Episode 04:鬼の居ぬ間に
マーケットで彼女を数時間連れて歩いただけだというのに、身体の消耗は凄まじかった。シンシアが部屋へ戻った後、巻き毛の受付係の揶揄も中頃に、アレクセイも自室へと戻って休んでいた。
休むとは言っても頭は休んでくれず、ただただ無為な時間を過ごしている。
とっぷりと日も暮れて、部屋の蒸気式ラジエータが本格的に動き出す頃になって、けたたましく電話の呼び鈴が鳴り響いた。
「ちょっとちょっと、黙ってるだなんて水臭くないか?」
興奮冷めやらぬ様子の声が聞こえる。イリスだった。
「……どうした、落ち着いて話せよ」
「見たぜ、今日の昼。お前、女の子連れて歩いてたでしょう。ついでに言うと、ご近所じゃ噂になってたぜ。一体どういう風の吹き回しだよ」
受話器の向こうの声は嬉々としている。
予想の範疇ではあったが、実際に問い詰められてみると想像の数倍は面倒なものだった。
「こっちの事情だ。今更だからお前には話しておくが、シークレストからの宿泊客でな。紅眼の女がひとり、……想像がつくだろう」
すべてを言葉に直して説明するのを横着して、アレクセイは言葉を搔い摘む。
驚きのあまり声にならない、というような絶句の間がしばらく。何のことはない、足を組み替えて返事を待った。
「……正気か? あれだけ紅眼とは関わらないようにしていたお前が、どうして。シークレスト出身だから? どう違うんだ?」
「何も知らない箱入りだからだ。客を追い返すことはできんから、できることをしているだけの話だ。言わなくてもわかるだろうが、紅眼の話は内密にしてくれ」
先程とは一転して声を落としたイリスは、理解し難いといったように唸る。
彼はその昔、紅眼絡みでひと悶着があったらしく、それ以来すべてに対するという訳ではないだろうが紅眼に対して一層の警戒心を持ち合わせていた。
詳しく語られたことのないその話だが、一般概論とすればやはり紅眼に対する目の厳しさは現実問題である。
「そういうことなら、万が一だな。……オレの行きつけの店、アレクがいっとう嫌ってるあの店。今日もちょっと寄って来たんだけどさ、珍しくもないはずの紅眼の話でユーリィが沸いてた。マーケットでナンパしたんだ、って」
広場を抜け、テルミヤ河を渡った先には水商売が盛んなダウンタウンがある。そこへ、イリスの行きつけの酒場があるという話は以前から聞いていた。下流層娯楽の場とされていて、アレクセイにとっては水蓮市に次いで立ち寄ることのない界隈だった。
身に覚えしかないイリスの言葉に、アレクセイは眉間に皺を刻む。
「あのロクな噂を聞かん店の男か。……最悪だな」
「言いたくはないけど、手が早いから。早々に手は打っといていいと思うよ。悪い男じゃないんだけど、それは同性から見た基準でしかないからなあ……」
「ご忠告、ありがたく貰い受けるよ」
受話器を置いたアレクセイは、乱れた服と髪を直してまっすぐにシンシアの部屋へと向かった。イリスには後日、礼をしなければならんな、と考えて。
ドアベルを鳴らした後、ノックを三回。扉は、開かれる。
「はい、どなた……あら」
「今日会った男が居ただろう。……絶対に会うな、何があっても」
開口一番、眉を寄せて凄むアレクセイに、シンシアは目を瞬いた。
バスローブに三つ編みを解いてうねる髪が濡れている。湯上がりだ。
「それは、お仕事として?」
薄く微笑う彼女は、ドアノブから手を離さない。
「どちらでもいい、会わないでくれ」
トン、と間を置かず勢いのままにアレクセイは伝えた。
嫌な役割だった。口にすることで彼女には余計に印象を悪くすることだろう。それでも、そんなことに構っていられるほど事態は易くない、そう考えた上での決意だった。
シンシアは、曖昧に笑ってみせ、ゆっくりと扉を閉じた。
やんわりとした拒絶のように見えた。
シンシア・ハッセ滞在六日目の朝。カフェテラスで彼女の姿が見えるのを待っていたアレクセイは、壁の時計を一瞥して立ち上がる。
いつもの時刻をもう一時間も過ぎていた。あまりに遅すぎる。
フロントへ立ち寄れば、あの口のよく回る巻き毛・ジョシュが居る。歩み寄る間にあっと顔色を変えた彼は、アレクセイが台帳を捲る傍で耳打ちした。
「昨晩、出てったきりなんですよ、彼女」
「何だって……、冗談だろう?」
紙を捲る指が止まる。血の気が引く音が聞こえてきそうだった。
ジョシュも隣で不安そうに表情を曇らせている。
「夜勤は彼女がボックスでどこかへ電話しているのを見たそうです。出て行ったのはその後らしいんですが……」
「行き先は? 控えろと行ったはずだろう」
意識するまでもなく語調は剣呑とする。怒鳴りつけてデスクを叩いたアレクセイは、そうして初めて自分の苛立ちの大きさに気づいて我に返った。眉間を抑える。
「無理ですよ、流石に彼女が自発的に話さないことを聞き出すのは。自分みたいにナンパがてらの軽口ができるようなヤツ、普通じゃないですし。……心当たりないんですか」
当然だった。そもそもが充分に過干渉的で、逸脱行為だったのだから。その自覚はあった。やりようがない。ため息を吐くと、それはジョシュにも伝播した。
「ないこともないが、ここらで手打ちかも知れん。見て見ぬ振りするべきだったな、最初から」
「そんなことありますか? でも、ほらやっぱり、本当に水蓮の飼い猫ちゃんだったのかも。今頃、ご主人と一緒だとか」
「もう、遅い。……出掛けてくる。明日から業務に戻ることにするよ」
ジョシュの想定に、そうであったらいいのに、とアレクセイは心の底から同意した。こんな中途半端な思いをするぐらいならば、関わらず好きにさせてやればよかった。油断すればぽろりと口から零れてしまいそうで、足早にホテルを出た。弱音を人前で零すのは性に合わない。
今日はいやに冷える。腕に抱えていた外套を羽織り、広場をダウンタウンへと続く道に沿って歩いた。
雪月祭やマーケット、祭りの後の広場周りはより広く感じる。見慣れた風景であるのに、その感覚だけは褪せない。平日の午前、広場を行き交う人の姿は少なく、吹き抜ける風の冷たさに襟を立てた。
昨晩イリスの口からも聞けた件の男・ユーリィの噂は、主に母親をはじめとした周囲から得たものだ。紅眼の水商売相手に商いをしているらしく、店の位置も相まって紅眼の客やそれを目当てにした品性の悪い客層のための店。関わるな、とは父親にも一度だけ強く忠告を受けていた。そもそも、関わるだけの理由がなかったわけだが。
その酒場の名は、ミルキィウェイ。
紅眼に対して警戒するようになったはずのイリスが、何故今も足繫くそこへ通っているのか。その理由は、定かではない。
テルミヤ河に差し掛かるところでアレクセイは足を止める。
「……あれか」
立ち並ぶ雑踏の低層ビル群のひとつ、地階のカフェの隣へ地下へ下る階段とランタンの下、看板が遠目に見える。店の場所だけはイリスの話でよく知っていた。何せ橋を渡った先の河川沿いともなれば覚えるのに苦労はない。
アレクセイは、シンシアがあの男・ユーリィと共に居る気がしてこの場所へ赴いたのだ。が、そんなに都合よくは行きそうにない。昼に差し掛かるこの時間、店は開く様子もなく、ユーリィの居場所は知る由もない。
彼女がまっとうに扱われていることを祈る他、アレクセイにはやりようがなかった。
「俺は何をしようって言うんだ、今更。……金輪際彼女が何をしようと、俺の知るところじゃあない」
言い聞かせるように口にすると、後を追うようにため息が深く深く漏れた。
全く納得が行かないのだ。事のはじめから今に至るまで、アレクセイなりに最善を尽くしたつもりだった。昨日に至っては、自分を褒めたいほどの積極性を発揮した。すべては彼女のためだったはずだ、それなのに。そう思わずにはいられない。
「何だって一晩も経たずそんな極端な考えに走れる?」
低く呻くように呟いて、ハッとさせられた。
アレクセイは彼女に裏切られた気分でいたのだ。昨日の彼女と過ごした時間で、わだかまりは取っ払えたような気でいた。そう感じていたがふと昨晩の、彼女の曖昧な笑みを思い出す。
「……忠告が気に障ったから、か」
それにしたってしょうがないじゃないか、とアレクセイは思う訳だ。しかし彼女の立場からすればそんな内情こそが知ったことではないのも確かだろう。やはり、もう考えるだけ無駄だった。
肩を落とし、踵を返すアレクセイはまっすぐに戻る気にもなれず、寒空の下を構わず広場を遠回りに歩いた。
脳裏ではシンシアがあの男と何を談笑していたのかを考えてしまう。そんな自分を情けなく思っては、眉間の皺も深まるばかり。ようやくと吐き出したため息は熱く、濃い靄となって霧散した。
広場の時計台は一四時を回ろうとしていた。気づけば二時間近く歩き回っていた計算になる。
噴水の傍へ腰掛けたところで、アレクセイは不意に見覚えのある姿を見止め、視線で動きを追った。
路地から出て来た一組の男女は見紛うはずない、シンシアとあの男だ。何故か強い確信を持った。
ふたりは談笑ながらに歩き、彼女のホテル前で足を止める。シンシアが深々と何度も頭を下げている様子から、最悪の事態は起こらなかったのだとわかる。それは喜ぶべきだったが、一方、アレクセイの中の罪悪感をより一層募らせた。結果的に、後味の悪い思いだけが残ってしまう。
そうしているうち、シンシアは扉の向こうへ消え、ユーリィは一旦とぐるり広場を見回して元来た路地へ引き返そうと足を踏み出していた。二・三歩したところでぐるりと進路を変える。
アレクセイはその始終を目で追っていたため、足取りがこちらへ向いていることはすぐにわかった。
葬儀の後のように黒尽くめに身を包んだユーリィが、アレクセイの前に立つ。両手を外套のポケットへ突っ込んだまま、片足へ重心を置いた立ち姿は、まさしく彼の性格を表しているように思えた。斜に構えたアナキスト、そのように。
「つくづくウリンソンには紅眼が絡むな。……なあ、坊ちゃんよ」
先に口を開いたユーリィは、面白がるように言葉を吐く。馴れ馴れしい口振りに、アレクセイは反発を覚えた。この男は父母に釘を刺されるような人間なのだ、まともであるはずはない。
冷ややかな視線で返しても、彼は一向に怯む気配を見せず、堂々たる態度だ。
「連れてってやるぐらい、簡単なことだったろうに。そんなに嫌いか、あの街が。確かに、まともとは言い難いんだろうが、危うく目的を果たせずに故郷に帰らなきゃならんだったかも知れないんだぜ、あの娘」
その言葉は尤もだった。暗に、何故お前が連れて行かなかったと責められているようで、アレクセイは男の顔から視線を逸らすほかない。そんな様子にか、喉で笑う気配が見えた。
「しかし、まさか今時純正の紅眼が見られるたァ、思わなかった」
弾かれるようにアレクセイが顔を上げると、ユーリィの明らかな喜色を浮かべた、アレクセイの反応を窺う視線とかち合った。反射的に、立ち上がったアレクセイはその襟元を掴み上げる。
「妙な真似はしていないだろうな」
「答える義務もない。ナイト気取りは止すんだな、姫様泣かせておいて言えたタマかよ。……お前もウリンソンの端くれなら、もう少し考えろ」
鼻先が触れそうな距離で凄んだところで、この男には効かない。言いたい放題の声に、アレクセイは煽られるがままに右拳を持ち上げ、男の頬を殴りつけた。衝動的だった。拳には重く感触が返り、ユーリィはよろめいたが、すぐさま立ち直る。殴り返して来るかと構えたが、ポンと肩を叩かれて次の瞬間、耳元で小さく囁かれた。
「…………ッ」
その言葉はアレクセイを動けなくさせるには充分な重みがあった。
「ご馳走さま」。言葉が意図するものは、愚鈍なアレクセイでも一拍挟めば理解できる。
ユーリィは既にアレクセイをすり抜け、広場を抜けて行こうとしている。
体中の血が頭に上って行くのを感じながら、アレクセイはユーリィの姿を振り返るのが精一杯だった。
一連を目撃したらしい数人がひそひそと声を上げる様子に気づくのはその後のこと。
惨めさと罪悪感だけが重く伸し掛かった。
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