海とジュースとおっさんと

るつぺる

そんなん当たり前じゃん

 神原と二人で海を見に行った帰り道。辺りはもう夕暮れ時で、俺が漕ぐ自転車の後ろで神原は半分眠ってた。不意に妙な方向に体重がかかって、俺が危ないだろって声をかけると神原は「うん」と気のない返事をした。また明日ね、その声が今も忘れられない。神原の明日は来なかった。


 臙脂色のマフラーはその先を風に靡かせて、自転車は走る。小学生くらいの子供が不意に目に入って急ブレーキを踏んだ。見通しの悪くない土手沿いの道で砂埃が立った。

「ごめんな 大丈夫か?」

 心ここに在らず。ずっとそんな日がここ何年も続いている。神原が亡くなった日からずっと。

 三年前、俺はまだ中学生だった。神原とは保育園からの幼馴染で、兄弟姉妹のいない俺にとっては歳の近い一番身近な存在だった。中学に上がってからもそういう距離感で、姉とも妹とも言えないが家族みたいで、けれど神原に会えないとわかった日、俺は神原が好きだったんだとわかった。どうしようもないほど涙が出てどうにかなりそうだった。神原の親父さんとおふくろさんの悲痛な顔を見ていられなかった。なぜあの日、家の前まで送ってやらなかったんだろう。神原は俺と別れてからの帰り道で通り魔に襲われた。頭を鈍器で殴られて、それでもしばらくは生きていたみたいで、けれど誰も神原には気づいてやれなかった。翌朝になって新聞配達員が道端に倒れている神原を見つけた。神原を迎えにきたのは助けるための救急車じゃなかった。


「立てるか?」

「うん」

「ひとりか?」

「そう」

「暗くなるまでに帰れよ お母さん心配するから」

「うん」


 俺はとある場所に向かっていた。噂話を信じたわけじゃない。でも可能性があるなら試してみたかった。俺はやっぱりもう一度神原に会いたいから。


ドンドンドンドン

「すみません」

ドンドンドンドン

「いらっしゃいますか? すみません!」

ドンドンドンドン

ドンドンドンドン

ドンドンドンドンドンドンドンドン

「るっせえな! 金ならねえよ!」

 扉の向こうから返事。居るなら出ろよ。

「開けてください! ちょっと聞きたいことがあるんです!」

「帰れ! 忙しいんだよ!」

「お願いします! 怪しいもんじゃないです! お金のこととかじゃないんです」

「だったら尚更かえれ! 警察呼ぶぞ!」

「お願いします! 少しでいいんです!」

「うるせーな! ぶっ殺されてえのか!」

「……殺されたんです 大事な 友達が」

 開いた扉の隙間から髭面で目つきの悪いおっさんが覗いていた。


「くっせ……」

「おい 今臭えっていったか?」

「いえ、そんなことより すみません 押しかけちゃって」

「なんなのお前 俺はお前みたいなガキ知らんのだけど ダチが殺された? だから何?」

「友達に聞きました。この辺に霊の声が聞けるって変ジ……人がいるって」

「それが俺ってワケ? お前もそいつも頭おかしいんじゃねえの? 死んだやつの声なんて聞けるわけねえだろ」

「ですよね けど俺 もしそれが本当なら会いたい人がいて さっき言った友達のことなんですけど 俺 ずっと後悔してて 俺がそばにいてやれば 神原は死ななくてもよかったんじゃないかって」

「そのカンバラってやつの声が聞けたとしてどうするつもりなんだ」

「復讐   してやりたい」

「そうか わかった すぐに出てけ 噂は噂だ 俺は借金取りに追われてるどうしようもないオヤジでろくでなしのカスってわけ わかったら帰れ」

夜城やじょうさん お願いします 俺はもうあんただけが頼みなんだ! 頼むよ! 俺は 俺は」

「聞き分けのねえガキがイキがってんじゃねえよ いいか よく聞け 死んだ人間は帰っちゃこねえ 復讐? お前はお前の気を晴らしたいだけだろ! カンバラが頼んだのかよ 違うだろ! お前は自分の不甲斐なさ噛みしめて生きてくんだよ そいつがどんなに惨めでも かっこ悪くみえても それが現実だ」

 夜城の言うことはもっともだった。神原はもういない。たとえ神原の声が聞けたとしても、もう一緒に海を見に行ったり、明日を迎えたりは出来ない。そんなことはわかっていた。心の収まりがつかず、三年経っても捕まらない犯人のことを殺してやりたいと思ったのも俺のひとりよがりな感情だ。そんなこと、わかっていた。


「死者の声が聞ける方法 ないわけじゃない」

「へ? 今なんて!」

「だから ないわけじゃない だが成功する確率は低い 極めてだ」

「どうやるんだよ! 教えてくれ!」

「近寄んな鬱陶しい! 俺は確かにずっと降霊や口寄せみたいなものを研究してきた。いろんな方法を試したよ。周りは馬鹿にした。そりゃあそうだろうな。俺だって未だに半信半疑だ。だが」

 夜城は少し言葉に詰まった。遠くにやった視線が俺の方に戻って俺を見ていると昔の自分を思い出すと言った。それから夜城は押し入れを漁って妙な道具を引っ張り出し、それらを畳の上に広げて俺に説明した。その道具を幾つか試してみたが、正直なところ子供騙しにしか思えず、無論、神原が現れるなんてことには至らなかった。

「死者を寄せる最大の方法は、そいつとこの世のヨスガだ。具体的に言えば、生きていた頃の思い出がその時の空気やなんやかんやの条件をクリアしてピッタリ合致した時、そこにないはずのものが現れる。だが当然まるっきり同じ日なんてものはないからこれが難しいんだ。これが俺が重ねた研究の成果。霊を呼ぶには過去を再現しなきゃいけないってワケ。いいか よく考えろ お前とカンバラの共通の思い出だ 時間と天候もはっきり思い出せ じゃなきゃこの話はなかったことになる」

「んなこと言われても」


 俺は家に戻ってひたすら考えた。思い出なんて、ありすぎる。神原とは誰よりも近くで過ごしてきた。だけど神原がどう思ってたかなんてわからない。神原が何をどう感じてたかなんて何もわからなかった。思い出せる目ぼしいものは全部紙に書き出した。海に行きたいなんて言った神原を自転車の後ろに乗せて、金もないから電車なんて使わずに汗だくになって見に行ったこと。家族同士で行った動物園、よく通った喫茶店、夏祭り、忘れた教科書を借りたこと。どれだ。どれなんだよ。全然わからない。その時って何時だ。晴れか。雨か。思い出そうとすればするほど記憶は遠ざかった。待ってくれ。行かないでくれ。夢に神原が出てくるのが辛かった。確かに俺はそれを神原だと感じて、でもその神原は何も話さずただ笑っていて、俺には何も教えてくれなかった。


 俺は夜城に思い出せるだけ書いたノートを見せた。それを一つずつ潰していくことにした。時間や天候がわからないものは条件を変えて繰り返し試す。途方もない作業だった。正解があるのかないのかもわからないことに夜城は付き合ってくれた。

「なんか すみません」

「あ? 構わねえよ どうせ家にいたって金貸しにせびられるだけだ 逃げるついでの暇つぶしだ」

「缶コーヒーでいいすか」

「ああ こっちこそ気ぃ使わせてんなお前みたいな一回りも違う子供によ 情けねえ」

「バイトやってるから気にしないでください。大したことはできないですけど。前から気になってたんですけど」

「なんだ?」

「夜城さんってなんでその 研究し始めたんですか」

「気まぐれ」

「写真立て 倒してあったやつ見ちゃいました もしかして」

「お前ねえ 人の過去にはズカズカ踏み込むもんじゃないよ」

「ごめんなさい 綺麗な人だなって 夜城さんとは その 似合ってないなって」

「デリカシーもないんか こりゃカンバラも相当世話焼いたんだろうな……まあ 気が向いたら教えてやるよ 向かないけどな」

 夜城は砂漠で水を得たような勢いでコーヒーを飲み干した。その日、夜城とふたりで閉園時間まで動物園でシマウマを眺めたが神原は現れなかった。



「意味わかんねえ さすがに意味わかんねえ」

「ですよね すんません」

 夏が来た。俺はおっさんと二人で祭りの屋台通りを回って花火を見た。何をやってるんだ。夜城に相談し始めて四ヶ月、いい加減馬鹿らしくなってきたがそれでも俺は諦めがつかなかった。空いた時間は大体夜城と一緒だった。お袋の知り合いが俺と夜城がスーパーの前で並んでソフトクリームなめてるのを見かけたらしく、それとなしにたしなめられた。本当にこんなことを続けていて神原と会える日なんて来るのだろうか。俺はすっかり後ろ向きになっていた。

「佐々木」

「俺ですか? 蜂谷です 何回間違えるんですか」

「前にお前が言ってた俺の動機」

「え ああ」

「写真立ての女、美人だったろ」

「まあ たしかに」

「妹なんだ」

「ぜっん然似てないっすね」

「バカヤロウ 俺だって身なり整えりゃそれなりに美男子なんだぜ」

「で 妹さんは その つまり」

「癌だった 見っかった時はもう末期でさ 親は早くに亡くしちまってたから身寄りなんて俺らお互い二人しかいなかったのにそんな俺から妹まで奪うのかーッて 神様なんていないと思ったね」

「そうだったんですね」

「まあ 俺の中でわりきりはついてる。研究だなんて大層な言い方したが借金してまで没頭するようなもんじゃなかったって アイツもきっと笑ってるよ」

「妹さんには会えたんですか?」

「ん? いんや どれも成功しなかった」

「ちょっと待ってくださいよ! じゃあ俺らが今やってることって!」

「無駄かもな 成功例がない」

「ふざけんなよ! じゃああんたガキにたかってるだけじゃねえか!」

「そうなるな」

「なんだょ 信じてたのに 今まで なんだったんだよ」

「……すまねえ お前が必死だった頃の俺とダブってた もしかしたらいけんじゃねえかと思った 悪気はなかったんだ」

「最低だよ もう 今日で終わりにしましょう いい勉強になりました!」

 俺はそのまま夜城を置いて帰った。悔しかった。夜城が俺を騙してたことじゃない。馬鹿みたいに信じてやってきた自分と、もう神原には会えないという事実が。それから夜城とは会わなくなってまた冬が来た。


 ただ寂しかった日常がずっと過ぎた。以前の生活に戻っただけと言えばそうだ。夜城といた所為で受験勉強なんてまったくしてこなかった俺は担任から進路について早く決めるよう釘を刺された。別にどうでもよかった。空虚な毎日がこのまま続くなら別に、いっそのこと、なんて思ったりもした。久しぶりにまともに机に向かってみたりもするが何をどうやるんだっけか。棚に手を伸ばすと本と一緒に一冊ノートが落ちた。神原との思い出を書き出したノートだ。チェックマークをしてあるのは夜城と試したやつか。思い出してみるとムカついてきた。幾つかはノーマークで流石に「喫茶店でオレンジジュース一杯にストロー二本さして飲んだ」なんてのをあんなオヤジと試す気にはならずチェックが入っていない。俺ってなんかデートっぽいことやってたんだな。こんなの殆ど付き合ってるのと一緒じゃないのか。まさかね。


 やっぱオレンジジュースが一番おいしいねッ


 氷が少し溶けてコップに当たってカツンと音がする。確かに聞こえた気がする。神原の声が。


「もしもし! もしもし! 夜城さんすか! よかった 携帯止まってなくて」

「ああ 村田? 久しぶりだな もう連絡してこないと思ってたわ」

「明日 付き合ってください!」

「あ 何? 急に」


 久しぶりに会った夜城は見違えていた。髭も剃ってスーツで身を固め立派な社会人という感じだ。はじめは誰か分からなかった。

「俺、今日も仕事なんだよ まあ 悪りぃことしたなって思うから 来たけど なんなの用事って」

「俺と一緒にオレンジジュース飲んでください!」

「はあ?」


 ポプラ。神原とよく来た喫茶店。随分久しぶりだった。いろいろ思い出すから避けてきた。

「あらあ蜂谷くんじゃない 久しぶりねえ えっと そちらは?」

「なんか 保険の人! おばちゃんオレンジジュース 一つ!」


 緊張してきた。変な感じだ。

「おい マジでやんのか?」

「これで無理だったら詐欺で訴えます」

「はあ……わかったよ」

 オレンジジュースの注がれたコップが一つ。ストローはもちろん二本。俺だってアンタじゃなきゃ、神原だったらどんなにいいかって思ってんだ。

「じゃあ、いきますよ」

「お おう」

「せーの」

 めちゃくちゃ恥ずかしい。幸い客は俺らだけだ。まあ おばちゃんは しかたない なんとかなれ 頼む。目の前の橙色がみるみる褪せていく。男ふたりの吸引力だ。勝負は一瞬。確かあの日も今日みたいに快晴だったよな。


 カツン……


 ジュースは飲み干された。バカバカしい。そりゃあそうだろうな。蜂谷。お前ってホント馬鹿。


「やっぱオレンジジュースが一番だね」

 

 へ


「どうしたの? 変な顔」

 

 ウソだろ


「なんか付いてる? ちょっと待って、アレ?どこ入れたっけな」

「神原 なのか」

「何? なんか変だよ今日の蜂谷」

「神原 なんだな か クッ 俺 ゴメ なんだこれ だめだ 止ま」

「え待って! ちょっと 大丈夫? 体調悪いの?」

「神原 ッグ エッと なんだっけ アレ 聞かなきゃ あの 神原 神原さ」

「もう 何? 変すぎる 帰る?」

「待って ごめん 違う あのさ 俺 えっと 神原と 海行った帰り」

「蜂谷〜 海なんて誰と行ったの? って彼女みたいに聞いたりして〜 アハハ」

 そっか そうなんだ ここで二人でジュース飲んだの 海に行く前なんだ 

「あ 思い出した! あちゃー忘れてたわ! ゴメン あたし今日あんま時間ないんだよね ホントごめん! 埋め合わせはまたするから」

「待って!」

 慌てて立ち上がった神原を引き止めた。ずっと続いてほしいと思った。終わらないでくれと思った。俺は今 神原に何を伝えればいい。

「ごめん! マジで行かなきゃ!」

「その 俺」

 ダメだ。しっかりしろ。

「神原 俺」

 頼む。言葉になってくれ。

「もう行くよ!?」

「ありがとう」

「え?」

「また会ってくれて ありがとう」

 神原は何言ってんだって不思議そうに笑った。

「そんなん当たり前じゃん」


 

 あれからしばらくが過ぎた。夜城とはたまに会う。俺が神原に会えたことを話したら喜んでくれた夜城のために妹さんのことを手伝いたいと話したけれど夜城は「もう大丈夫だ」と断った。俺が初めに考えていた、また神原に会えたら話したいこと聞きたいことなんてどれも伝えられなかった。あの日あの瞬間、確かに神原は生きていて笑っていた。その神原を前にして残酷な現実の話なんて持ち出せなかった。神原の身に起きた事は俺には何もわからない。ただ夜城が言うように神原とはもう同じ時間を過ごすことは出来ず、たとえどんなに辛かろうが生きていくしかないということを以前より理解できた気がした。


「蜂谷、進路決まったのか?」

「決まりました」

「そうかそうか で どうするんだ」

「料理とか勉強して、んで喫茶店継ぎます」

「は?」

「おばちゃんには約束もらってますんで」


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