第12話 ベールゼブフォ


時は穏やかに流れていった。やがて、みそぎも終わりに近づき、最後の判定の日が訪れた。


最後の判定というのは、潔斎が正しく行われ、公女が、神の花嫁にふさわしい純潔を保っていたかどうかを、判断することだ。これは、尼僧長が、レメニー河の岸辺につっぷして、土に耳を押しつけ、神の声を聞くことによって得られる。



昔、禊を行っていた令嬢のもとに、見張りの尼僧たちに隠れて、こっそりと都の貴公子が通ってきたことがあった。結果、純潔であるべき令嬢は、あろうことか、身重になっていた。神の花嫁となるべく身を清める筈の、潔斎期間中に。


このことを知った神は、大層、お怒りになった。空には稲妻が走り、激しい雨が降った。低い土地は浸水し、高い山は崩れ、ふもとの町は埋め尽くされた。やっとのことで雷雨が去ると、今度は、太陽が去らぬ季節が続いた。どんなに雨乞いをしても、一滴の雨も降らない。畑は干上がり、作物は枯れ、家畜は死んだ。旱魃は長く続き、人々は水を求めてさまよい、やがて疫病が流行り……。



「神様、やりすぎだわ」

モランシーの神が下す罰を、ジュリアンに教えてあげながら、わたしはつぶやいた。


「恐ろしい」

聞き手のジュリアンの方は、震えあがっている。

「雨が降らないなんて、僕らカエルにとっては、究極の罰だ。一発で干からびちゃうからね!」


「本当にね」


ジュリアンが干からびた姿を想像して、わたしは悲しくなった。だって、カエルの魅力って、ぷるぷるもちもちした肌触りだと思うの。押せば、くにゅってなる背中とか、たまに触らせてくれる(くすぐったいのだそうだ)つるんとしたお腹とか。


この瑞々しい体が干からびてしまうなんて、それは、創造主が創り出した美に対する冒とくではないか。あれ? 創造主って、神様のことだったような気が……。



「でも、大丈夫。わたしの場合は、何の問題もないわ。だって、わたしの元に通ってくるような、もの好きはいないもの」

「そんなことはない!」


ジュリアンが叫んだ。すごく大きな声だったので、わたしはびっくりした。


「あら、あるわよ」

「ない!」

「ある!」

「ないって言ったら、ない!」


あまりに強情を張るので、わたしは呆れた。


「ジュリアン、あなた、神様の怒りを招きたいの?」

「え?」

「わたしの所へやってくるようなもの好きで見境のない阿呆がいたら、モランシーは、旱魃でぼろぼろになっちゃうのよ?」


「阿呆? ひどいな」

沈黙の末、ジュリアンは言った。話がそれているので、わたしは無視した。

「何よりの災厄はね。神の怒りに触れて、モランシーが滅びてしまうことよ」

「そっ、それは困るよね。でも、阿呆は違う……」


しつこくジュリアンが話を戻そうとした時だった。


「神のお告げが出ました!」

川辺へ行っていた尼僧長が、慌てふためいて戻ってきた。


「あらあ、尼僧長さま。そんなに走ったら、心臓が心配ですわ」


わたしは驚いた。普段謹厳な尼僧長が、質素なスカートのすそをたくし上げ、駆け込んできたのだ。湿地の中を走ってきたらしく、頭巾にまで泥はねが上がっている。


「落ち着いている場合ではございません、ひい様」

「ですが、尼僧長様はおっしゃったではないですか。『どんな時でも平常心を失ってはいけません』って」


「時と場合に拠ります!」

尼僧長は叫んだ。

「いいですか、ひい様。神がおっしゃったのです。この頓宮に、」


「この頓宮に?」


変なところで息継ぎをしているので、わたしが問い返すと、彼女は、大きく息を吸った。殆ど絶叫のように後を続ける。


「男がいるというのです!」


「男!」

周囲にいた若い尼僧達が叫んで、失神した。


「いるわけないわ!」

彼女たちを順番に支え、横に寝かせてあるきながら、わたしは断言した。

「ここには、わたしと尼僧たちの他、誰もおりませんもの!」


「確かに」


尼僧長は頷いた。熱に浮かされたようなその目が、水槽のカエルに止まった。尼僧たちが部屋にいたので、水槽に入ってもらっていたのだ。


「ひい様。そのカエルの名前は、確か?」

「ジュリアンです」


「ジュリアン!」

尼僧は叫んだ。

「オスですね!」


「ええ、まあ。どちらかというと」

もとが王子だからね。


「男のカエルだわ! ああ、なんてことでしょう。わたしたちが保護したのは、ベールゼブフォ(悪魔ガエル)だったなんて!」


「落ち着いて、尼僧長様。ジュリアンは、悪魔ではないわ」

「いいえ、ひい様。潔斎中の令嬢には、人間の男はおろか、たとえ犬といえど、オスは近づいてはならないのです」

「カエルは、犬より小さいじゃないの。哺乳類でもないし」


「そういう問題ではございません!」

尼僧は叫んだ。

「ああ。せっかくの潔斎にも関わらず、ひい様。神は、あなたを受け容れることはできぬと申されています」

「ええっ!!!」



「僕のせい?」

その時、水槽の中から、声がした。

「僕のせいで、コルデリアは、修道院へ行けないの?」


「ええ、全くその通りでございますよ、ジュリアン様」


つるり。水槽の壁からジュリアンが落っこちた。底に敷かれた砂の上に這いつくばり、問い掛ける。


「コルデリア。君は、修道院へ入りたいんだね?」

「もちろん。わたしには、人生の休暇が必要だわ」

そして、本をたくさん読むの。


「人生の休暇?」

尼僧長が目を剥いた。

「何をおっしゃっているんです、ひい様。みそぎの手の形も上手に組めないくせに。正式に修道院に入ったら、特訓しようと思ってたんですよ?」

「いいえ、尼僧長様」


落ち着き払ってわたしは答えた。ここが、人生の一大事。これからの優雅で静かな生活の為に。


「必ず、うまくさぼってみせますわ。学園にいた頃も、わたし、得意だったんですもの。さぼるのは」


「はい?」

尼僧院長の目が点になった。

「さぼる?」


「免疫力を上げる為ですわ! まじめに勉学やお作法に励んでいたら身がもちませんもの。魔力を上げる為には、高い免疫力を持たないとなりません」


「魔力を上げる為……それなら、仕方がないかも……」

尼僧長は暫く考え込んでいたが、はっとしたように顔を上げた。その顔には、隠しても隠し切れない怯えの色があった。かすれた声で、尼僧長は尋ねた。

「ひい様。ひい様は、未だ、純潔であられますか?」


「それは間違いありません」

わたしとジュリアンは、声を合わせて叫んだ。


「わたしは、妊娠もしていませんわ」

聞かれぬ先から、わたしは自己申告した。なぜかジュリアンが、顔を赤らめた。


「よかった」

ふうぅぅぅぅーーーー、と、尼僧院長は安堵の吐息を漏らした。

「とりあえず、飢饉旱魃水害は免れたわ」

脱力している。


安心して弛緩しきった尼僧院長の顔を見ているうちに、無性に腹が立ってきた。オスのカエルを飼育しているから、公女が、修道院へ入れない? 婚約を破棄されたというのに? あんまりだわ!


「神様には、何か、誤解があったに違いないわ。だって、カエルよ? 頓宮には、虫もいっぱいいるじゃない。ゲジゲジなんて、厨で繁殖していたわ。ということは、オスもいたのよ! ゲジゲジが許されて、カエルがダメなんて、そんな筈ないわ!」


「コルデリア……」

ジュリアンが複雑な顔をしたが、今は気にしている場合ではない。なおもわたしは続けた。

二重基準ダブルスタンダードは、よろしくなくてよ!」


深いため息を、尼僧長がついた。

「わかりました。わたしから神に、お怒りを解いてくださるよう、お願いしてみます……」


ひどく自信が無さそうだったのが、気になった。正しいことをするのだから、もっと堂々としていればいいのに、とわたしは思った。








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