第9話 小さな当たり屋
修道院へ入るには、まず、川宮という仮の宮に入って、半年ほど、潔斎生活をおくらなければならない。川宮は、レメニー河の支流沿いにある頓宮(仮の宮)だ。
レメニー河は、モランシー公国の西の端を、南北に流れている。
ちなみに、レメニー河の向こうは、隣国、スパルタノス帝国である。
わたしは、川宮へ入った。外から来る人とは会わず、毎日毎日、ひたすら祈りを唱え、身を清める。修道院に入るとは、即ち、神の花嫁になるということ。その前に、ありとあらゆる穢れを祓わねばならない。
都会の喧騒を離れ、のんびりできると思ったのだが、これが結構、忙しかった。なにしろ、始終、祈りを捧げ、川の水で身を清めなければならないのだから。
身を清めると言ったって、川の中にじゃぶじゃぶ入っていくわけではない。また、洗面器に汲んだ水を、頭から被るわけでもない。川べりへ行って、尼僧が桶に汲んだ水に、祈りながら両手を浸すだけだ。だが、この手の形にも決まりがあって、指がうまく組めず、指導役の尼僧から、叱られてばかりいた。
もしや修道院に入ってからも、この生活が続くわけ?
軽く、わたしは後悔した。
でも、いいえ! きっと抜け道はある筈よ! だってわたしは、厳しい学園生活においても、読書を楽しみ、趣味を満喫していたのだから。口うるさい物理の先生を出し抜き、図書室に立て籠る技術は、まさに百戦錬磨の勇者だったわ!
頓宮での潔斎生活で、たったひとつ許された楽しみは、乗馬だった。いや、本当は全く許されていなかったのだが。
尼僧達の隙を見て、馬に乗って、川原を駆け回る。それも、貴族令嬢の嗜みとされる、横座りで馬の片側に両足を揃えて垂らす乗り方ではなく、堂々と、馬の背中に跨って。だいじょうぶよ。わたしは、乗馬服だって、ちゃんと持ってるから。
乗馬は、幼いころからの楽しみだった。馬の方が、人間より、よっぽど付き合いやすかったから。
ペンギンのような尼僧たちは、馬に乗ることなどできないから、追いかけてこられる心配もない。
その日もわたしは、川添いの湿地帯を、馬に乗って駆け回っていた。夏が近いころで、湿り気を帯びた風が、肌に心地いい。馬は、わたしの言うことを良く聞いてくれて、イヲを除く人間の友達より、仲がいいくらいだ。
どのくらい、馬を走らせていたろうか。気がつくと、辺りはすっかり、靄に覆われてしまっていた。
ちゃぷちゃぷという水の音がする。いつの間にかわたしは、頓宮のある支流から、レメニー河の本流まで来てしまっていた。
この辺りは聖域とされているから、来る人は全くいない。その上、靄に覆われて、ちょっと先も見通せない。さすがに、心細くなってきた。わたしは馬首をめぐらせ、元来た方へ戻ろうとした。
その時、馬の足元で、くちゃっ、という音がした。続いて、
「痛いっ!」
という、叫び声。
驚いて馬の足元を見ると……。
「カエル!」
茶色のカエルが、這いつくばっていた。大きさは、てのひらに入るくらい? 手に乗せる気はないけど。
「おうおうおうおう。俺は動けなくなったぜ」
しゃがれた声で、カエルが言った。
「まあよかった。生きているのね」
とりあえず、しゃべっているので、わたしはほっとした。あのクチャって音は、きっと、馬の蹄が、泥に嵌った音だろう。
「それじゃまたね、カエルさん」
カエルに知り合いはいない。いや、一人いるが、彼が、どんなカエルになったか、わたしは知らない。なにしろ、大混乱の卒業パーティーからは、早々に抜け出してきてしまったから。でも、仮にもジュリアンは、ロタリンギアの王子だ。こんな下品なカエルになったわけがない。これはきっと、レメニー河の野良ガエルに違いない。
「あんたのせいだぜ、姫さん。俺を、一緒に連れてってくんな」
うまく回らぬ舌で、カエルが脅迫してくる。
なんだ、こいつ。当たり屋か?
まずいなあ。わたしが「姫さん」だって知ってるし。このまま放置したら、きっと、公女に踏み逃げ(?)されたって、あちこちで吹聴して歩くに違いない。カエルを連れていけない理由を、ちゃんと説明しなくちゃ。
「わたしはこれから、修道院に入る身。ナマグサイお方と、ご一緒するわけには、まいりません」
「生臭いだって!?」
カエルは激昂した。
「それが、自分が怪我をさせたカエルに言う言葉か?」
「ええと……」
わ、わたしのせいよね? このカエルさんが、怪我をしていたら。わたしが馬で踏んづけたわけだから。ああ、どうしましょう。
でも、カエルは修復能力が高いっていうわ。足の一本や二本、切られたって、どうってことないはず。あ、それはトカゲのしっぽだっけ? どちらも似たようなものよ!
「おうおう、俺はあんたの馬に殺されるところだったんだぜ。お詫びに、宮殿へ連れてってくれたっていいだろ?」
クレーマーのカエル……じゃなくて、公民に行き会ってしまった場合の対処の仕方を、わたしたち公爵一族は、徹底的に叩き込まれていた。モランシー公爵家の評判を落とさない為の、自衛手段だ。最初に謝ったら、だめ。それは、絶対。
「お怪我をなさったの? 大丈夫ですか?」
できるだけ優しく声を掛ける。とにかく、相手を興奮させたらダメなのだ。最初は下手に。ぎりぎりまで、下手に。
「だいじょうぶでケロ」
ほおら。カエルの態度が軟化した。
「生憎と今、わたしは、宮殿にはおりませんの。とりあえず、わたしが滞在している頓宮までご一緒しましょう。お怪我の有無を調べて、もし、お怪我をなさっているようなら、そこで、白魔術を施して差し上げますわ」
わたしの白魔術なんて、ほんの気休め、というか、殆どインチキなんだけど。でも、ほら、
「頓宮? 姫さんは、今、そこにいるんだね? いいのかい? 俺も、中に入れてくれるんだね?」
カエルの目が輝いた。
「傷ついたのだとしたら、放ってはおけません。さ、参りますよ、カエルさん。わたしの後からついていらっしゃい」
いきなり馬をギャロップさせて、まいてやる。
「あんたの馬に乗せてケロ」
どこまでも厚かましいカエルが言う。
「姫さんと、二人乗りがしたい」
「はい?」
「姫さんの後ろに乗りたいケロ」
「……仕方ありませんね」
わたしはため息を吐いた。後ろ手に、馬の尻を叩く。
「ほら。お乗りなさい」
ぴょん、と、カエルは飛び跳ねた。が、馬の背中までは、届かない。
「あら、お怪我はないみたいですね」
馬に届かないとはいえ、自分の体の何倍も跳ねているのだもの。ちょっと、ほっとした。カエルに怪我がなくてよかった。
「馬に踏まれたからだ!」
足元から、カエルが叫んだ。
「普段だったら、もっと高く飛べる!」
「はあ」
「姫さんが乗せてケロ」
「はい?」
「姫さんのお手々で、馬の上まで運んでケロ」
本当に、馬に踏まれたせいで、高く飛べないのかしら。だったら、やっぱり、わたしのせい……。
仕方なく、わたしは馬から降りた。屈んで、カエルに手を差し出した。
「ケロケロ」
自分で言ったくせに、カエルは、乗ることをためらっている。変なカエルだ。
「さあ、どうぞ。お乗りなさい」
跳躍能力の衰えたカエルを、こんな川原に、野ざらしに残しておくのは心配だった。ヘビや鷲でも来たら、軽く一呑みだ。
そろそろと、カエルが動いた。指の先に沿って、少し歩いてから、おずおずと黒い目で見上げる。頷いてあげると、ぴょん、と跳ねて、くっつけた指の先に飛び乗った。
カエルの足から、小さな重みが、伝わってくる。
手のひらまで移動してきたから、そっと指を曲げ、くぼみを作った。
手の中で、カエルが、かさこそ動いた。意外に乾いた足が、掌を踏む感触。
……あ、生き物だ。
その時わたしは、自分以外の生き物の命を託されている、と思った。奇妙にも、カエルがかわいく思えた。
立ち上がり、カエルを、馬の尻に手を置く。カエルは、わたしの手を離れ、馬の毛の中にうずくまった。
よかった。これで、第一のミッション完了。
馬の前に回り、不満げな馬の鼻面を、ぽんぽんと叩いて宥めた。馬の気持ちも、わからないではない。背中にカエルを乗せられたんじゃね。馬は、歯茎を剥きだして、軽く嘶いた。しぶしぶ承諾、という合図だ。
わたしは安心して、
「手に乗せたのは、特別です。いわば、緊急避難。わたしは神の花嫁となる身です。手以外には、決して、触れてはなりませんよ」
背後からカエルにしがみつかれるなんて、まっぴらだ。
「わ、わかってる!」
カエルは、後ろ向きのまま、伏せた姿勢で、馬の尻にかじりついている。
「参りますわよ。しっかり掴まっていて下さいませ」
鞭のしなる音だけで、馬は、素晴らしい勢いで、疾走を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます