第35話 消せない想い

 夜瞑家は、近代的な鉄筋造りの家だ。


 一見するとコンクリートが剥き出しの殺風景な造りに見えるが、よく目を凝らすと細部にまで精巧な作りであることがわかる。


 「お邪魔します」

 「アマチュア時代はね、私のアトリエもここだったんだ」


 扉を潜ると、壁側に階段が回転するように続いている。


 中央部分は吹き抜けとなっており、天井付近には観葉植物がつるされている。


 「奏は二階だよ」 

 「……わかりました」

 「朝来怜音くん」


 階段を昇ろうとする俺に対し、湊さんは手を振り、


 「グッドラック」


 そう呟いた。


  時はほんの少し遡る。


 奏の部屋、彼女はベッドの上で三角座りで角に丸まっていた。


 最近はこうやって、丸くなることは多かった。


 だけど、今日ばかりはいつものそれと、違う。


 心がとんでもなく痛くて、張り裂けそうで…………。


 「どうして……どうして――」


 先程からこの言葉の連続だ。


 嫌い。


 嫌いだ。


 自分が大嫌いだ。


 少しでもでしゃばろうと思ったのが、そもそもの間違いだった。


 分不相応だったのだ。


 凡人にも満たない人間である自分が――ミスコンなどと。


 調子づいていた。


 実際、自分は何もしていなかった。


 ただ、助けてもらっていたばかりで、自分一人では何もできていない、何も為せていない。


 脆弱だ、余りにも貧弱だ。


 それでよく恋などと、葵や天音と張り合おうなどと思ったものだ。


 幸運が続き、忘れかけていた過去のトラウマが、これでもかと嘲笑う。



 「朝来さんに……遂に見捨てられてしまいましたね」


 あの場では守ってくれた彼に対し、感謝すべきだった。


 何故、声を荒げてしまった。


 自分はなにも苦しんでいなかったではないか。


 嫌がらせの苦痛を背負ったのは紛れもなく彼だ。


 「あの時と、同じ」


 小学校の時、湊が自分を助けてくれたこと。


 あの時だってそうだった。


 結果的に、虐めから解放されることとなったが、自分は何もしていなかった。


 その苦しみのすべてを湊が背負ったのだ。その果て、反撃を湊だけが受けることとなった。


 「奏を責めてくださいよ、なんで……なんで大切な人にばかり、不幸な目に……」


 手には、怜音とのプリクラが優しく包まれていた。



 それは彼女の、今の矛盾そのものだった。


 奏は朝来怜音との接触をこれ以上避けるべきだと考えている。


 自分がいる限り、彼はまた自身を盾にし続けるのだから……離れていれば、怜音は無事でいられる。


 しかし、それは怜音との思い出を放棄することに他ならない。


 思い出を保ち続けながら離れるなんて、奏には不可能なのだから。


 思い出を捨てる真似なんてできやしない。もっと、もっとたくさんの思い出を作りたいのだ。


 「誰か……奏を、許さないで――」


 膝を抱えながら、膝に爪を食い込ませていたからか……止め処なく血が流れる。


 なくなりたかった。


 自分さえ彼の前に姿を現さなければ、きっと怜音は幸せな青春を辿れていた。


 葵も、天音も強い人だ。きっと、彼を導いてくれただろう。


 「奏を叱って――奏を拒絶して――奏を……」


 ぐちゃぐちゃになった顔を元に戻すことができない。 


 いっそ時間を戻すことができたのならば、彼の元から消えてなくなれるかもしれない。


 そう、そうすれば――。


 「……できないよ」 


 できなかった。


 「いなくなれるわけがないよ、だって……好きなんだもん。もっと話したいし、もっと遊びたいし、もっと思い出を作りたいし、もっと……もっと……」


 時間を百回、千回も遡行しようとも、間違いなく出会っただろう。そして絶対に――恋をする。


 「忘れるなんてできないですよ、会いたい、会いたいですっ……」


 もうそんな段階まで、奏は堕ちてしまっているのだ。



 そのとき、玄関の扉が開く。


 「……湊姉様が帰ってきたようですね」


 顔を洗おう。


 そう考え、奏は自室を出た。


 「え」

 「え」


 扉を開けると、そこには階段を昇ってきていた怜音の姿があった。

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