第8話 床入り


宮殿では、日も高いうちから、火が熾され、湯屋の用意が整えられた。大勢の娘たちが朝露を浴びて集めたバラの花びらが、浴槽いっぱいに浮かべられる。東の国から伝わった香油が、かぐしい芳香を放つ。石鹸は、王家でしか手に入れられない最高級品だ。


「思う出すのう」

湯殿から流れる得も言われぬ芳香に鼻を蠢かせながら、ロタリンギアの王は、傍らの王妃に話しかけた。

「清められた肌に香油だけをまとい、そなたがわが寝所に入ってきた日のことを」


「あら、わたくしは裸で歩きまわるような不埒は致しませんわ。殿下の寝所へ上がります時には、薄物を纏っておりました」

王の四番目の妃、デズデモーナが応じる。つんけんしていた。


「あ、あれは、三番目の妃との時だったかの。思えば、その時身籠ったジュリアンが、今宵、床入りとは。月日が経つのは、早いものよのう」


「あら、そうですの?」

冷たい声が答える。


慌てて王は、話をそらした。

「ジュリアンの選んだあの娘エリザベーヌは、意地でも孕むであろうの」


たとえ貴賤婚であっても、ジュリアンの子には、王家の血が流れている。育児、教育、結婚など、人生の節目節目で、国庫から、多額の補助金が支払われる。子どもが小さいうちは、補助金は、ジュリアンの管理下に置かれる。ジュリアンは確実に妻の尻に敷かれるだろうから(それは王家の伝統だった)、実際にお金を自由に使えるのは、エリザベーヌだ。



憂鬱そうに、王は付け加えた。

「あれはそういう娘じゃ。この儂でさえ、側へ寄るだけで孕ませそうで、怖い」

「陛下の場合は、もう、大丈夫ですわ」

「そうか?」

「大丈夫ですとも」

自信を持って、デズデモーナは答えた。

「何はともあれ、ジュリアン様には人間の姿に戻って頂かないと。今はそれが一番大事」

「そうであったの」


カエルはいやだと泣き喚く男爵令嬢エリザベーヌを、有能なメイドがなんとかいいくるめ、ようやく、この日に漕ぎつけた。それもこれも、ジュリアンを人間の姿に戻すためだ。


「儂は、アルフレッドでもいいのだがの」

ぼそりと、王は口にした。アルフレッドというのは、王の次男、ジュリアンのすぐ下の弟である。

「あの子の方が、優秀じゃ。勇敢な軍人だし、何より頭がいい。ああ。なぜにアルフレッドの方が先に生まれてこなかったのかの」


そんな質問には、答えようがない。デズデモーナは肩を竦めた。


「もう、ジュリアンはカエルのままで、儂が身罷ったら、アルフレッドが王になればよいのだ」

「それはなりませぬな。長男即位が、ロタリンギアの鉄則ですぞ」


厳然とした声が降ってきて、王は飛び上がった。

「エーリッヒ宰相! 今宵は残業ではなかったのか?」


宰相のエーリッヒは、王が王太子だった頃から、彼の政治を補佐してきた。ロタリンギアが、大陸全土に誇る敏腕宰相である。


「仕事は大急ぎで片付けました。なにしろ、ジュリアン殿下のお床入りですからね。是非、立ち会わなければ」

「律義なことだな」


「アルフレッド殿下を次期国王にしない為に……、」

言いかけて、宰相は咳払いした。

「いえ、王家の伝統通り、ジュリアン殿下にご即位頂く為に、殿下には、ぜひとも、人間に戻ってもらわねばなりませぬ」



控えの間には、たくさんの王族や貴族、官僚が集まっていた。王族の床入りだからだ。


ジュリアンとエリザベーヌの場合は、貴賤婚ゆえ、正式な結婚とは認められない。しかし、生れてくる子どもには、この先、国庫から馬鹿にならない額の血税が支払われることになる。

高貴な王家の青い血に、万が一にも、間男の血が混じってはいけない。どこの馬の骨ともわからぬ間男の子に、尊い血税を渡すわけにはいかない。


ここにいる人々は、いわば、この先生れてくるであろうエリザベーヌの子が、まさしく王子ジュリアンの子であることの証人でもあった。

一応。建前上。

つまり、単なる典礼プロトコルだ。だって、そんなに毎回毎回、王族の床入りに立ち会うわけにはいかないから。



「それにしても、ここは、ひどく暑いこと」

デズデモーナは額の汗を拭った。人が多いので、控えの間は、大変な熱気だった。


コーヒーやチョコレートなどの飲み物が用意してあったのだが、あまりの暑さに、それらを口にする者はいなかった。隣の人と小声でおしゃべりをするくらいしか、することがない。聖職者は、本を読むふりをしていたが、それは本当にふりだった。このような暑さの中では、活字を追うことなどできるわけがない。


集まった人々は、次第に不機嫌になっていった。口ひげをひねったり、意味もなく扇をぱちぱちと閉じたり開いたりしている。


控えの間の真ん中で、一人の婦人が立ち上がった。歩き出そうとして、貧血を起こして倒れてしまった。待機していた医師が、彼女を部屋の外へ運び出した時、それは、起こった。



「いやーーーーーーーーっ!」

凄まじい悲鳴。


そして、寝室のドアが、ばん、と開いた。半裸のエリザベーヌが走り出てきた。集まっている貴賓たちには目もくれずに、廊下へ駆け出していく。


呆気にとられ、次に、その場にいた全員の目が寝室の中に注がれた。


開け放たれたドアからは、部屋の奥の壁が見て取れた。サーモンピンクで塗られた壁には、緑色のスライムが張り付いていた。


スライムではなかった。

王子ジュリアンだ。

彼は、カエルのままだった。









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