第32話 奏の地雷
「俺は追いかける。すまないがサイン会は――」
「無論だっ! これは貴様にしかできんことだからな!」
俺はそう告げると、教室を飛び出す。
既に奏ちゃんの姿はない。彼女は……いったいどこに行った?
考えろ、思考を止めずに、身体を動かし続けないと――手遅れになってしまう。
歩みを止めてしまえば、後悔してしまう。
ここまで手に入れてきた数々の思い出が、悲しいものへと変わってしまう。
走り、家も近くなった頃。
彼女の心象を反映させたかのように……激しい雨が俺の上に降り注ぐ。
「美嘉っ!」
自宅の玄関に立ち、美嘉を呼ぶ。
「にーやん、おかえ……うわっ、ずぶ濡れじゃん。どしたん?」
「はぁっ、はぁっ…………」
息が切れる。
運動不足がこういうところで影響するとは。
「奏ちゃん来てないよな!? 連絡も!」
「え、うん。何もないけど……」
「わかったっ!」
「ちょ、にーやん、傘忘れ……」
言葉を最後まで聞かずに外へと飛び出した。
奏ちゃんが一番に向かうと場所して考えられるのは、彼女の自宅だ。
だとすると、手詰まりだ。
作戦会議は今までずっと学園だったし、写真や動画撮影だって――。
「待てよ……!」
写真などはどこで撮影してした?
あれは、そう……湊さんの撮影所!
「一か八かだ」
俺と奏ちゃんを結ぶ唯一の場所は、撮影所くらいだろう。
そこに奏ちゃんがいる可能性に賭けるしかない。
奏ちゃんは誰よりも湊さんに大きな憧れを抱いている。 彼女の元へ向かっても……おかしくはない。
そう言い聞かせながら、俺は進路を変えた。
「っ……」
昼飯後に走っている為か、脇腹に鋭い痛みが集中する。
吐き気をぐっと堪え、撮影所の入り口を開く。
「奏ちゃん!」
名を叫ぶ。
が、そこにはデスクで作業中の湊さんの姿しかなかった。
「どうしたんだい、ポエマー君……いいや、朝来怜音君」
彼女は珍しく俺の名前を呼ぶ。
ということは飛び込んできた俺の様子を見て、真剣な話であることを悟ったのだろう。
「奏ちゃんは、ここに来ていませんか?」
「いいや、来ていないね。この時間はまだサイン会だと思っていたけれど……状況は変わったようだね」
俺が静かにうなずくと、湊さんはかけられていた上着を羽織りだす。
「ついてきたまえ」
「どこに?」
「あの子は何かあった時、絶対に家に逃げ込むのだよ」
湊さんがスポーツカーを駆る。
彼女から受け取ったタオルで顔を拭き終わったころに、湊さんは静かな口調で訊ねた。
「一体なにがあったのだね?」
「それは――」
天音が責任を取って辞退しようとしていること。
受けていた俺への嫌がらせが奏ちゃんに露見してしまったこと。
そして、奏ちゃんが泣いてしまっていたこと……それら一切合切を、隠すことなく明かした。
「……勝負直前にとんだ大番狂わせ。流石、華乃宮の血を引く者だ。なかなかの頑固者だ」
「…………」
「キミにケガはないかい?」
「はい、特には」
「それはよかった。対等な協力関係とは言ったが、怪我されると申し訳が立たなくなる」
沈黙が流れる。
「俺を責めないんですか? 奏ちゃんを傷つけた」
「キミを責めることはしないよ」
「何故ですか?」
「よかれと思っていたんだろう。そこに悪意がないのなら、キミを責めることはない」
叱責されると踏んでいたため、少し驚いている。
「それに、青春とはね……そういうすれ違いだ。喧嘩もない、不満もない関係性はあまりにも不健全だ」
「えっと……」
「ただ、たまたま、キミは奏の地雷を踏み抜いてしまっただけさ」
地雷、という言葉に杭のように心の奥底に突き刺さる。
葵にも、天音にも精神面的な地雷があった。
それを踏み抜いてしまったら、バッドエンドに直結するように……関係性さえも変えかねない重大な心の鎖だ。
「奏はね、他の子と違って仮に地雷を踏まれても、踏んだ人には決して怒らない。不思議かもしれないけど、そういう子なんだ。どんな理不尽な扱いを受けても、その全てを自分の駄目なところと信じ切って、自分を責める」
「……そんな」
だけど、それはわかる。
彼女は最後まで俺を責めなかった。
それが……とても苦しかった。
「だけどそれは、裏を返せば普通の人とは違って、まだ挽回の余地があるということにもなる」
「!」
「至難の道だ。今や奏の心は爆風に巻き込まれ、精神は満身創痍……いや、既に瓦解していると言ってもいいかもしれない。他でもない、キミが犠牲になったからね」
ルームミラー越しに湊さんは俺の表情を伺う。
「あの子の恋を応援した。まさかここまでだったとは、本当に予想外だ。キミは心から奏を愛しているんだね」
「……返す言葉もありません」
「だからこそ、まだやりようはあるよ。だってキミはまだ奏のことを諦めていない」
湊さんは、車両を見晴らしが比較的良い場所に停車する。
「湊さん?」
「さて、少し話題を変えよう。ちょっと長くなるけど、聞いておくれよ。そのうえで、もう一度キミにどこへ向かうか聞こう」
◇
それは、奏が今の奏となる前の話なんだ、と湊はタバコ――に見せかけたココアシガレッツを加えながら語り始める。
「小学校の頃、奏はいじめを受けていた」
理由なんて些細なものであった。
内向的であったから、ただそれだけ。
高校にもなればそれもまた個性として、露骨にいじめを受けることは少なくなるが、小学校くらいではわかりやすい標的となりやすい。
物を隠され、壊され、同級生にからかわれる。
最初は静かな奏をいじる程度に留まっていたが、彼女の性格から抵抗することはできなかった。
いじめにおいて無抵抗な態度は……加速させるのに十分な燃料となる。
「それで高学年になるくらい、奏は心を閉ざして引き籠った」
彼女の父も母も、外資系企業の一員として、家を不在なことの方が殆どだった。
だから当然、彼女のいじめのことなんて知らないし、恐らく成長にも気づかないだろう。
湊と奏だけだった。
「小学生がやる虐めなんて稚拙なものだよ。調べればすぐに裏がつく」
「で、私は証拠を集めてさっさと小学校へ乗り込んだ」
「当然、相手方……関係者の親を全員一か所の部屋に連れ込んだよ」
どうしたのか、という怜音の問いに、湊は静かに笑う。
「完膚なきまでに叩き潰した。ああ、暴力ではないよ。証拠を突きつけて反論ができないくらいに、黙らせてやった」
「それだけじゃない。窓を換気のためと窓を開けておいたんだ。呼びだした時間はちょうど、おしゃべりな用務員さんが通るらしいからね」
「そしたらね、あっという間に情報は拡散したよ。そうなればいじめが継続されるわけもなく、加害者一家は皆、知らない場所に引っ越した」
それで奏は困難を脱したかと思った。
「いやいや、いい勉強になった。人は追い込まれると、自棄になるものだということにね」
匿名で、湊に関する全くの虚偽であるスキャンダルが密告されたのだ。
密告者は別に、自分がやられた時のように情報収集を念入りに行ったわけではない。裏付けも皆無な、単なるデマだ。
「反社勢力との癒着、有名芸能人の愛人だとか……よくもまぁ、好き勝手デマを流せるものだ」
だけど、効果はそれだけで
それほどに彼女の名前は世に知られているのだから。
「無論、私にとって何のダメージにならない。仕事で証明すればいいから、かすり傷にならなかったけれど……奏は違った」
◇
「……同じですね、俺の時と。俺一人が犠牲になれば無事に終えられると思っていた」
「そういうことだ。あの子はね、キミや私が考える以上に繊細な子なんだ」
その話を聞いて、自分と状況が湊さんと一緒だったことに気付く。
「結論を言うとね、あの子は自分のせいで他人が害されることは極端に嫌っている。嫌い、というよりか恐怖している……と思った方がいいだろう」
「だから、俺が親衛隊にやられたことに対して……」
「誰でもない自分が許せなくなった」
「…………」
言葉も出なかった。
最推しだと謳っておいて、このザマなのだ。
こんなの、俺のエゴを押し付けていただけなのではないか――そう口にすると、湊さんは否定する。
「塞ぎ込んでしまうくらいに、奏にとってはキミが大切になったんだ。血のつながった私と同じか、それ以上にね」
「…………」
「他人であれば、多少は傷つくだろうけどこうはならない。キミは誇るべきだ、それほど奏に好かれている」
「………………」
「これこそキミが望んでいる告白への答えになるんだろうけれど、喜べる状況じゃないか」
彼女はココアシガレッツを食べ終え、運転席に戻る。
「私から開示できる情報は以上だ。それでもう一度聞こう」
助手席の扉を自動的に開き、俺を椅子へ招く。
「キミはどうする?」
俺は、改めて考える。
今の状態で、奏ちゃんのいる部屋へ向かっても駄目だ。解決しない。
彼女の怒りや悲しみは、俺が犠牲になったこと、そしてその結果俺の交友関係がぎこちなくなってしまったこと。
それを解消し、元の状態へ戻さないと……奏ちゃんは自分を責め続ける。
人は一度心が落ち込むと、際限なく、底なし沼に足を踏み込んだように沈んでいく。
そう、帰れる場所だ。
奏ちゃんの心の殻を十分に壊しうる魅力のある場所――葵や天音が対等に争いつづけている場――に連れ戻さないといけない。
そう考えると、現在、行く場所は一つだ。
「行先は変更できますか?」
「構わないよ。それで、一体どこへ?」
「――天音、華乃宮一族の本家へ」
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