第10話 再会


「まあ、ひい様。こんな時間までいったいどこに? 霧が深くなってきたんで、心配してたんですよ!?」

頓宮に帰り着くと、案の定、口うるさい尼僧長が待ち構えていた。

「全く、わたしたちをまいて、馬で外出なさるなんて! こんなことを、父君のモランシー公に知られてら、いったいどういう目に遭われるか!」


「監督不行届きで、あなた方も、厳罰ね」

「まあ! 口が減らない!」


自分で言うのもなんだが、わたしは普段はとてもおとなしい。口が減らないのは、馬に乗った後だけだ。



ぶつぶつ言いながら、尼僧は、馬の後ろに回った。

「おや。ひい様。馬のおいどに、何かついておりますわよ。泥かしら」


手を伸ばし、拭き取ろうとしているから、慌てて止めようとした。

間に合わなかった。


「きゃあ! カエル!」

倒れかかった尼僧長を、ぎりぎりのところで、わたしは、抱き留めた。


「ちょっと! 誰か!? 誰か!」


気絶していたのは、尼僧長だけではなかった。馬の尻にへばりついたまま、カエルもまた、目を回していた。どうやら、馬の疾走に、カエルの三半規管がついてこれなかったようだ。


静かな頓宮は、大騒ぎになった。







上から、細い糸のように水を落とす。たくさんの水を、一度に落としてはいけない。ただでさえ扁平なカエルが、余計、ぺしゃんこになっちゃうから。

少しずつ少しずつ。うつ伏せに伏せた、目と目の間に、少しずつ。


本来なら、これは、令嬢の仕事ではない。だが、尼僧たちは皆、怖気をふるって、カエルに近づこうとしなかったのだから、仕方がない。一目見ただけで、尼僧長が気絶をしてしまったのだから、なおさらだ。


泥が流れ落ちて、カエルの体がよく見えるようになった。茶色だとばかり思っていたが、それは泥の色だった。実際は、黄緑に近い、緑色だった。背中に、真っ直ぐな線が通っている。線というより、隆起した筋のようだ。

物珍しかったので、筋に沿って、そっとなぞってみた。思いのほか固く、しっかりしている。もう一度、撫でてみた。


癒されるわあ。なんか、毛のないもふもふをいじっているみたい。



ぶるる、と震えて、カエルが目を覚ました。

「あ。気がついた?」


カエルは顔をぶるりと振って、水を払った。

「コルデリア!」

しゃがれた声で叫ぶ。

「僕は一体……ここはどこ?」


「頓宮よ」

忘れっぽいカエルだなと思いつつ、教えてあげた。


「頓宮?」

「言ったでしょ。わたし、修道院へ入るの。ここには、禊にきているのよ」


言い終わらないうちに、カエルの両眼が、みるみる膨らんでいった。

「ああ、コルデリア! 本当にすまなかった。君がそこまで思い詰めていたなんて……」

表面張力ぎりぎりまで膨らんだ目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


「あら、思い詰めてなんていないわ。わたしは、修道院へは、骨休みに行くのだから」


「僕に負担を掛けまいとして、そんなことを言うんだね。元から君は、優しい子だった。ああ、コルデリア。君だけだ。僕の尊厳を踏みにじらなかったのは、君だけだよ」


確かに、泥の中から拾い上げ、頓宮まで連れてきてあげたけど?

体にへばりついた泥を洗い流してあげたけど。

別に優しくしてあげたつもりはない。当たり屋のカエルに穏便にお引き取り願う為の、手段に過ぎないのだら。


それにしても、さっきから、コルデリア、コルデリアって。公女だって身バレしちゃったにしても、いやに馴れ馴れしい……?

「まさか、あなた!」


「そうだ。ジュリアンだよ。君の、ジュリアンだ」

「いや、『君の』は余計でしょ」

それを言うなら、エリザベーヌの、だ。


「強引なやり方で、君に近づいてごめん。当たり屋のふりは、君の異母姉さんが、教えてくれたんだ。他に、どうやって君に近づいたらいいか、わからなくて」


デズデモーナったら、余計なことを!



わたしは慌てて飛び下がった。カエルが……もとい、ジュリアンが、飛びついてきたからだ。しゃがんでいたわたしの膝に着地しようとした彼を、危ういところで、払い落とした。


「ちょっと! わたしは神の花嫁になるって言ったでしょ!」

「そう言ってたね。でも君は、僕のことを、気持ち悪いって言わないんだね」

「そもそも、男子禁制なのよ、この頓宮は!」


ジュリアンの目が、ぴかりと光った。

「ぼくを、男と認めてくれるんだね!?」


ジュリアンは、清浄であるべき頓宮に侵入してしまったことを心配しているのだな、とわたしは思った。なにしろ、潔斎中の娘が身を穢すと、国中が飢饉に見舞われるのだから。


「大丈夫、カエルなら」

カエルで身を穢すなんて、どうやるのか、さっぱりわからないし。


「それよりジュリアン、あなたは、人間の姿に戻ったんじゃないの? エリザベーヌのベッドに潜り込んで」


「グエッ、グエッ、グエッ!」

今まで聞いたこともないような悲痛な声で、ジュリアンが泣き出した。

「エリザベーヌは僕を、ベッドから追い出したんだ。そして、壁に叩きつけた。城中のみんなが見ている前で」


そういえば、王族の床入りには立会いが必要だと、前に異母姉デズデモーナが言っていたのを思い出した。なんとも悪趣味な典礼プロトコルだと思ったのを覚えている。

ジュリアンとの婚約が破談になって、本当によかった……。


物悲しい声で、ジュリアンが鳴いた。

「その時の傷が、ほら、背中に……」

「それ、傷だったの」

さすがにかわいそうになって、もういちど、そっとなでた。

「エリザベーヌにつけられた傷を、君は優しくなでてくれるんだね。ありがとう、コルデリア」

「別にそういうわけじゃ、」


わたしの抗議を、ジュリアンは途中で遮った。


「コルデリア。カエルの姿になって、その上、第一王子の地位を剥奪されそうになって、僕はようやく、気がついたんだ。本当の意味で、僕の側にいてくれた人は誰か。幼いころから、いつも、僕の近くにいたのは誰だったのか。僕が僕であることを、愛してくれた人は、だれだったか!」


権力の座を外れ、また、生れながらの美しさも失ってしまったジュリアンから、人々は、次々と去っていってしまったという。


「正直、僕は驚いたね。姿かたちが変わっただけで、そこまで嫌われるなんて。結局のところ、エリザベーヌが愛してたのは、僕の身分と外見に過ぎなかったんだ」


メイドに励まされて、ジュリアンをベッドに入れたエリザベーヌは、まだジュリアンが何もしないうちに、ジュリアンをベッドからたたき出し(というより壁に叩きつけ)、シーツを体に巻いただけの姿で、疾風のごとく、城の外へ走り出て行ってしまったそうだ。

外は寒かっただろうに。大丈夫かな、エリザベーヌ。


「ひとりぼっちになった僕は、君が、いつも僕に向けてくれていた、優しく真っ直ぐなまなざしを思い出した。君は、いつも僕の側にいてくれたね。少し心配そうに、僕のやることを眺めていた」


確かにわたしは、いつも、ジュリアンのそばにいたけど。でもそれは、父にそうせよと言われていたからで、別にジュリアンのことを思って、近侍していたわけではない。心配そうに見えたのは、本の読み過ぎで、目が悪いからだ。メイドたちには、目つきが悪いと、評判が悪い。


「無性に、君に会いたくなった。もちろん、お詫びを言う為さ。僕は、自分の宝に気づいていなかったんだ。真実の宝は、地味で退屈なものだということに、全く無知だった」


なんか、微妙にけなされたディスられた気が……。


「そこで僕は、ドン河を遡ってツーランドの山奥まで行って、レメニー河の源流を探した。レメニー河は、君の国の東を流れている。河に沿って流れて行けば、きっと、君に会えると信じたんだ」


「ドン河を遡ったですって!?」


わたしは驚いた。レメニー河を下ってきたのはわかる。流されるだけなら、それほど大変なことではなかろう。だが、ツーランド山脈は、険しい山岳地帯だ。レメニー河も、ジュリアンの国ロタリンギアを流れるドン河も、ここの山々を源流としているが、まさか、あの険しい山に向かって、ドン河を遡っていったなんて。

ちっぽけなカエルの身で!


「それだけ、君に会いたかったんだ」

上目遣いに、カエルは、わたしの顔を見た。泥を洗い流されたカエルの顔は、つるんとしていて、愛らしかった。

「どうしても、君に会いたかったんだ」


言い終わってからも、左右に長い口を、ぱくぱくさせている。その下の喉のたるみまで、震えていた。

不覚にも、胸が、きゅんとした。


「途中、ヘビに遭わなかったかしら。獰猛な鷲や百舌鳥モズとかには?」

「僕のことを、心配してくれるんだね。ありがとう、優しいコルデリア。大丈夫だよ。僕は、とても賢いんだ。ケロッ」


人間だったジュリアンはお世辞にも賢いとは言えなかったが、どうやら、カエルになることで、知恵がついたようだ。造物主の奇跡というやつだろう。


「良かったわね。カエルになって」

「君は、気持ち悪いって言わないんだね? 僕が、ケロって言っても」

「だってあなた、カエルですもん」


静かに、ジュリアンは泣き出した。


「みんな、気持ち悪いっていうんだ。僕がケロッ、って言うと。それどころか、僕の全部が! 君だけだ、コルデリア。僕を真っ直ぐに見てくれたのは、君だけだよ、コルデリア」


「人は人、自分は自分よ」

自信を持って、わたしは言った。いつも言われていることだからだ。貧乏公爵家の、知恵といっていい。だって、他家と同じことをしようとしたら、我が家は破産する。


「優しい上に、君は、しっかりした女性でもあるんだね。知らなかったよ。君がこんなにステキな人だったなんて」

うっとりとわたしを見上げ、カエルは囁いた。


いや、それ、ほめ過ぎですから。母国ロタリンギアで、ジュリアンは、よっぽど過酷な目に遭ってきたのに違いない。








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