Episode 02:プライベートアイズ

 父には暇を出すと言われたものの、迷いが拭えないアレクセイは翌朝も習慣通り同じ時間に寝台を下り、支度を整えてカフェテリアに居た。既に昨晩の間に父からの申し送りがあったのか、珈琲を運んだ給仕は不思議そうに声を掛けてきた。


「お仕事なさるのですか、今朝方の通達でしばらくのお休みをと聞きましたが」


「………親父が勝手に言ってることだ、了承前に電話を切られてな。特段と用事がある訳じゃなし、迷ってるんだ」


 クロスワードを解く手は進まなかった。単純に集中できないでいる。ため息を吐き出せば給仕がそそくさと席を外した。苛立ったわけではなかったが、そういう誤解は日常茶飯事だったので、否応にも慣れるしかなかった。

 フロントへ顔を出した後も同じようなやりとりをすることになった。が、この巻き毛の従業員は多少アレクセイの性質を理解しているのか、挙動に怯むことはない。


「いいじゃないですか、たまには。なんなら、彼女を観光に連れ出してみたらどうです? 目の届く範囲でなら、アレクさんも気兼ねなくいられるでしょうし」


 悪びれなく口にする。隣でクロークの担当が、恐々とやり取りを窺っていた。アレクセイにしてみれば、この受付係ぐらい繕わない態度の相手の方が気が楽なのだが、それは難しいことのようだ。


「たまの休みと前置いてどうしてそういう提案になるんだ、まったく。仕事でもなきゃやっていられないと思わんのか、お前は」


「……そうですか? 仕事じゃなきゃプライベートで干渉もできないでしょ、あんな美人。口説かなきゃもったいない」


「お前はああいうのが好みなのか。……苦労するぞ」


 軽口に笑うのは受付係だけだった。

 夕刻までフロントで怠惰に過ごしたアレクセイだったが、受付には一向に彼女の姿が見えない。訝しんだところで、ひとつの仮定が立てられた。


「アレクさんが昼勤だってこと、知っていて来ないのだとしたらあり得ますがね」


「……少し外そう。後のことは頼む」


 どうして俺が気を揉まなきゃならんのだ、と思考の端に浮かびはしたが口にはしなかった。部屋のマスターキーを預けて、外套を羽織ってホテルを出る。

 広場沿いを幼馴染みの旧友の店前まで歩いた。入り口の側、外からの売買に対応できる小窓をノックする。

 外気温との差で曇った窓の向こう、人影が動くのが見え、窓が開いた。


「アレクじゃないか、珍しい」


「久しぶりに酒に付き合わないか、イリス」


 幼馴染みのイリス・エカロフは酒、煙草を中心に生活用品を扱うグッズマーケットの一人息子だ。クラウンズ・ベッドにおいても煙草の仕入れに使う老舗ということもあって古くから交流のある数少ない友人の一人だった。

 壁時計を一瞥したイリスは、首肯を返す。


「いいぜ、もうじき出られると思う。白銀堂か、いつもの?」


「……ああ、先に行ってる。後でな」


 手短な会話に手振りを返して、アレクセイは店を離れて路地を曲がった。白銀堂はダウンタウンへ続くテルミヤ河の手前に位置する小さな店で、イリスと会う時には大概この店へ足を運ぶのだった。昼間はカフェ、夜間は軽食を出す酒場と手広い店で、客層が上品なこともあってアレクセイが気に入る少ない店のひとつである。

 カウベルの鳴る扉を押して入ったアレクセイは、窓際の席を選んでスツールへ掛け、葡萄酒を温めてくれと注文した。

 ふと窓の外を見やれば、花雪が降り出している。冷えるはずだ、思いながらに届けられたアルミ製のマグで両手を温めた。程よく熱い。店の中はまだ人も少なく、レコード音楽がよく聴こえている。物憂げな運びの音階が思考を加速させるのか、ぐるりぐるりと昨晩の一件を思い出しては苛立ちがつのった。

 水を差すようにカウベルが軽快な音を立てた時、アレクセイは弾かれたように面持ちを上げて扉を凝視していた。


「――お待たせ、親父が戻るのがちょっと遅かったんだ。もうじき、なんて言っておいて一時も経ってた、悪いな」


 ハンチング帽を取り、肩に薄く積もった雪を払うイリスが眉を下げる。

 一時。壁時計へ視線を移すが、言葉通り時刻はいつの間にやら過ぎていた。


「………まったく解せん」


 丸々時間を忘れてあの女のことに気を取られていたのかと思うと、そんな言葉が小声に漏れる。それを拾ったイリスは己のことだと捉えたか肩を竦めて申し訳なさそうにしたが、言い訳するのも癪だと思うアレクセイである。


「いいから付き合え、今日は気が立ってるんだ」


「わかってる。……こっちの兄さんにも、お代わり入れてやって」


 卓を挟んで対面に腰を下ろしたイリスは笑ってオーダーを通した。

 それほど酒を好むわけではなかったが、ああなるほど、こういう時に酒のせいにしてしまえるのが利点なのだな、と冷静に思う。

 湯気の立つマグがふたつ揃ったところで、乾杯の合図を交わした。


「雪月祭も過ぎちまったし、暇してるのかと思ったけどその様子じゃなんだか忙しいのかい」


 猫舌か、用心して息を吹きかけて冷ましながらイリスが訊いてくる。


「……唐突に暇を出されたんだ、暇は暇だ」


「ええ。なんだってまた」


「シークレストからの客が……。……お前、水蓮市に行ったことはあるか」


 アレクセイは一旦口を開いたものの、はっとして言葉をつぐんだ。顧客情報を漏らすのは褒められたものじゃあない。ましてや紅眼の外国女など、うっかり口外して何かあっては困る。

 幸いにもイリスは違和感を伝えては来なかった。


「あるよ、……とは言っても仕入れ先だけだし、親父もあまり行かせたがらないのだか大概自分で行っちまうからほんの数回程度だけどね。だけどアレク、アカデミアに通ってた間はその水蓮市で生活してたんだろ? まともな界隈もあるってことだろ、学校があるってことは」


 アカデミアとはヘリオトロオプ髄一の教育機関の名である。水蓮市の貴族が創立したこともあり、有権者にのみ開かれた門戸であった。ウリンソン財閥という肩書きでアレクセイはアカデミアに通っていたが、一介の町人であるイリスは違っていた。


「どうだろうな、アカデミアでは宿舎からほとんど出なかったからな」


「何だよそれ、結局アレクもよく知らないってことじゃないか……」


「………君子危うきに近寄らずだろう」


 言葉を濁したが、実際アカデミアにいたころに周囲で人身売買やらドラッグ問題が起きていたことは事実である。あえて語るのも煩わしい、とアレクセイは眉を顰めるに止めた。

 イリスは、やれやれと笑って冷ましたマグに口を付ける。

 温かい酒は身体へよく浸透するもので、マグ一杯と半ばを消費したアレクセイは己でもアルコオルが身体を巡るのを感じていた。恐らく、紅潮が見られるだろうというぐらいには体温が高い。

 窓の反射で何気なく一瞥した己の顔は予想以上に酔っていた。思わず破顔した。

 ……と、窓の外に見覚えのある人影が過ぎる。マグの中身を煽ろうとして、二度見する。洋灯の下、辺りをきょろきょろりと見回して足踏む、肉桂色の髪の女。

 ――ガタン。

 立ち上がるのと、心臓の跳ねたような感覚は同時だった。対面のイリスも驚いて目を剥いている。


「なん……だよ、いきなり?」


「野暮用を思い出した」


 早口にごちながら懐を探って紙幣を卓の上に乗せると、アレクセイは脇目も振らず店を後にする。額は二人分に釣りが裕に出るだろう。イリスが慌てたような声を発したが、もうそんなことには構っていられなかった。今しがた目にしたのは恐らく、間違いないだろう彼女だ。

 扉が閉じたところで、深く深呼吸をした。心拍は変わらず落ち着かなかったが、気持ちを切り替えられる。彼女と思しき姿の見えた方へ、ずかずかと歩を進めた。花雪ははらり、はらりと止まない。

 彼女が立っていたはずの洋灯の下へ着いた時、彼女の姿はそこになかった。アレクセイが慌てて周囲を見回すと、雪に慣れない足取りでとことこと歩く姿を見つける。広場とは反対の方角、距離こそかなりあるが水蓮市への道程に繋がる道だった。


「……………」


 声を掛けることを躊躇う数秒。それ以上に他の誰かに声を掛けられることを恐れてアレクセイは動いた。背後へと足早に近づいて、肩を掴んで振り向かせる。

 力任せの所作に相手の身体の華奢具合が伝わり、しまった、と思ったがもう遅かった。

 振り向く姿はやはり違えない、紅眼の女、シンシア・ハッセ。驚きの表情はややもすると強張り、うつむいて真紅の瞳に睫毛を伏せた。


「何も、こんな時刻に動かなくてもいいだろう」


 シンシアの表情を見て、咎めないよう、落ち着き払ってゆっくりとした語調で伝えた。アレクセイなりに声色を抑えたつもりだった。


「人目を避けるのなら、夜の方が、いいでしょう? それに……」


「それに? ほかにどんな理由がある」


 まるで子どもを叱る保護者のようだ、と考えながらアレクセイは言葉を返す。言いよどむ彼女の頭にうっすら積もった雪が目に留まり、軽く払ってやった。


「………、昼の間はあなたがフロントにいるって聞いて……」


 沈黙の後、小声に発された言葉にアレクセイは平静を装いつつ頭が真っ白になる思いだった。

 まさか、本当に裏目に出ていようとは。まさか、それほどまでに嫌われていようとは。いや、止む無しか。いや……。

 そんな様子に気づいたのか、そうでないのか、シンシアは申し訳なさそうに目を上げる。


「ごめんなさい……」


 めまいを感じたが、煉瓦壁へ手をついてどうにか踏み止まった。


「そりゃとんだ迷惑を掛けたな。……明日からしばらくは非番の身だ、負い目なく昼間に動くといい。どんな国でも、夜の独り歩きは褒められたものじゃないだろう」


「………ええ」


 この瞬間、アレクセイは父親の言を受け入れることを決めた。再びうつむいてしまう彼女の様子を見るに、あまり納得してくれていないようだったが、彼なりの最善を取ったつもりだった。連日の干渉を思えば同情の余地はあったが、ここまでの行動を恥じる気持ちはなかった。

 少しの沈黙。白い呼気だけが互いの間で主張する。


「だからもう、今夜は部屋に戻ってくれないか。見てしまった以上、アンタを放って帰る訳にはいかないから」


「お仕事、熱心なんですね」


 さあ、と催促してようやく歩き始めた後、背後にぽつと聞こえた声が嫌味なのか、素直な感想なのかはわからなかった。いずれにしても今日の一連で彼女がアレクセイを必要以上に怖がっているのだけは確かだった。

 無理もない。そう、仕方がないのだとアレクセイは思考を遮断した。

 ホテルへ戻り、階段を上がって行く彼女が去り際「おやすみなさい」と言ってくれたことがほんの僅かながらに心を癒した。

 心身共に泥のように重くなった身体を寝台へ放り出し、そのまま半ばやけくそで眠った。




 シンシア・ハッセ滞在二日目の午前。アレクセイは習慣を違えず、やはりいつもの時刻通り目覚めてカフェテリアで珈琲を飲んでいた。遅れて、彼女の姿が見える。広げた新聞でさり気なく顔を隠しながらに一瞥して再び視線を紙面へ戻す。

 どうやら素直に忠告を受け、昼間に動くことにしたらしい。いずれにしても夕刻を過ぎると大概の店が閉まってしまうのだから、何処へ行くにしてもいずれはそうしたのかも知れないが。

 今朝、熱いシャワーを浴びながらにアレクセイはひとつ決心を新たにしていた。

 彼女、シンシアがこの国を離れるまでの残り六日間、彼女の動向をできる限りで見守ろうと。

 もちろんそれは容易な決断ではなかった。たかが顧客の一人のためには過剰行為であるということも、また、彼女にとっては不快な行為であろうことも、腹に括るつもりだった。それは文字通り彼女を監視することを意味する。悪趣味だと言われても仕方がなかったが、どうにも嫌な予感と不安感が拭えず、勝手と言われようともそれを晴らしたかったのである。

 今朝はいつもの制服を脱ぎ、厚手のコーデュロイにシャツを合わせた普段着に身を包んで街中でも然程目立たない恰好を選んでいる。胸元へ色硝子のはまった遮光眼鏡も用意してあった。準備は万端だ。

 温野菜のポトフとトーストの食事を終えたシンシアが席を立ち、カフェテリアを出るのを見計らって後を追った。ホテルを出る前に、巻き毛の受付係が手招いて声をかける。


「アレクさん、彼女、観光名所を回るんだそうです」


「……へえ、気が変わったかな。だといいんだが」


「何処かいい場所はないかって聞かれたんで、カルビン国立公園の場所を教えましたよ。あそこの近くに美味いバゲットサンドを出す店があるしょう、オレ好きなんですよねえ。ピクルスの種類まで選べるから、いつも……」


 口のよく回る男の話はまだ長々と続きそうだったので、その辺りで切り上げてホテルを後にした。

 ホテルの正面からは広場が一望できる。まだ人目も少ないこの時間帯。両目をぐるり、回すだけで事足りた。案内を受けた通りであろう、カルビン国立公園に続く横道へ入ろうとしている姿が見えたところでアレクセイは用意していた遮光眼鏡をかけ、追い掛けた。

 うららかな日もあったもので、珍しく花雪の降る様子もなく暖かい日差しが昨晩降り積もった雪を融かしていた。数十メートル先を行くシンシアの姿を追いながら、片手間に非番を楽しんだ。

 さて、アレクセイの心配裏腹にこの日彼女はカルビン国立公園を昼過ぎまで堪能した後、あっさりとホテルへの帰路を辿る。彼女は後ろを振り返る様子もなく、観光に集中できているようだったがそれがアレクセイにとっては妙に引っ掛かっていた。

 滞在三日目の朝も、四日目の朝も、彼女は同じ時刻にフロントで行き先を伝えて出掛けて行き、日の暮れる頃には部屋へと戻る。模範的で、そうあってくれと願ったにも拘らず心の中に燻る物が積もって行く。


「シアさん、明日はモデルヴァート博物館へ行くそうですよ」


「妙だと思わないか?」


「……どうせ怖い顔してどこそこへ行くな、とか言ったんじゃないんですか」


「……なんで知ってる」


 いつもの巻き毛の受付係が掃ける手前で彼を捕まえたアレクセイは、何気ない会話でまっすぐに切り込まれてたじろぐ。ただ少し愚痴を零そうと思ったのが間違いだったか。受付係は意味深に肩を揺らして言葉を溜めた。


「笑うな、おい」


 声を殺して笑う彼に、眉を顰めるが慣れたもので臆することもない。


「半分は想像でした、いやまさか当たってるだなんて。……失敬、彼女、アレクさんのことを聞くものだから。怖い顔しちゃあいけませんよ、優しく紳士でなきゃ」


 身振り、手振りに紳士を語るこの男の真摯な態度をアレクセイは見たことがあっただろうか、と逡巡してみる。が、すぐに馬鹿馬鹿しいことだと考えを払い除けた。


「俺が紳士でないとでも? 忠告なんぞ、普通はせんだろうが」


「あんたの顔が怖いんです、恐れずに言うとね。せっかくの色男なんですから、もう少し笑ってやってくださいよ」


 口の回るこの男は、容姿はともかく口の巧さもあってか婦女受けが大変よろしかった。世辞めいた言葉の真偽はともかく、言わんとすることは的確だ、とアレクセイ自身は評する。


「……度胸あるじゃないか、お前」


 恐れてなぞいないだろうが。アレクセイは挑戦を受けたように唇に大きく弧を描いて微笑って見せた。隠し切らない鬼を背負って。

 男は引きつる笑顔を返して、それきり黙り込む。それでよかった。

 自室へ戻ったアレクセイが鏡の前で仏頂面と向き合う姿は、誰も見ることはない。

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