第5章
昨夜のぬくもりがまだ、身体の芯に残っている。彼の熱に触れたとたん、心のたがが外れて声を上げて泣いてしまった。十年分の重荷を吐き出すかのように。アレンは落ち着くまで寄り添ってくれた。おかげで少し心が軽い。
だが思いっきり泣いたせいで瞼が腫れてしまった。目元を冷やして何とか腫れは落ち着いたが、充血は治らなかった。「どうか気づかれませんように」と祈る傍からマルデレンがやってきた。兄妹の支度を手伝うふりをして必死に顔を隠そうとする。それにも拘らず彼女はじっと見つめてくる。
「あら、目が赤いわね」
案の定、目ざとい彼女に見つかった。
「いえ、これは寝不足で」
「弟の仕業ね!」
「えっ!違うんです!」
何かとんでもない勘違いをされた気がする。
「アレン!ちょっと来なさい!」
なぜ彼がすぐそこに来ているのだろう。居間の入り口から彼が顔を覗かせた。
「あなた昨日の話聞いてなかったわけ⁈リディアに無茶させちゃダメじゃない!」
「えっ⁉」
アレンも同じことを思ったらしい。慌てて訂正を試みるが、マルデレンは思い込んだら最後だ。何を言ってもよからぬ方向に話が飛んでいく。そのうちに周りにいた侍女がくすくすと笑いだす。どうしようもないと諦めたアレンがリディアの手を引いて部屋を抜け出した。
「待って!私まだお支度の手伝いが!」
「姉上には了承を得ている」
後ろを振り返ると、首を傾げておどけてみせたマルデレンが見送っていた。「いつの間に」そう言いかけたとき、先にアレンが口を開いた。
「君に見せたいものがあるんだ」
その顔は活き活きとして輝き、リディアはつられて笑顔になる。再会してから彼女が初めて見せる笑顔だった。アレンは愛おしくて目を細めた。
朝の陽ざしが降り注ぐ回廊を、城仕えの者たちの隙間を縫って進んでいく。見慣れない王太子の意気揚々とした姿に、彼らが通り過ぎるまでその正体に気づかない者さえいた。二人が通った場所には、一様に手を止めて呆気にとられる集団が後に残った。
リディアはその様子に半ば諦めて、彼の思うまま腕を引かれてついて行った。やがてアレンはある部屋の前で足を止めた。
「ここは」
図書室だった。こじんまりとしているが、天井の高さまで本棚が作り付けられている。壁中が本で埋め尽くされていた。
「君が好きそうな本を集めてみた。いつでも自由に出入りして構わない」
得意げな顔をして彼が言う。
確かに背表紙を見渡すと、興味をひくものばかりが並んでいる。彼女はおもむろに本棚に近づいた。
「あ、そうだ。隣、俺の部屋だから」
「えっ」
「いつでも顔を見せに来てくれ」
いつでもこちらから顔を見に行くと、その顔に書いてある。リディアは苦い顔をして笑ったが、アレンはそれに気づこうともしない。諦めて吐息を零すと本棚に向き直った。
気になった本を手に取ってページをめくってみる。昔、夢中になって読んだ詩集を思い出した。この国を去ってからは、本を読む余裕などあまりなかった。誰もいない部屋に佇む自分の姿が心を掠める。あれからまた時が経った。リディアはゆっくりと瞬きをしてあの日の自分を抱きしめた。
「気に入った?」
懐かしさについ夢中になってしまった。気が付くとアレンがすぐそばに立って、彼女の顔を覗き込んでいた。
自分を見つめる目には少し慣れたようだ。もうあまり驚かない。悪気のないリディアは穏やかに彼を見つめ返してみた。
するとアレンの頬が俄かに朱く染まっていく。口元を抑えて彼が目を逸らした。
「まったく君ときたら、俺の気持ちも考えてくれ」
キョトンとした顔でリディアが固まっている。彼女は聡明そうに見えて、実は少し鈍感なところがある。アレンは片笑んで顔を近づけた。
「ちょっ」
彼女が喚く前にその唇を塞いだ。胸を叩いて抵抗してみせるが、彼がその手を掴んでしまう。背中を本棚に押し付けると、両手を頭の上で拘束されて、腰をグイっと引き寄せられた。より深い口づけが口腔内を犯す。強引だが甘い彼の舌づかいが彼女の脳を溶かした。ようやく放してもらえた頃には、ずるりと腰から落ちそうになった。アレンが抱き上げて、首筋に顔を埋めると短く口づけを施した。
「どこがゆっくりなのだ」溶かされた頭が抗議の言葉を並べた。
「鈍感な君が悪い」
おどけてみせるその顔に冷ややかな視線が向けられた。
「あなたが悪いわね」
どこかで見ていたかのような口ぶりだ。マルデレンが会談を終えたその足でアレンの居室を訪れ、紅茶のカップを片手にくつろいでいる。
「すみませんが姉上。こちらは少々立て込んでおります」
忙しなく部屋を出入りする執務官を目で追ってみせる。姉は一瞥して鼻を鳴らした。
「あなたがいつまでも隣の部屋から出てこないのが悪いんじゃない」
ぴしゃっと正論を言われては太刀打ちできない。アレンは口ごもるしかなかった。
「二日や三日で彼女をどうにかしようなんて考えないことね。あなたにもわかってるでしょうけど」
「ええ、そうですね」
彼は声色を落とした。リディアが抱える心の傷は想像以上に深い。アレンはそれを垣間見ていた。堰を切ったように泣き続ける彼女の姿を思い出した。
朗らかで無垢な彼女があんなにも変り果てようか。所在なげに立ち、自信の無い顔をした様は実に儚げだった。彼女は孤独の淵で何を見たのだろうか。長い間、彼女を苦しめたものとは。
自身も状況は違えど、同じような闇を彷徨った。あてどなく続く暗い淵をいくら歩いても抜け出せない。その苦しみを彼は知っていた。それがたった一人だったのだから、彼女の苦悩は計り知れない。
「リディアは再会した時にはもうあの状態だった」
姉がぽつりと零した。俄かに雲がかかったように先ほどまでの快活さはない。
「ほんと、たまたまだったのよ。避暑地で子どもたちの世話を頼む人材が急に必要になって。地元の名士に尋ねたら、私塾で働いていた彼女に引き当ったの。生徒たちには評判の先生だったそうよ。きっとその子たちが繋いでくれた縁ね」
「そうでしたか。感謝しなければいけませんね。彼らの存在が彼女の命を救ったのかもしれません」
本当に命を絶っていてもおかしくない状況だった。人想いの優しい彼女のことだ、子どもたちと触れ合ううちに死ぬ気も失せてしまったのだろう。いつか彼らに会えた時は礼を言いたい。
「それはそうとあなた、城中が色めき立ってるわよ」
突然話の矛が自分に向けられた。アレンはきょとんとしている。
「今日の会談でも、大臣なんか外交そっちのけであなたとリディアの話ばっかり。夫から預かってきた話が一向に進まないったら。んもう」
迷惑そうに見せかけて、なんだかんだマルデレンは嬉しそうだった。口の端が笑っている。アレンはちらりと手元から目線を上げてその様子を盗み見た。
「皆、心配なのよ。あなたのことをきちんと見ている者は意外と多いわ。だから安心して邁進しなさい」
「ありがとうございます」
弟は姉のこうした愛情深いところが好きだった。時に突き放した言い方もするが、きちんと最後まで見守ってくれている。大人になった今ではそれが少しくすぐったくもあった。
ひんやりとした風が吹き抜ける。陽は南にその位置をずらしつつある。庭園の端にある東屋は薄暗かった。
そこにポツンと佇む彼女の姿を見つけて、アレンは付近まで急いで駆けてきた。荒い息を鎮める。
「よくその背中を探してはこの場所に来たな」と、不意に懐かしい思い出が蘇る。アレンはおもむろに近づいて行った。
「この場所に君がいるってことは、ひょっとして俺を待っていたとか?」
自惚れてみせるアレンに対し、リディアは冷ややかな目線を送った。それにもかかわらず、彼女は自分の隣を彼に譲った。アレンは眉を上げた。彼女のちょっとした変化が嬉しかった。腰を下ろし、持って来た籠の中身を揚々と取り出し始めた。リディアは一瞥しただけで、すぐに本の世界に戻った。
小ぶりの蜜柑を数個に牛酪をたっぷりと使った焼き菓子、極めつけは野苺の砂糖漬けがみっちりと詰められた小瓶。それらをせっせと並べていく。どれも彼女の大好物である。
未だ手元の本に集中してみせる彼女を見やってアレンは片笑いを浮かべた。彼は蜜柑をひとつ手に取って、大げさにぱりっとその皮を破ると少々荒っぽく剥き始めた。おかげで辺りには、弾け飛んだ香りが一気に充満する。彼女の鼻を否応なく刺激した。リディアが思わずきゅっと目を瞑った。微かに唸り声が聞こえる。すかさずアレンはひと房の蜜柑を彼女の口元へ運んだ。
「ああ、もう!わかった。いただきます」
ちぐはぐな言葉を羅列すると、リディアは目の前の蜜柑をぱくっと頬張った。爽やかな酸味と適度な甘みが口いっぱいに広がる。たまらず唸り声を上げた。
「はい」
「ん」
心得たアレンが口元にテンポよく蜜柑を運ぶ。リディアはさながら雛鳥のように口を開けて待っている。次第にアレンの肩が震えだす。すぐさま堪えきれずに吹き出してしまった。リディアが隣で複雑そうに咀嚼する。
「君の好物が変わっていなくて良かった」
「そうそう変わるもんじゃないわよ」
彼女の頬が俄かに膨らむ。大げさにパタンと音を鳴らして本を閉じた。
本人は気づいていないらしいが、言葉遣いも昔に戻っていた。アレンは嬉しくて耳を澄ました。
「なんだか」
唇を尖らせた横顔。アレンの瞳にちかっと熱が奔る。
「城の中にいると、視線が気になって仕方ないのよ」
先日の二人が手を繋いで疾走した様子は今や城中の者が知っている。それだけに止まらず、二人は寄りを戻すのではないかという噂まで立っているのだとか。どうやらそれは、あの快活な声の主が仕込んだらしいが。アレンは素知らぬ顔をしている。
「この場所しか思いつかなかったんだもの。べつにあなたを待ってたわけじゃ―」
「酸っぱくないな」
アレンは片眉を上げて、口の端をぴっと舐めた。蜜柑は甘い味がした。ぽっぽっぽっと彼女の頬が朱色に染まりだす。リディアはぷいっと横を向いた。近頃アレンはどんなに咎めようがお構いなしだ。抗おうものなら、逆に彼がずずいと進み出てリディアを掴まえてしまう。彼の中の何かを刺激してしまうようで、まるで手が付けられないのだ。「君が煽るのが悪い」とまで言われる。そのため余計な抵抗は避けるようになった。
「リディア」
返事がない。彼女は火照りが冷めるまでこっちを向かないつもりだ。アレンが頬杖をつく。可愛くて仕方ないと顔に書いてその様子を眺めていた。背後の庭木を鳥のつたう音がする。二人が振り返ると、昼間にめずらしい夜鳴鶯が二人を笑って羽ばたいた。つられた二人は笑い合った。ややあってリディアが口を開いた。
「近頃はなんでも四人ご一緒がいいみたい」
アレンの顔が僅かに曇った。彼はわが子の話を避けていた。
マルデレンの兄妹と、アレンの双子はすぐに打ち解けた。僅かばかり歳の差はあるが、兄妹が上手く双子をリードして遊んでいる。
リディアのことが大好きな兄妹のおかげで、双子はすっかり彼女に懐いていた。
「ユノル様とセア様は」
双子の名前である。
「よく抱っこを所望されるのよ。おひとりずつは嫌みたいで、いっぺんに纏めて差し上げるの。おかげで腕が逞しくなりそうよ」
彼女が朗らかに笑って言った。アレンはその様子に安堵して口を開いた。
「彼らの母親には悪いことをした」
朧げな彼女の姿が蘇る。
「君を忘れようと結婚に踏み切ったが、最後まで彼女を愛することはできなかった。大切にしようとすればするほど、彼女を傷つけた。子どもさえ生まれたが、俺は彼女の本当に欲しがったものを最後まで与えることができなかった」
自分の中には忘れられない人がいる。正直に打ち明けた時、彼女は受け入れようと努力してくれた。だが、彼女はアレンが振り向くのを密かに願っていた。それが分かると、アレンは彼女を一層遠ざけた。双子を見るたびに、彼女への想いが蘇ってしまう。寂しがる彼らを、傍目からしか見てこられなかった。
「そう。それでお二人はあんなことを」
「なんだ?」
「お父様は僕たちが嫌いなんだって」
仕方のないことだった。それでも、実際に耳にすると心が痛んだ。彼にも我が子を愛したい気持ちはあった。だが自分ではどうしようもなかった。
「口ではそう言ってるけれど、本当はあなたを求めてるのよ」
リディアがアレンの肩にそっと手を置いた。「逃げないで」と彼女が言ってくれている気がした。アレンはその手に自身の手を重ねた。
「ありがとう。君がいてくれてよかった」
重ねた手をアレンは無意識に握っていた。それに気づくと彼女は、その意のままにした。
「ねぇ、ちょうどお目覚めの頃よ。行ってみない?」
お子様たちの大合唱が部屋の中に響いている。
「リディア様!よかった」
侍女が安堵して息を吐いた。誰かが最初に目覚めたあと、リディアの姿が見えないので泣き出してしまった。それが全員に伝播したらしい。
「りでぃあ!」
誰かが彼女のスカートにしがみついた。見分けようとじっと目を凝らす。
「ユノル様ね」
リディアが抱き上げるそばからぐりぐりと額を押し付ける。
「お兄様がいるということは…あ、いらっしゃった」
すぐそばで彼女を見上げていた。少しおっとりとしているが、すぐ兄の姿を見つけてはその後を追っている。自分も同じようにしたいらしい。せがんで今にも泣き出しそうだ。
「セア様はこちらの方が抱っこしてくださいますよ」
その場にいた全員の侍女がその姿を凝視した。目を見開いて固まっている者までいる。
「抱き方はこれであっているか?」
「それでは苦しそうよ。その手を膝の裏に添えてあげて」
まるで仲睦まじい夫婦さながらである。固まっていた侍女が何度も頷いては目を潤ませている。二人は彼らの視線に気づいていないようだ。
「ぼくも!」
ユノル王子が身を乗り出した。どうやら父親の方へ移りたいらしい。
「そうですね。いっしょがよろしいですものね」
悪気ない、にこやかな顔をして、リディアはアレンにもうお一方を預けた。
「お、おい」
唐突に託されたアレンが弱弱しい声を漏らす。ぎこちない抱き方の父にがっちりとしがみついている。俄かに苦しそうだ。リディアは吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
「明日から練習ね」
リディアの言葉に彼らは目をまんまると輝かせ、更に強くしがみついた。
この二人の様子は瞬く間に城中を駆け巡った。リディアにとっては更に訳も分からず、居場所を追われることになりそうだった。
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