第7章
松明の灯りが列をなして城を出て行ったのは夜半過ぎのことだった。西の森で怪しい動きがあるとの報せを受け、王太子は部隊を起こした。明け方近くになって一部を残し帰還したが、その影がまだ辺りをうろついているようだった。仮眠を取った後、彼は子どもたちの居室を訪ねた。
「リディア様はご用事でお出掛になられたとか」
穏やかな口調が途切れて、侍女の顔が俄かに強張る。王太子は目を瞠って彼女を見ていた。
数日前のことだった。
澄み渡った空に雲が一筋流れ込むと、たちまち嵐に見舞われた。思わぬ空の悪変にずぶ濡れになった臣下が、とある書簡を携えてやってきた。
不穏な空気の纏うそれを王太子はおもむろに開いた。一瞬にして顔が凍りつく。居合わせた臣下へ緊張が走った。
「小規模の蛮族が結集しつつあるそうです」
「この男がそれに関わっているというのか」
降って湧いたような話に、王太子は動揺を隠せない。とうの昔に死んでいると思われていた。あの親子がこの国を出た際にその者も姿を消した。それ故に今までその存在を忘れていたほどだった。
「一部が西の森に近づいているという情報もあります」
思考にふける王太子に臣下が話を加えた。先ずは相手の情報を得る必要があった。
「すぐに偵察部隊を編成し周囲の警戒にあたらせろ。動きがあればすぐ知らせるように」
「はっ」
騎兵団長はすぐさま部屋をあとにした。それを見送ると、王太子は侍従をそばに呼び寄せて言った。
「決して彼女の耳には入れるな」
侍従は眉根を寄せてうなずいた。奴らの目的はわかっている。アレンはこの時、城の内部までその手が及ぶとは考えなかった。
時を同じくして、リディアが外出した。紛れもなくあの男の仕業に違いない。心臓の鼓動が激しさを増す。この先に待ち受ける事態が警鐘を鳴らしていた。その耳に背後から迫る足音が聞こえた。
「殿下!」
侍従が血相を掻いて戻ってきた。今朝からリディアの行方を追わせていた者だ。
「リディア様は西の森に向かわれたようです」
彼はひゅっと息を呑んだ。恐れていたことが現実となってしまった。自身の懐にいるも同じでその動向までは見張ってこなかった。見通しの甘さが仇となってしまった。自身を罵倒する時間など微塵もない。今は彼女の跡を追うことが先だ。
今頃はあの男と対峙した頃だろう。彼女に危機が迫っていた。
―明日の朝、西の森で待つ。
受け取った手紙にはそう書かれていた。二度と目にするはずはないと思っていた男の名前と共に。
芯に残った熱を少しおさえたくて、冷たさが混じり始めた夜風に身を預けていた。
「リディア様でいらっしゃいますか?」
月明かりに照らされた瞳が俄かに鋭く光ったように見えた。ぴりりと悪寒が走った。おずおずと返答した。すると人懐こい笑みが広がって彼女は気のせいだと諫めた。
「こちらをお渡しするようにとのことです」
アレンの、熱を湛えた瞳がすぐさま蘇った。瞬く間に芯がちりりと音を立てる。だがそのごわついた紙の手触りに気づいて、彼ではないとわかった。差出人の名が記されていない。
「どなたからですか?」
話しかけてきた相手の姿はどこにもなかった。ひんやりとした風が空を漂う声を攫っていった。ただ鋭い眼光だけがその場に残った。
リディアは仕方なく手紙の封を切った。その瞬間、芯に残った熱はまるでろうそくの灯の如く吹き消された。細い煙が彼女の身体に巻き付く。無抵抗なまま、光のない闇へと引きずりこまれた。まざまざと蘇る男の顔。唇が戦慄き、息は吸い上げるばかりで吐くことができない。指先が震え出し、紙がくしゃりと音を立てた。一点を見つめたまま、リディアは膝から崩れ落ちた。
「久しぶりだな」
そう言うと、叔父は偽りの親しみを向けてよこした。途端に吐き気をもよおして足元がぐらりと揺れた。リディアは必死に持ち堪え、気圧されまいと相手を睨みつけた。
「私を呼びつけたところで、何のお力にもなれません」
葉擦れのざあざあという音と、胸中に荒れ吹く風が共鳴して、彼女の恐怖心を掻き立てる。ぶ厚い葉が大手を広げて頭上に茂り、陽の光はほとんど届かない。屍骸さながらの枝葉が足元に転がって、彼女の様子を仰ぎ見ている。心もとない彼女の感情は隠しきれずに漏洩した。叔父は鬱蒼と髭を生やした口元を歪めて笑った。
「なあに、お前の身一つで十分だ」
浅黒く光る両眼がリディアの姿を捕らえた。視線を下から上へと嘗め回すように這わせる。リディアは思わず後ずさった。しかしその背後にただならぬ気配を感じた。振り向くと、複数の男たちが立ちはだかった。声にならない悲鳴を上げた。リディアが背後に気を取られている隙に、間合いを詰めた叔父が彼女の腕を捕らえた。
「きゃあ!」
その瞬間、男たちの狂悦が俄かに沸き上がる。それらは檻となってリディアを取り囲んだ。浅ましい欲望が無数の矢となって彼女の身体を貫く。背筋が凍り、まったく体が動かない。死よりも恐ろしい事態が彼女を待ち構えていた。
「お前を人質にして、金を巻き上げてやる。だがその前に、こいつらが楽しみたいというのでな。お前には悪いが、相手をしてもらうぞ」
耳をつんざくような笑い声が舌なめずりを始めた。男たちはさらににじり寄り隙間なく立つと、彼女の心の逃げ場さえも奪った。
「お前はあの場で死ぬはずだったんだ。そして俺は富と地位を手にしていた。なのにお前は運よく生き伸びやがって。お前のせいでこんな薄汚い生き方をする羽目になったんだ。せいぜい後悔するんだな」
そう言って掴んでいた腕を勢いよく振り放した。リディアの体は反動で地面に叩きつけられた。鈍い痛みがじわりと体を伝っていく。頭を持ち上げる気力を失い、あきらめかけたその時だった。男たちの足の隙間から刃の鋭い光が彼女を照らした。それは波の如く押し寄せて、あっという間に男たちを倒していった。呆然とそれを見つめる傍らで、叔父が再び彼女の腕を掴んだ。
「やめて!」
必死に抵抗するも、体にうまく力が入らない。半ば強引に引きずられていく。リディアが阻止しようと片腕を動かした時、反対方向から引っ張られた。
「その手を放せ!」
それは闇をも切り裂く眩い閃光だった。混沌とした中に突然もたらされたそのぬくもりが、リディアの心を俄かに包んだ。自身を見上げる彼女の瞳に、彼は手元に込めた力を更に強くした。未だ目線が合わなくとも、その気持ちは彼女の中へと流れ込んだ。アレンは自身が握る切先を叔父の喉元に突き付けた。
「おのれ」
怯みつつも、彼女の手を放そうとしない。
「諦めろ。完全に包囲されている」
気づけば刃の檻に自身が閉じ込められていた。散り散りに倒れた人影がその隙間から覗く。もう後がなかった。だが叔父は自棄になるわけでもなく、おもむろに自身の手に握られた剣先を見つめた。
「ならば、こうするまでだ」
白い喉元に朱赤の線が現れた。肌にめり込むほどに強くあてられた刃が彼女の命を今にも奪おうとしている。
「なにをする!」
「おっと、それ以上は近づくな」
さもなければこの命はすぐに事切れる。アレンは身動きが取れなくなった。
「なにが望みだ」
「そうだ。そうこなくちゃ」
男を囲む刃はぴたりと止まったまま動かない。今はこの男の要求を受けるほかはない。誰もがそう認めたその時。
「父上は、あなたの苦悩をわかっていた」
俄かに沸いて出た言葉に誰もが目を見張った。
「リディア、喋るな」
喉元が動いて刃に食い込み、血が更に滲み出す。愛しい人が自身を呼ぶ声に、彼女はふわりと花を咲かせた。その美笑に声を封じられたアレンは、込められた思いを感じ取り、奥歯を噛み締めた。
「死の間際まで、悔いていました。あなたが闇に吞み込まれるのをただ見ていることしかできなかったと」
剣を持つ手元が僅かに震え、その綻びが見えた。予期しない場所から現れた言葉の刃が、男の喉元を捉えていた。
「な、にを…。なにを突然!」
「やめろっ!」
「心からあなたを愛していたのよ!」
一陣の風がその者の魂を俄かに吸い取った。振り上げられた腕がぴたりと止まり、零れ落ちた剣が甲高い音を叩いて地面に落ちた。
季節外れの春空がその瞳いっぱいに広がる。深い愛を湛えて、己を見ていた。たちまちその懐に抱かれて、男はそのぬくもりに目を閉じた。そしてちっぽけな男の姿をまざまざと見せつけられた。最後まで、認めることができなかった己の弱さを。叔父は、憎しみの裏側で、兄への憧憬を捨てきれなかった。
本当は、そんな世迷言などさっさと捨ててしまえばよかった。己の矜持が邪魔をして、それを遮ってしまった。それが苦しくて苦しくて、憎しみに転嫁させてしまった。兄と同じくらい、それ以上に愛していた。本当はすべてわかっていた。
「があっ」
肺に穴が空いたように息ができない。喉を抑えて悶え苦しむ。吐しゃ物をまき散らし、えずく。それはほとんど液体だけで、酒の臭気だけが漂う。
「叔父様っ!」
姪が駆け寄ってその背中に手を添えた。叔父はその顔を仰ぎ見た。兄と同じ瞳をして涙をいっぱいに溜めている。
彼は苦悶に歪む口元をかろうじて緩めた。弱弱しく伸びた手が彼女の手に触れようとした。刹那、空を切って地に落ちた。その白い肌に彼の手が重なることはなかった。
暗転しても光が訪れることは二度となかった。突如現れた漆黒の世界。あがいてもあがいても、沼地のようで抜け出せない。そのうちに、足元より伸びる腕に捕まった。赤黒く、無数の手指が身体を覆っていく。彼の瞳は絶望に染まり、ゆっくりと深淵に堕ちていった。それはとこしえに続く闇だった。
事切れたその体に、彼女が倒れ込む寸前でアレンは抱き留めた。すでに意識混濁の状態にあった。手早く首元を布で縛った。僅かに朱色が滲んだが幸い傷口は浅く、ほどなくして落ち着いた。アレンは大きく息を吐いた。腕の中に納まる彼女を再び強く抱きしめた。
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