Episode 03:デーティング
「今日は何処へ行くんだ?」
シンシア・ハッセ滞在五日目の朝。アレクセイは意を決して彼女がフロントを出る前にホテル前で待ち伏せることにした。いつもの時間の三十分前倒しだった。
予定通り、彼女がホテル前の階段を降りるところで声を掛ける。声の主に驚いて二度見する彼女の足元が危うく、アレクセイはごく自然に手を差し出してそれを助けた。
「……ありがとう」
戦々恐々といった振る舞いで、まるで肉食獣を前にした草食獣じゃあないか、とアレクセイは思う。
真紅のケープを頭へ被せ、フード代わりにする素振りながらアレクセイの視線を避けているのが手に取って分かった。
「別に今日は仕事じゃない。……仕事じゃあないが、その……」
自身でも情けないぐらい、歯切れが悪い。言い出したもののそれは勢いで、アレクセイの中の台本とは既に違ってしまっていた。本来は強引にでも手を引こうと考えていたのだ。暑くもないのに、妙な汗が掌を濡らす感触がした。
「フロントの方に、今日は月に一度のマーケットの日だって。……エスコートしなくて大丈夫か、って心配されちゃいました」
「あの馬鹿……」
フロント前を通った際に案の定、不思議がって声を掛けてきたあの気後れしない巻き毛の受付係・ジョシュのことだろう。マーケットへ行く、と伝えたことが良くも悪くも彼女に余波を生んでいたらしい。
言葉巧み、口説いたであろうことを思って、ほんの少し歯噛みする。
「して、くださるんですよね?」
首を傾いで訊ねるシンシアの語尾上がりの声にアレクセイが恐る恐る視線を向けると、素直すぎる真紅の瞳とまともにぶつかる。
まるで人を疑うことのない無垢さ。後ろめたさなどなかったはずであるのに、アレクセイは全身に冷や汗を掻く幻覚に襲われた。
二の句を探して浅くなる呼吸を、一度深く息を入れて落ち着けようとする。
「……ああ」
たった一言。それだけを返すのに随分と時間が掛かったような気分だった。
鏡の前で繕った、あの笑みが出せているかどうかは定かではなかったが、努めて見せた。必要以上に怖がられるのは、やはり気持ちのいいものではない。
パッセオ広場で行われる月に一度のマーケットは、中心の噴水から円形に広がり、放射状に伸びる街路がすべて出店で埋まる。そこを端から端まで歩くなら、時間を潰すのは簡単だった。
早朝から店を開けるところも多く、既にホテルの前、広場中心部の店は人が多く寄せ集まっていた。今日のような日は、こんなに人が住んでいたろうかと思うほどの賑わいを見せる。花雪の予報もない、まさに外出日和だった。
「アンタ、目立つからこれを貸してやる」
アレクセイは外套へ忍ばせていた遮光眼鏡を取り出し、弦を広げてシンシアへ掛けてやる。レンズの縁を押さえ、不思議そうにする彼女の紅い眸も、濃い色硝子の向こうではその色味が分からない。その眸をじ、と眺めて違和感のないことを確かめ、彼女の半歩前を歩いた。
「余計に、あやしく見えませんか?」
「俺の顔見知りがそこら中なんだ、女連れで歩いてるだけでも突っこまれかねん。それだけならいいが、妙な詮索をされて気分を悪くする必要もないだろう?」
「いけない? 昔の知り合いだとか、言い逃れはできると思うけれど」
「……保身だと思ってくれ。俺とアンタが特に深い関係でもないと知れたら、そこを突いてアンタを売り飛ばすような輩だって居ないとも言えん。紅眼は金になる、そういうことだ」
人混みが近くなる。アレクセイは口早に伝えた。ここより先でそんな会話は止した方がいいだろう。初日の内に渡しておくべきだったとは今更の後悔だったが、アレクセイの伝えた言葉には少なからず誇張表現もある。彼女の無防備さを思えば多少は盛る方がよいとした上の判断だった。この場合の保身とは、貴族出であるアレクセイにとってのものであった。貴族と紅眼の組み合わせが好意的に捉えられた試しがない。紅眼の象徴が娼婦である以上は。
知己への言い訳も、人混みも、数えればリスキーさばかりが目立つ。無論、彼女ひとり行かせるぐらいならまだマシだと思えるが。
納得したのか、彼女は半歩後ろを歩くまま特に返事もなかった。
――が、唐突にアレクセイは左腕を掴まれた。
「じゃあ、少しの間それらしく振舞ってみる。あなたはただ、情熱的な彼女を仕方なく連れているだけ。……そうでしょ?」
振り向くより先にシンシアは左腕を抱き、寄り添う。
弾けるように意識が白くなり、アレクセイは事態を把握するのに時間を掛けた。足を留めた二人を避けて人混みが割れる。
「………わかった、やってみよう」
内心、面倒なことになった、と思いながらもアレクセイは承諾してみせた。
これで今日一日、己に降り掛かる好奇は免れられないだろう。何せ異性とは無縁の男として生きて来たのだから。
しかしながら一方で、シンシアの柔軟さには感心してもいた。繊細そうな見目に反して大胆なことを考えるものだ。外国という環境下だからなのか、それともシークレストの気質であるのかは分からない。
ワゴン売りの果物や、木箱にぎっしり詰まった魚介は今朝の採れたてだ。声を張る売り子が何処も忙しく客を捌いていた。
「よう、珍しい。坊ちゃんじゃないか」
声を掛けるのはスパイス売りの行商人。世界を股に掛けて仕入れを行っている中年の男は、家業のホテルのお得意だった。
「日に焼けたな、小父さん。うちに泊まってたのか、気づかなかった」
「シークレスト帰りだよ、今朝方着いたばかりだ。ちょっと見ない間に結婚でもしたか?」
「いや……」
案の定である。が、予想の斜め上の言葉にアレクセイは面喰った。
確かに、縁談を持ち掛けられてもおかしくはない歳に差し掛かろうとしている。ちらり、横目にシンシアを見やったが何のことはない、並んだ香辛料の瓶を屈んで覗き込んでいるだけだ。腕は、いつの間にか解けている。
喉元に唾の絡むのを咳払いで往なす。
「そういう、のじゃなくてな。……まあ、成り行きだ」
「代替わりも近いな、今のうち遊んでおかんと痛い目見るぞ」
所帯持ち特有の揶揄に笑って、土産だ、と紙袋を手渡された。アレクセイは礼を述べ、彼女の手を引いて人混みの流れへ再び加わる。
「遊ばないのね」
聞き流せそうなほどに軽い呟きだった。しっかりと会話は把握しているらしい。シンシアは再び、緩く左腕を組み寄る。
「だから目立つんだよ。気が済むまで付き合うが、ルートは選んだ方がいいかもな。……イリスに会うのは面倒だ」
「おともだち? わかった、道はあなたにお任せするわ。少しだけ、この遊びに付き合ってね」
あっさりと淡白に簡潔に答え、シンシアは微笑う。
その笑顔に何処か違和感を覚えるアレクセイだったが、ひとまず頭の端へ置いた。マーケットの範囲は広く、広場を外して小径を行けば知己の姿も格段と減る。この街髄一のホテルとウリンソン財閥はその名前だけなら知らない人間が珍しい。ホテルの面した広場沿いともなれば、歩くだけで挨拶されることも少なくないのが実際だった。とりわけ、商売人には。
イリスのグッズマーケットも、店の外に出店を出しているはずだった。いつもなら顔を出すところだが、今日はそういう訳には行かない。そこを避けて半時計周りに広場を抜ける算段で歩いた。
道行くすがら、父親と親しい世代の商売人に何度も声を掛けられては足を留めた。彼女を連れていることに気づくと、とりわけサービス旺盛になり、複数の紙袋を抱えて歩く羽目になっていた。自然と両腕が塞がったが、シンシアは腕に手を添えるのを止めなかった。
「これだから敵わん、……広場を抜けたらカフェテリアへ行くぞ。老舗のチョコレートショコラの味を奢ってやる」
わあ、と隣で歓声がする。どうやら、甘味を好むのは共通点になりそうだった。そんな些細なことに、表情が緩むのをアレクセイ自身が気づかない。
それよりしばらく後のこと。何度目かの呼び止めに遭ったアレクセイはしばらく長話に付き合ったが、話の腰を折り急ぐのだと伝えた。悪いな、と頭を下げて離れたところでシンシアの姿がないことに気づく。
「冗談だろ……」
慌てて見回すそこは人、人、人の波。咄嗟に彼女の身に着けていたものを思い出すのに必死になる。真紅のケープ。人混みを割るように急いで、その特徴を探した。
居ない。見当たらない。
広場の出口は目と鼻の先、人混みに流されてしまったか、何処かの店先で何かに夢中になっているのか、よもや驚かそうと企んで忍んでいるのではないか。次々と考えが浮かんでは消え、一番考えたくない事態を最後に突きつける。
誘拐。
ならば人の少ない小径を選ぶはずだ、と広場を折れて一つ目の角を曲がった小径で――幸か不幸か、シンシアは見つかった。
煉瓦壁へ追いやられたように見えるその顔にはアレクセイの遮光眼鏡がない。すぐ傍で佇む、長髪の黒髪の男とあろうことか談笑している。
アレクセイは目の前の事態に頭を悩ませた。
――何が起こっている?
見知った男ではなかった、が、見知った顔のようにも感じられる不思議な感覚。そこへ直感的に胡散臭さを加えて感じた。人の扱いに慣れた、詐欺師のような胡散臭さだ、とアレクセイは思う。
「行くぞ、おい」
予め声を掛けてから早足に近づき、彼女の腕を掴んだ。
「待って、アレク、お礼を……」
「煩い、言い訳は後で聞く」
紅眼を見られてしまっているのだ。力ずく、腕を引いて路地を離れるが、悠長なことに彼女はというと男へ向かって手を振っている始末である。
アレクセイの苛立ちは頂点に達しそうだった。彼女に愛称を呼ばれたことなど頭にもなかった。
腕を引くまま、ずかずかと無言でカフェテリアへ向かっていた。
「………ごめんなさい、怒ってる?」
さすがに申し訳なさそうに小声で訊ねるシンシアは、抗わずに歩幅を合わせてついて来ている。
苛立ちは未だ収まりそうになかったが、その様子に少しだけ歩調を緩めた。
目的地はもうそこだ。カフェテリアのカウベルを響かせ、席へ案内される。
雑多に物の入った紙袋を置き、カウチに腰を落ち着けたところでようやくと息を吐き出すことが出来た。安堵と、疲労がこもる。
メニューを開くシンシアの手前、アレクセイは重い口を開いた。
「あの男、何もしなかったか。……気が気じゃなかった」
「悪い人じゃないわ」
「決めつけるな。……俺の眼鏡は」
指摘してからはっとしてアレクセイが訊ねると、彼女は懐から取り出して円卓に広げたメニューの上へ静かに置いた。再び、溜息が自然と漏れる。
「何で外すようなことになるんだ……」
「外す前に気づいていたみたい。……本当に悪い人なら、あなたが来るまでにどうこうなっていたと思うわ。少し、話をしていただけなの」
彼女の言葉にも眉が寄ってしまう。外す前に気づけるようならば尚更、紅眼慣れしていることの証に感じられた。が、元はと言えば長話で足止めを喰らったとはいえ、彼女を見失っていたアレクセイにも充分な過失があった。
沈黙の中、水のグラスを置きに給仕がやって来る。
アレクセイは顔を上げた。
「チョコレートショコラを二つ、頼む」
給仕が下がるタイミングで、シンシアの表情を窺った。
少しバツが悪そうにするものの、視線に気づいて笑みを浮かべる。
「危ないだの行くなだの、大口叩いておいて悪かった。ちゃんと初めから手を引いていれば何もこんなことにはならなかった。俺のせいだ」
「両手が塞がっていたのよ、仕方ないわ。長話をお邪魔するのも気が引けて、ちょっと近くを見てこようと思ったのがいけなかったの。人混みに流されてるのを、助けてもらって。一緒に、あなたを捜してくれようとしていたの」
アレクセイはその男のことについて言及したいところが多くあったが、彼女の人を疑わない姿勢と、嬉し気な声を前にはとうとう言い出せなかった。
自分にとっては肝の冷えたあの時間も、彼女にとっては楽しかった時間の一部なのだ。とても複雑な思いだった。
「わかった、この事は水に流そう。だけど、知らない男に無暗に近づくのは止めるんだな。その眼鏡を人前で外すことも。……口煩い男だと思われても構わん、忠告だけはさせてくれ」
最大限の譲歩をしたつもりだった。声を荒げないよう慎重に言葉を選び、対面の彼女の表情に気を配った。
程なくして二対のカップソーサーが運ばれ、シンシアの相槌のないまま、アレクセイはカップを口元へ運んだ。
湯気に立ち上るショコラの香りが少しだけ気を紛らわせてくれる。
「……おいしい」
沈黙を続けていた彼女の一言に瞳を上げると、カップへ両手を添えたまま、柔らかく微笑う姿が目に映る。可憐ではあったが、アレクセイは困惑する。彼女の心中がまるで想像できないのだ。自分が気を揉んだ忠告がまるで無意味なことのように思えてしまう。
文句を紡ぎそうになる唇にカップを押し当て、ショコラで口直しを試みた。
「水蓮市にはもう行かないのか」
カップを置いて、今度は指組みをして言葉を待った。
「行かない方がいいんでしょう?」
手短な言葉に棘はない。その先言葉は続かず、ぶり返す沈黙が行くつもりがないことを示しているようにも感じられた。
シンシアは、マイペースにショコラを飲みつつマーケットで配られていた出店のチラシに目を通している。言葉の割気に留める風ではなくて、逆にアレクセイには良心の呵責が生まれ始めた。どうしても、万が一というのなら、足を出すぐらいのことはできなくはない。
ただ、個人的な感情であの場所へ行きたくないという思いが邪魔をして、そんな提案を口にはできないでいた。
アレクセイにとっては重すぎる沈黙も、彼女にはそうではなかったのだろうか。窓の外、街並みへ視線を移した横顔は平然として見える。
ひとときの後、両手いっぱいの荷物を置きに戻ろうと提案するシンシアの言葉にほっと胸を撫で下ろし、二人揃ってホテルへ戻った。
「少し、人混みに疲れちゃった。付き合ってくれて、どうもありがとう」
深々と頭を下げられては、もう何も言えない。フロントの側の階段を上って行く後姿が消えるまでを見送ることしか、できなかった。遮光眼鏡は預けたままだ。いよいよ、アレクセイは彼女にとって何が最善であるのか、何なら自分が協力できるのかを悩み始めていた。
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