第34話 起死

「タクちゃん!! 逃げて!!!」


 時坂が叫んで立ち上がった。

 僕も勿論立って逃げようとしたんだけれど、足に力が入らない。恐怖で震えているのと、まだ頭がクラクラしているからだ。

 そんな事をしている間にも化け物が動く……!


 ブワッ……!


 生暖かい風が、僕の顔面に吹き付けた。

 いや違う。風だと思ったそれは時坂の血液だった。余りに量が多すぎて風と勘違いしたって感じ。時坂の姿は、もうない。ハッとして振り返れば、20メートルぐらい後方の港の入口あたりに転がってるのが見える。奴は横たわったままピクリとも動かない。


 え……!?

 時坂が、しっしっ……死んだ……!?

 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイいいいいい!!!?

 早く逃げないとおおおおおおっ!!!!?


 ペタリ、ペタリ。


 そう思っていた僕だけど、全く腰が立たなかった。

 一方時坂を殺したサルは、その赤黒い巨体を僕の方に向ける。

 一歩、二歩。歩いて僕の真ん前までやってきた。あの赤い桃ぐらいある目が完全に僕だけを見ている。大きく裂けた口からは、大量の涎が垂れている。ああ、こいつは多分空腹なんだ。それで手当たり次第に生き物を襲って。今度はそれが僕の番なんだ。僕はこれからこいつに殺され、貪られる……!

 この期に及んで、僕は何故かそんな事を冷静に客観していた。恐怖のせいか、体の感覚がない。なんていうか、突然床が抜けたみたいに感じている。何か底知れない黒いものが僕の内側から全身を覆って、何も感じられなくしているのだ。多分脳内回路が焼き切れたんだろう。余りの恐ろしさに恐怖すらも凍り付いている。

 やがてジワリジワリと、化け物の鼻を捻じ曲げたくなるような獣臭さが迫ってくる。

 そうなってから、僕は漸く両腕を後ろに突き、退こうとした。そして……死を直感する。


 にっにっにっ逃げ……っ!!?!?!?


 化け物がその長大な背を屈めて、僕の顔に尖った口先を突きつけた。ハアアと生臭い息が僕の鼻先に吹き付ける。大量の涎がビチャビチャと僕の膝に滴った。


 もっ……もうダメだああああああああああっ!!!


 チョロロロロロロ……!


 次の瞬間だった。

 僕はどうしようもなくお漏らししていた。生暖かい感覚が、ズボンの股を中心に広がっていく。ひっひっと浅く息を吐きながら、上半身を震わせる。


 た、助けて……!!!


 そう思っていた時だった。


「……」


 化け物が何かに反応する。急に僕の股間に顔を近づけて、匂いを嗅ぎ出したのだ。かと思うと牙で僕のズボンを引き裂き、ペロリと僕の内腿を舐める。

 僕は今更気付いた。僕の漏らしたションベンは、大半が蜜に変化していたことを。そして次の瞬間。


 ぱくっ!

 ずぞぞぞぞっ!!


 ンジュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!


「んほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?!?!?!」


 僕は全身を突き抜けるようなおぞましい感覚に、一瞬で意識を奪われていた。化け物の大きな口が咥えているのは僕の股間の一部。恐らく人間など比較にならないパワーで僕の膀胱にまだ残っていたションベンが吸引されたのだ。余りの吸引っぷりに、精嚢の中まで熱くなる。この未知の衝撃に、僕は訳が分からなくなっていた。


 お、お願い……!!

 なんでもいいから命だけは、助けて……!!!


 僕がそんな風に思いながら放心状態で居ると、急に化け物が大人しくなった。僕の膝の上に頭を置こうとする。化け物の頭部は体に比べればやや小さかったが、それでも20キロぐらいは余裕でありそうだった。危うく股間が圧し潰されるところで、避ける。

 化け物はそのまま動かない。目を瞑って、うとうとし始めた。


「ぐるぅる」


 僕の股間に頭を擦りつけて、何やら唸っている。まるで子供みたい。


「……」


 ……ぼ、僕……殺されない……のか……?


 それを判断するまで、たっぷり5分は化け物の様子を窺った。やっぱり腹が満たされたからなのだろうか、地面に寝そべり動こうとはしない。まるで昼間のライオンみたいな格好だった。


「……」


 僕はそろり、その場から立ち上がる。

 すると化け物が動いた。僕の頭上に巨大な腕を翳す。

 一瞬殺されるかと焦ったけれど、そうじゃなかった。化け物は僕の頭に触れ、僅かに圧力をかける。どうやら僕を座らせたいらしい。どこにも行くなと言わんばかりだ。そしてまだもろだしになってる僕の股間を舐め始める。その顔をよく見ると、先ほどまでの凶暴だったあの赤い眼も、今は青色に変わっており、表情もどことなく眠そうに見える。

 ひょっとして……こいつ、単にお腹が空いてただけなんじゃないか? だからサメのハラワタ食いちぎったり、僕を追いかけてきたりしたとか? それで今は空腹が満たされたから、落ち着いているのかも。


 よかった……!

 僕、殺されないで済んだ!

 オマケに時坂は死んだし、いいことずくめだ!


 僕は心から安心した。


 ん?

 ってことは……まてよ……?

 ひょっとして、蜜の能力があればこいつにいう事聞かせられたりするのか……?


 僕はその可能性について考えてみた。というのも、このまま隙をついて船で脱出するというのは難しそうだったからだ。何故ならあの船が動くかは現段階では解らないし、仮に動いたとしても、この化け物が僕を追ってきて、最悪船を破壊してしまうかもしれない。こいつはどうやら僕を貴重な栄養源だと認識したらしいから、逃亡を邪魔する可能性が高い。そうなったら僕はおしまい。だから僕が無事に生き残るためには、先ずこの化け物をなんとかしなくちゃならなかった。

 だけど、こいつを倒すのは不可能だ。僕一人じゃどうしようもない。ワンチャン、今生き残っている連中と力を合わせれば倒せるかもしれないけれど、あいつらは化け物よりも僕を先に殺しかねない。したがって戦うのは悪手だった。

 だったらいっそのこと……こいつを手懐けられないか。できるか正直解らないけれど、もしも手懐ける事ができれば、僕はこの先なんの危険も感じずにこの島に居られる。

 そう決めた僕は、試しに化け物にコンタクトを取ってみることにした。


「……僕、拓也。わかる?」


 とりあえず、三歳児とかと話すような具合で訊いてみる。僕と言いながら自分を指差すといった、ジェスチャーを加えた話し方だ。

 これじゃ解らないかな。でも動物の調教の仕方とか知らないし。

 なんて僕が思っていると、


「うがぅあぅ、あぅあ」


 なんと化け物が喋った。ジェスチャーも真似ている。発音もどことなく僕の言葉を真似しているようだった。まるで赤ん坊みたい。どうやら僕に興味があるらしい。

 よし、もう少しやってみよう。


「僕、拓也。蜜あげる。代わりにいう事、聞く……!」


 そんな具合で僕は続けた。

 とはいえ行き当たりばったりだ。この挑戦は、難しい。最悪の場合、この化け物が僕に対する興味を失って、突然ブチ殺されるなんて事も……!


 そう僕が不安に思った次の瞬間、


「ボク、タクヤ。ミツ、アゲル。イウコト、キク」


 僕は全身引き攣るぐらい吃驚した。だってこの化け物が、突然人語に近い発音で話し始めたから。それは外国人旅行客が話す日本語くらいの精度があった。しかも『タクヤ』と言った時点で僕の事を指差している。

 すごい。こいつAI並みに理解が早い。『イウコト』の辺りはまだ解ってないみたいだけど、既に僕がタクヤであることを理解している。しかも物欲しそうな目をしている辺り、僕の分泌物が『ミツ』であること、それを僕が与えることや、『キク』って言葉の意味を曖昧にだけど理解し始めているっぽい。この化け物、凄まじく高い知能をしている。

 そうか、元々がサルだから知能もそれなりにあるんだ。それに、仮にこいつがあの張り紙に書かれていた『究極の人間』なのだとすれば、知能が高くてもおかしくはない。そういう風に作られたんだろう。恐らくきちんとした教育を受けていたら、人間以上に賢くなったんじゃないか。野生で育っちゃったから、知能は赤ちゃんレベルみたいだけど。むしろ都合がいい。


 よし……!

 後はこいつさえ従えて戻れば……!

 こいつさえ居れば、時坂も会長もいないザコばかりの集団なんてどうにでもできるだろう。だったら元の計画通り、僕が集団の支配者として返り咲ける。

 そのために僕は化け物に最低限の知識を授ける事に決めた。見た目は凶悪だけど知能は赤ん坊なこの化け物が、親である僕に反抗しない程度に賢く躾ける。そうすれば僕はこの化け物を自在にコントロールできるはずだ。


 ふふふ……!

 今から皆の所に戻る時が楽しみだ……!

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