ!
「同盟国の経済封鎖は完璧だった。だが、問題が生じてな」
「アゲイル国が裏切ったのね!」
発案者が裏切るのというのは、よくある話だわ!
「違う! アゲイルは素晴らしく協力的だ。海上封鎖はほぼ一手に引き受けているし、金回りが悪くなった国には、戦争資金をばらまいてもくれている」
資金ばら撒き!
なんて羨ましい……じゃなくて、よっぽど、スパルタノスが憎いのね。
「じゃ、何が問題なんですの?」
同盟国が一致団結し、海上封鎖も完璧なら、いったいどこに綻びがあるというのだろう?
「私掠だ」
「しりゃく?」
わたしはフェーリアの言葉を鸚鵡返した。フェーリアは頷いた。
「個人の資格で、スパルタノスに銃や火薬を運んでいる奴らがいる。逆もまた然りだ。スパルタノスの農産物を持ち出し、同盟国内で売りさばいている。簡単に言えば、密輸だな」
「密輸!」
聞いたことのある言葉だわ!
フェーリアは続けた。
「運搬経路は、レメニー河を渡って行き来している」
盲点だった。南から北に流れるレメニー河東岸には、たくさんの国や領邦がある。河は、これらの国々の西の端を、南から北へ向かって流れていく。
国内では、厳重に監視がされている。だが、国境を超えたら監視の対象ではなくなる。川下の国が、引き続き監視に入ってくれればいいのだが、情報の共有がうまくいかない場合だってある。その時間的なロスに、素早く、西へ向かって渡ってしまったら……。
「でもいったい、誰が運んでいるんですの?」
「商人だ。商機に目ざとい商人たちが、スパルタノスで買い叩いてきた農産物を同盟諸国で売り払い、その一方で、銃や弾丸、火薬などを高値で売りつけているのだ。なにしろスパルタノスでは、武器の需要が増大しているのに供給が不足しているからな」
「なんてこと……」
金儲けのためとはいえ、それは、母国へ対する裏切りではないか!
「悪徳商人というより、山賊や海賊が、暗躍していると見た方がいい。彼らを掌握しておくべきだった。同盟国側の為に働かせるべきだったのだ。だが、わが国には、あいつらに払う金がない」
お金がない。
これは、モランシーの持病のようなものだ。いつだって、あるいは何かしようとすると、モランシーにはお金がない。そしてチャンスを逃し、失敗へと一直線だ。
モランシーだけではなく、レメニー河東側の同盟諸国も、同じだ。
「だが、致命的ではない。我々には魔術がある」
「まさか!」
フェーリアの言わんとしていることはすぐにわかった。体中に力が漲ってくる。
「そうだ。レメニー河に沿って、結界を張る。悪徳商人どもが通り抜けられないようにな」
「了解!」
やるしかない。
山賊や海賊に密輸を許している場合ではないのだ。
眼下に、長々と、レメニー河の岸辺が見えてきた。モランシーの国境だ。
トンボのように空中に止まり、わたしは手を拡げた。呪文を唱えようとする。
「まだだ! そこじゃない、コルデリア!」
慌てた声で、フェーリアが制した。
「お前、先日の失敗をもう、忘れたのか!」
ジュリアンと同じことを言ってるわ。彼はとても優しくわたしにわからせてくれたけど、フェーリアはズケズケ言いすぎだわ!
「御安心なさい、お姉さま。あれからわたし、特訓しましたことよ?」
「信じられるか!」
フェーリアは一喝した。
「ならなんで、出発の時、オウム先生がついてきたんだ? ひどく不安そうな顔をして?」
「それは、無謀な飛行をする姉について行かざるをえない、かわいい教え子の道中を案じて、」
「誰が無謀な飛行だ。お前が下手くそなだけだ!」
フェーリアから暴風が吹いてきて、わたしはよろめいた。
「先生は、心配だ心配だと、鳴かれていたではないか」
「あら、そうだったかしら」
全く気がつかなかったわ!
「結界は、スパルタノス側の岸辺に張る。」
断固として、フェーリアは主張した。
「これ以上、わが国のブドウ畑が破壊されたらかなわん。来年、ワインが飲めなくなるではないか。だが、スパルタノスの土地なら、いくら陥没させたって構わんぞ」
「あら! それって、領空侵犯になるんじゃ、」
わたしは抗議した。
「戦争中だ。構うものか! いいか。結界は、モランシーの対岸だけでなく、同盟国全ての国境をカヴァーする為、レメニー河の岸辺を海まで張る。スパルタノス側のな!」
フェーリアは叫んだ。滑るように、レメニー河の上空を渡っていく。慌ててわたしも、後に続いた。
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