第5話 スーラッハ草原の英雄
数日間のモランシー滞在中、イヲは、わたしの知らなかった学園のゴシップをたくさん話してくれた。
誰と誰が恋仲とか。
誰の実家は、誰の家臣筋だとか。
家格がどうの、身分のつり合いがどうの……。
「馬鹿らしいの!」
話している途中で、イヲは笑い出した。
「身分とか、家柄とか。ナンセンスだわ!」
イヲの話を聞いているうちに、わたしは、自分が賢くなった気がした。今までわからなかったことが、ついに腑に落ちたのだ。
「だから、ジュリアンは、わたしとの婚約を破棄したのね! 幼いころ、親が取り決めた婚約なんて、ナンセンスだものね」
難しい言葉も、イヲのおかげで噛まずに言えた。
さらに付け加えた。
「母国の防衛協定の為とか、いっそ不純だわ!」
「ああ、あれ? ロタリンギア王太子の『真実の愛』とかいうやつ?」
そう言うイヲの口調は、ひどく馬鹿にしているようだった。
「結果、彼が選んだのが、エリザベーヌっていうのがねえ。腹黒男爵令嬢の」
「あら。エリザベーヌは、巨乳よ?」
父上が褒めていらしたわ!
「お腹が黒いんじゃなくて、お腹の上のお乳が大きいの」
「コルデリア……」
なぜか、イヲが泣きそうな顔になった。
「あのね、イヲ。本当の所、わたし、彼女にお礼を言いたいの」
地味で目立たない学園生活を送っていたが、わたしは、ロタリンギアの第一王子の婚約者だった。
ロタリンギア王家にとって(ロタリンギアに限らないかもしれないが)、王妃の一番大切な義務は、たくさんの子を産み、育てることだ。
長男は当然、王位継承者だ。弟たちはそのスペア。あるいは、軍人や僧侶として、長きに亙って国を支え続ける。
女の子だって容赦なく利用する。娘は嫁に出し、嫁ぎ先の領土を、ロタリンギアの血の通った孫に継承させねばならない。
ジュリアンの許嫁であることを、他の令嬢たちからは随分羨ましがられた。だが、卒業してすぐ、子作り子育て人生が始まるなんて、考えただけで、ぞっとしたものだ。そもそもお腹が大きくなるなんて煩わしいし、出産は大層痛いらしいし。
幸い、ジュリアンの浮気のお陰で、めでたく婚約は解消された。ジュリアンと、彼が運んでくるめんどうを肩代わりしてくれたエリザベーヌには、感謝しかない。
そう話すと、イヲは目を剥いた。
「呑気な人ねえ。エリザベーヌはジュリアン王太子に、あなたの悪い噂を、さんざん吹き込んでいたって評判よ?」
「悪い噂?」
それは、あれだろうか。
コルセットを締めないで授業に出たこととか?
つけまつげを取らずに寝ちゃったこと?
うっかり扇を忘れて、夜会に出掛けたこととか!
ああ、心当たりがあり過ぎるわ!
「違うわよ! エリザベーヌがジュリアン王子に告げ口したのは、もっと陰険なことよ!」
どんどんと足踏みをして、イヲが遮った。
「コルデリア、あなたが彼女の教科書を隠したとか、体操着を水たまりの中に捨てたとか、鞄の中に生きたバッタをたくさん入れておいたとか!」
もちろんわたしには、何の心当たりもない。
「最後のはご褒美だわ! バッタがたくさんとか、可愛すぎるでしょ!」
「何言ってんのよ! 確かにバッタは可愛いけど」
ぷんすかとイヲは怒り散らしている。
「それを真に受ける王太子も王太子よ! だから彼の取り巻き達も、競ってあなたの悪口を告げ口してたのよ。無いこと無いことをね!」
「知らなかったわあ」
「感心してないで、怒りなさいよ。もう! 呑気な人ね!」
イヲはわたしの代わりに怒ってくれているらしい。ちょっと、申し訳ない。だって、そんなに怒るほどのことじゃないもの。
「悪口も、聞こえなければ、言われていないのと同じよ?」
わたしが言うと、イヲは、深い深いため息をついた。
「ま、なんにしても、今の王太子はカエルだしね」
「そうね。エリザベーヌなんか、少しも羨ましくないわ! あ、ジュリアンが人間だった頃からよ?」
「彼をカエルにしたのはあなたよ、コルデリア」
「えと。イヲ。あなたは、わたしを責めるのかしら」
「いいえ」
意外そうに、イヲは目を見開いた。
「だから最初に言ったでしょ。あなたはいい仕事をしたわ!」
誠心誠意褒めてくれるので、お尻の辺りがむずむずした。
あれは、呪文を言い間違えたせいだ。でも、たとえ親友といえど、それを告げることは憚られた。だって、モランシーの公女としては、あってはならないことだから。魔法の一族、モランシーの権威に関することだ。
◇
楽しい滞在期間も終わり、イヲが母国シューヴェンへ帰る日が来た。
「わたしね。修道院に入ろうと思うの」
牛車に向かって歩きながら、わたしは言った。
離婚されたり婚約を破棄されたら、令嬢は修道院へ入ると相場が決まっている。義姉のデズデモーナも、ロンバット王から離婚された時、一時的に修道院へ入っていた。すぐに、ロタリンギアの4人目の妃として迎えられ、彼女は修道院を出たのだけれど。
修道院では、静かで穏やかな時間が流れているという。デズデモーナの話では、手持無沙汰で、退屈で、死にそうになるらしい。なんて、うらやましいことかしら!
「修道院!」
イオがぽかんとしているから、慌ててわたしは続けた。
「それでね。修道院に入ったら、時間がたくさんあると思うのよ」
「わかった」
力強くイヲは頷いた。修道院に入る目的も、そこでわたしが何をして過ごすつもりなのかも、一瞬にして悟ったらしい。わたしの両手を握り締める。
「本を送るわ。今度書くのは、シューヴェンの土俗的なフォークロアよ。長編絵本になるわ。楽しみにしてて!」
「ど……フォ……?」
む、難しい話はダメよ? 親友だもの、わかってるわよね?
「最終章は、戦記物になる予定。トンボとカマキリの空中決戦よ!」
「空中決戦って、カマキリに断然、不利じゃない!」
思わずわたしは、文句を言った。だって作者は、公平であるべきだと思うの!
すると、にやりとイヲは笑った。
「カマキリにはね、過去があるの。彼は、スーラッハ草原の英雄なのよ!」
「えいゆう?」
「勇敢で高潔で、男前なの!」
「わっ! 楽しみ!」
スーラッハ草原に広がる、血で血を洗う戦闘!(昆虫の血は赤くないけど、そこは想像力で残虐さと禍々しさを補うつもり!) なんて心躍る展開だろう。しかも不利な状況で戦うカマキリは、かつての英雄なのだ。
「新たなオシの誕生だわ!」
わたしはイヲを抱きしめ、躍り上がった。
牛車に乗り、イヲは、北上していった。のろのろ歩く牛が、蛇行する河の彼方に点となってしまうまで、わたしは彼女を見送った。
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