第6章

 「あの、今日も使わせていただきます」

 おずおずと戸口から顔を覗かせたのはリディアだった。書斎机に睨みをきかせていた彼の顔が俄かにぱあっと明るくなる。傍らの侍従が密かにほっと息を漏らす。

 「ああ、好きに使ってくれ」

 彼はその一言を言うためだけに立ち上がって、リディアの傍までやってきた。

 「その場でいいのに」

 彼の邪魔をしないようにと思って、部屋付きの衛兵に断りを入れる。だが、決まってその者が中の侍従に彼女の訪問を伝えてしまうのだ。まるでそうしろと言付かっているかのように。すると中から侍従が満面の笑みで現れてリディアを招き入れる。

 「せっかくですから、ご本人からおっしゃってください」

 そう言って、部屋の中まで通されてしまうのだ。そのやり取りが毎回なので煩わしい。だがいつだったか、アレンの侍従がこっそりとリディアに話したことがある。

 「殿下はリディア様がいらっしゃるとたちまちご機嫌がよろしくなります。ですから我々といたしましてもあなた様のご訪問を心待ちにしているのですよ」

 その場に居合わせた全員が頷いていた。彼の執務が捗るのなら協力はしたい。だがそれが図られたものであるような気もしてならない。リディアの本分としては、人の役に立つならこの上ないが、その意味合いが含まれている以上、素直に受け入れ難いものだった。

 更にもう一つ理由がある。この図書室がいつの間にかリディア専用として作り替えられていた。そのためにアレンは彼女の顔見たさで執務の全般を隣の書斎で行えるように変えてしまったという。部屋の主が居なくては執務室は機能しないも同然である。執務官はままある書斎と執務室の間を往復する羽目になったのだ。

 それを知ったリディアは、当然使用を控えた。だが、図ったように侍従があの話をして聞かせた。彼女は自分の性分に負けたのである。

 「後でお茶を持っていくから」

 アレンはたっぷりと熱いまなざしを浴びせてきた。周りにいた臣下たちがにまにまと顔をほころばせる。

 「あ、ありがとう」

 苦笑いしてみせたが彼には効き目がなかった。彼女は後ずさりをして、早々に部屋から抜け出した。

 「まったく」

 リディアは盛大に溜息をついた。だが口の端にはわずかに笑みが浮かんでいる。

 以前に比べるとだいぶ素直に気持ちを表せるようになった。アレンと過ごす毎日が彼女の心を少しずつ解していった。彼はあの頃とまったく変わらずに接してくれる。まるで昔に戻ったようだと、彼女は思った。彼と屈託なく笑い合った幼い日々を。

 そして彼の自分への想いも、色褪せてはいなかった。大人になって磨きのかかった情熱的な目が、彼女を見つめ続けた。リディアは何度もその手を取ろうとした。だが、俄かに闇が忍び寄って彼女に囁くのだ。

 「またあの日々に戻るかもしれない」一瞬のうちに孤独が蘇り、背筋が粟立つ。また傷ついて振り出しに戻るくらいなら、今のまま別れた方がいい。臆病な心が彼女を引き留めた。リディアは欲望と理性の狭間で揺れていた。

 

 西の空が輝きを放つ。雲切れから伸びた光が薄暗闇を突いた。その矢はさらに数を増やして、ついには雲を退け、闇を飲み込もうとした。

 色めき立った彼方を、開いたばかりの茫洋とした瞳が映している。意識が次第に晴れてきて、リディアはその光景に目を見開いた。

 そこには向かい合う形で彼がいた。すうすうと漏れる息が僅かに聞こえる。閉じられた瞼の淵を長いまつ毛が覆う。頬杖をついて頭を傾げている。口元に垂れた銀の髪に目が止まった。リディアはおもむろに指を伸ばしてその髪を払った。思いがけず指が触れてその形をなぞる。この唇が何度も自分の心を攫った。彼の瞳が自身を射貫いて動けなくする。彼女はゆっくりと顔を近づけた。

 唇が触れ合う寸前だった。彼の背後に盛り上がる影を見た。その漆黒は彼を覆いつくそうと迫る。リディアは咄嗟に顔を離した。

 喉が引き攣って荒々しく息を吸った。胸の奥を突き上げていた熱が俄かにしぼんでいく。リディアは震え出した肩を抱きしめた。怯えながらも自分の心にはっきり浮かんだ想いを掴んでいた。足がすくんで再びその闇に捕らわれそうになる。だがリディアは力を振り絞って、光の側に踏みとどまった。

 もう、彼の傍を離れるのは嫌だ。彼女の本音が口をつく。リディアは独り言ちた。

 「私、どうしたらいい?」

 「俺を見ろ」

 その声にはっとして顔を上げると、そこには赤々と輝く彼の姿があった。まるで生命そのもののように躍動的な。目を奪われて離せない。ずっと焦がれて欲しかった。

 光が拓いた道に雲が陰る。伸ばされた手を、暗闇が隠そうとして迫った。

 彼女はかぶりを振った。もう一人きりは嫌だ。本能が叫び出す。リディアは声を絞り出して言った。

 「助けて」

 闇に引きずられて落ちそうになっていた彼女を、アレンはすぐさま救い上げて抱き留めた。その瞬間、雲が完全に開いて光があまねく照らし、影を消し去った。

 「やっと言えたな」

 押し込めてしまって言えなかった。本当は誰かに頼りたかった。一人ですべてを抱え込んで逃げ道を無くしてしまった。わかっていたのに。ずっと気づかないふりをして。寂しくてたまらなかった。温もりを求めてさ迷い歩いた。誰よりもあなたの愛を。

 「愛してる。もう君を放さないから。俺を信じて欲しい」

 「アレン」

 交わって溶け出した熱が冷えた身体を温めていく。リディアは赴くままにアレンのぬくもりに浸った。見つめ合うと彼女の瞳も茜色に染まった。アレンはほほ笑んで、口づけた。二人は互いの想いを確かめ合った。空が、赤々と燃えはじめた。


 薄明のなごりが地平線を縁取る。もうすぐひときわ輝く星がそこへ顔を出す頃だった。

 僅かな光の中に朱い施しが肌に浮かぶ。首筋から伸びたそれは胸元までで止められた。アレンは名残惜しそうにして柔らかな感触にまだ顔をうずめている。リディアは彼の髪をすいて促した。指の上をさらさらと滑っては瞬いて輝く。それは地上の星だった。

 そろそろ、お子様たちの湯あみが終わる頃だろう。彼らが心地よく眠りにつくためには、彼女を放す必要があった。

 「ああ、時間だ」

 その瞳にはまだ十分な熱がこもっている。息を一つ吐き出した。アレンは彼女の襟元を整えると、起き上がるのを手伝った。

 「あっ」

 リディアの足がもつれて彼の胸にばふんと突っ込んだ。俄かに盛大な溜息が頭にかかる。彼女が顔を起こそうとしたところを押さえて、アレンは耳元に口を寄せた。

 「今夜迎えに行く」

 少しの沈黙ののち、彼女は小さく頷きを返した。

 だがその夜、アレンが彼女の部屋を訪れることはなかった。

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