花雪 -Huaxhue-

紺野しぐれ

Side:A

Episode 01:天然記念物

 アレクセイ・ウリンソンの朝は早い。

 生来の生真面目さで目覚まし時計の鳴る五分前に目覚め、顔を洗い歯を磨いて糊の利いた真っ白なシャツに腕を通す。従業員制服の濃灰のスラックスとベストを着用したら、金のラペルをこれまた曲がりがないか鏡で念入りにチェックした。そうして、ジェルの整髪料で長めの髪を後ろへ流して櫛を入れる。どれもきびきびと無駄のない動きである。

 彼の仕事はこの町随一の宿泊施設であるクラウンズ・ベッドの予約客を出迎え、歓迎することであった。

 部屋の施錠だけしっかりと確かめて地階へ下りた。クラウンズ・ベッドの経営は父が行っているため、実質そこは彼にとって庭同然だ。

 平然とフロント傍のカフェテリアを訪れて、朝の珈琲を頼む。席はお決まりの窓際席、今朝の新聞を棚からさらって席に着いた。給仕も毎朝の習慣に慣れ、姿を見止めた時点ですべてを理解している。

 新聞を開いてひとまずはすべて目を通すのだが、どれもこれも下らないとゴシップを跳ね除けて執心するのは唯一、枠下五段を使ったクロスワードである。胸ポケットから取り出す万年筆でぐりぐりと書き込んだ。

 とっくの昔に給仕が珈琲を届けに来ているのだが、仏頂面を隠しもせずに黙り込むこの男に声を掛けられる人間は相当限られている。

 端正な顔立ちではあるが少々尖った印象が強く、平常時でも人を圧倒する雰囲気を持っていた。そうして気がついた時には温くなった珈琲でも、文句だけは付けない。傲慢さを持ち合わせているわけではなかった。

 窓の外を一瞥すると、牡丹雪がはらはらと降り出したのが見える。みるみると降り積もる様を見てアレクセイは静かにため息を吐いた。悪天候の中馬車を出すのは気持ちがいいものではない。

 この常冬の国・ヘリオトロオプでは珍しくない雪のことを、はじめに花雪フォアシュエと呼んだのは異民族である紅眼ロゼリアだったという。それはこんな雪を指したのだろうか、そんなことをぼんやりと考えながらカップの中身を飲み干し、立ち上がった。

 フロントを通り過ぎる手前、電話が鳴り響く。

 ちょうどクロークへ受付従業員が捌けていたため、渋々と受話器を耳へ当てた。


「――はい、ホテル『クラウンズ・ベッド』です」

 

 ザザ、と雑音が聴こえている。それは、電話主との間に物理的に距離があること、引いては海を越えた国外からであることを示していた。

 アレクセイは耳を研ぎ澄ませる。


「すみません、今晩の便でそちらへ伺う予定なんですけど、今夜から七泊八日分、一人部屋のリザーブをお願いできますか?」

 

 声は予想に反して雑音に塗れず、凛と通る。鈴のような声色の主は若い女性であることが判った。……と言っても、アレクセイは顔色一つ変えず、顧客情報のひとつを得たに過ぎない反応であるが。

 台帳を撒くって、確認を取る。時季としては数少ない繁忙期である雪月祭も終わったオフシーズンに当たる。元より観光客の数が少ない田舎のため、確認に時間は取らなかった。

 

「ご用意できますよ。こちらへは列車のご利用でお間違いないでしょうか。もしそのようでしたら、ご乗車の列車番号をお伝えいただければご到着に合わせてお迎えに上がりますが」

 

「ああ、助かります……ええと、列車番号はSE306です」

 

「SE306、かしこまりました。では最後にお名前と、差し支えなければ参考までにご滞在目的をお伺いできますでしょうか」

 

 SE。列車番号の頭文字は所属国名を表している。アレクセイは僅かに眉を寄せた。シークレスト。海の先の最先端文明の国とされる場所だった。出て行く人間の数は知れど、やって来る人間はそう居ない。ましてやこのオフシーズンに。

 

「シンシア・ハッセと申します。大学の夏休みに観光目的で。……よろしいでしょうか?」

 

「失礼いたしました、ハッセ様。では、本日ご到着の頃にお迎えに上がります。私、ウリンソンが承ります、どうぞよろしくお願いいたします」


 女性は何度もありがとうございますと、よろしくお願いします、を繰り返した。まるで電話口でぺこぺこと頭を下げている風で、声だけでもその様子が目に浮かび、ほんの僅かにアレクセイの口角が上がる。

 そこへ、クロークから従業員が戻った。手で制して、受話器を置いて今しがたの経緯を引き継ぐ。

 

「シークレストからの客だ。……七泊八日の観光というのは些か珍しい気がするんだが、そんなものか?」

 

「へえ、そりゃ珍しいですよ。里帰りとかじゃないんですかね、それにしたって自分は取ったことがないですけど。……あ、アレクさん、列車の時刻そろそろです」

 

「すまん、行って来る」


 予約電話を取った上に無駄話を挟んだことで時刻は予定を過ぎていたようだった。手振りで示して後を任せたアレクセイは、そのまま送迎用の馬車を運行係を伴い駆って駅まで行き、客を拾って戻った。

 次期支配人という肩書きは重かったが、業務としては随分と楽をさせてもらっている、という自負がある。客の出迎えと、昼夜の二交代制のフロント業務の補佐役をしているだけで、体は他の従業員に比べれば空いていた。

 創業者である父は厳格ではあったが、身内には甘い質だった。


 夕刻、迎えの予定はシンシア・ハッセ、ただ一人。ヘリオトロオプの夜は早く、そして長い。彼女の乗車予定の列車が到着する頃、辺りはとっぷりと陽も落ちて外灯が橙に雪の積もる路を照らしていた。

 駅前も朝と打って変わって静けさが目立つ。離れた位置からでも蒸気機関がシュウシュウという音が聴こえた。

 アレクセイは運行係を待たせて、ホームの石段を上がった。

 次の便の乗客が搭乗口で切符を切られているのを見遣ると、ぐるりを慌てて見渡す。ホームの隅へ、トランクを下ろして留まっている女を見つけた。

 

「――ハッセ様、ですね?」

 

 ホームへ留まっているのはその女だけだったので、アレクセイは躊躇わず声を掛けた。灰掛かった肉桂色の髪を麦の穂のようにひとつ編みに束ねた女は、夜闇にも浮かぶ白い肌をしている。ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳を見るなり、アレクセイは言葉を詰めてたじろいだ。

 白肌へ映える瞳は、――真紅。


「あ。ウリンソンさん、お世話になります」

 

 柔和に微笑んでお辞儀するシンシアは、アレクセイの狼狽にワンテンポ遅れて気付く。その瞳は何の疑いもない、無垢さが溢れ出ている。そんなことが、余計にアレクセイの心中を荒らした。

 

「……どうか、なさったの?」

 

「ひとまず、うちのホテルへ来ていただきます……が、後で少し時間をいただきたい」

 

 平静を保ったつもりで返すと、彼女のトランクを持ち上げ、反対の手に彼女の手首を掴んでやや強引に歩き出す。アレクセイにとっては顔色を変えずに対応したつもりだったが、端目には眉間に深い皺を寄せて凄む男の姿にしか映らなかった。

 

「ねえ、あの、何か」


「いいから急いでくれ。あまり人に見つかりたくない」

 

 青年男性の早歩きに、ヒールパンプスで合わせるシンシアは雪の中を転ばないように必死で歩いた。馬車の扉を開くと、彼女を押し込んでからトランクを放り込み、乱暴に閉める。ふう、とため息が白く零れた。辺りには幸い人が居らず、目撃者もなさそうだった。

 

「どうしたんですアレクさん、そんな顔をなさって。何かありましたかい」


「………お前は気にしなくていい。出してくれ」

 

 運行係の横へ乗り上げると、やはり彼の眉間の皺を見てそんな言葉が返ってきたが、アレクセイは話すことを拒んだ。笑い話にでもなったら、話せるだろうか。重い荷物を背負い込んだものだ、二度目のため息が夜闇に尾を引いて流れて行った。

 

 受付に居た従業員も、シンシアの顔を見るなり一旦は目を丸くした。アレクセイが手で制してチェックインの手続きを代わり、部屋鍵を手渡して自らトランクを運んで部屋まで案内した。もちろん、特別な扱いだった。

 部屋は二階の奥。部屋の床へトランクを置いたところで、アレクセイは重たい口を開いた。

 

「アンタ、一体どういうつもりでこの国に来たんだ」

 

 冷たく、刺すように言い放つ。状況がわからずに首を傾いで瞬くばかりの彼女を前に、アレクセイの苛立ちはじり、じりと焦げるように燻ってゆく。


「紅眼がこの国でどういう扱いを受けているのか、知らないとでも言うのか。紅眼の女がたった一人で、観光? 笑うどころの騒ぎじゃあない」

 

「偏見があるのは、聞いています。だけど……、そんなにおかしいものですか? 他のホテルへ連絡を取った時も同じように目の色を訊かれました。それって、そんなに大事なことなのかしら?」

 

 やっぱりな、とアレクセイは頭を垂れた。当日予約の理由は、余所で断られ続けた結果だろう。そりゃそうだ、と独りごちる。

 シンシアは相変わらず事の重要性を理解していない様子で、戸惑っていた。

 彼女の出身国、シークレストは人種のサラダボウルとも呼ばれ、紅眼は珍しくない人種になりつつあった。が、ここヘリオトロオプでは希少種であり、その存在は色目で見られることがしばしば。水商売を生業に生きるか、貴族に飼われる愛玩種である紅眼。それが彼女がやって来た国の現実だった。


「アンタが男なら俺もとやかく言わない、自己責任で放るまでだ。だけど、残念ながらアンタは女だ。……観光先の予定は?」

 

「…………水蓮市へ」


「水蓮市だって?」


 アレクセイにとっては背の凍るような回答だった。思わず身震いして、視線を宙へ泳がせた。

 水蓮市はヘリオトロオプの北部に位置する、貴族街のことだった。それだけなら響きが良いが、実態は紅眼、薬物、酒、ありとあらゆる物を金で手にすることが可能な界隈のことを指した。

 アレクセイにとっては幼少の頃からあそこにだけは近付くなと口煩く諭されたもので、貴族の住処とは名ばかりの低俗で下劣な場所という認識でしかない。


「よりにもよって水蓮市だと? ふざけるのも大概にしてくれ、ただの周辺観光なら誰かを同伴させるかと思ったが、水蓮市だって? そんなところへ誰かと行かせる訳にはいかない。無論、俺はあんな場所へ行くつもりもない。……あきらめて帰るんだな、シークレストへ」


「……放っておいてください、ホテルや、あなたには迷惑を掛けないようにしますから。どうしても、行かなくちゃいけないの」


 シンシアは頑として引かなかった。その真紅色の瞳で真っ直ぐに見つめ返してくる。その眼差しを直視するとひたむきさに感化されそうで、アレクセイはついと顔を逸らした。


「うちに迷惑が掛かるかどうかで言っている訳じゃない。余所から来たお客様が無事に楽しく過ごせるように計らうのが仕事であり、俺の望みであるだけだ。……忠告はさせてもらったからな」


 指添えをして釘を刺して、部屋を出る。扉を背に重々しいため息を吐き出して、ひと仕事終えたような気になったが、いつまで経っても内鍵の閉まる音がしなかったので外からマスターキーで施錠をしておいた。つくづく、警戒心が薄い女であるのか、はたまた自分が神経質であるのか、アレクセイは思ってみたがすぐに思案を散らした。忠告はした。従業員としてすべきことはした。


「あとは、俺の出る幕じゃない」


 自分に言い聞かせると、フロントへ戻って夜勤に事情を簡潔に説明する。

 紅眼の彼女の動向に出来るだけ目を配って欲しいということ。水蓮市への行き方を訊ねられたらそれとなくはぐらかすこと。


「それから……彼女が外出する際にはできるだけ行き先と戻り時間を訊いておいてくれ」


「いやに肩入れするんですねえ」


「紅眼の客が単独で長期滞在したことがあったか?」


「……確かにないですね。水蓮市の飼い猫なんじゃないですか、ただの」

 

「その可能性が極めて低いからこうして対策を立てる必要があるんだ。昼勤にも念のため申し送りをしっかり頼む」

 

 貴族飼いの紅眼であるならば大概は高価な衣服で着飾り、澄ました態度で振舞うか、主人を同伴しているものだ。買い付けの際に紅眼が独りで居ることもまたない。それを見越した上でシンシアの態度を見るに純・シークレスト産の箱入り娘だと判断を下したのだった。

 夜勤は両肩をすくめてアレクセイの神経質さにやれやれといった反応を見せたが、しっかりと日報へペンを走らせていたので良しとした。

 時刻は十九時を回ったところだったが仕事を切り上げ、自室で熱いシャワーを浴びて気持ちを切り替えることにした。

 経営者である父がホテルに居ることは稀だった。全国展開への足掛かりに国外へ出ていることも最近は多く、今夜も例に漏れなかった。

 気分転換のつもりのバスタイムにも結局一抹の不安を隠せなかったアレクセイは、父に連絡をつけることにした。幸い、父が滞在しているホテルの番号は抑えてある。数コールの後、フロントから繋いでもらい、父へ紅眼の女が長期滞在している件を伝えた。

 

「彼女は危険すぎる。何も知らないひな鳥みたいなものだよ、そんな奴が目の前をうろちょろしているんだ、ただ傍観しているのは寝覚めが悪い。……親父ならどうした?」


 電話口からは少し酒に酔ったような様子の声が返る。「紅眼が実際にどう扱われるものであるのか、教えてやればいいじゃないか」と。アレクセイはまた眉間に皺を深く刻んだ。


「口で言って聞くなら簡単だったろうさ。仕舞いには、水蓮市へ行くなんて言い出す始末だ。親父だって、水蓮市まで深追いはしなかったろう、……俺は何か間違っているのか」


 ほほう、と何やら感嘆の声。状況を楽しんでいる様子が目に浮かんで、アレクセイは段々と相談相手を間違えた気がしていた。半眼で、これ以上話をする意味があるのかを自身へ問い質しているところへ、意外な回答が返る。

 「暫くお前には休暇を出そう。仕事じゃなかったら、お前はもう少し考えの枠が広がるんじゃないか。オフシーズンにお前一人居なくて回らないような教育はしていないのだから、心置きなく自分の思う通りに動くがいい」。寝耳に水のような言葉の後、「忙しいんだ」と取って付けたような科白が続き、ぷつりと回線が途切れてしまった。

 

「………どう、しろと」


 夜はまだ始まったばかりだったが、夕食を口にする気も起こらずアレクセイは自室の寝台へ身を投げて眠れぬ夜を過ごした。

 神経質は今にはじまったことではなかったが、今回は何かが妙だった。

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