15 情報機関の職掌
十歳の頃から軍人として修練してきたからか、エルフリードは毎朝五時半前には自然と目が覚めるのだ。
この日も前夜に呪詛の激痛に身を苛まれていたにも関わらず、彼女の目覚めの時刻はいつも通りだった。
カーテンに覆われた窓から淡く入った光で、室内はほのかに明るい。
普段であれば素早く寝台から出て着替えるところだが、このところは少し違っていた。
同じ寝台の中で、リュシアンが眠っているのである。彼は普段から不規則な生活を送っている(送らされている)所為か、エルフリードのように寝起きが良くない。
今も、エルフリードの隣で体を丸めるようにして眠るリュシアンの目元は不健康な隈が出来上がっていた。ここ数日、彼の隈は消えたことはない。その顔色も、やはり不健康なほどに青白かった。
その跳ねのある髪に、エルフリードは戯れに手を伸ばした。
色を失い、艶を失った少年の髪。
それは、少年が魔術師として成長していく中で払った代償の一つだ。
エルフリードは寝息を立てるリュシアンの髪を、優しい手つきで梳いていく。
まめが潰れて堅くなった、少女らしからぬこんな手で髪を触られてもリュシアンは喜ぶのだろうかと、埒もない考えがエルフリードの頭をよぎる。やはり自分は矛盾の塊だな、と少女の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
魔術師の少年は髪をいじられても、起きる気配はない。
エルフリードは音を立てず寝台を抜け出し、リュシアンに改めて布団を被せてやる。
そして、するりと夜着を脱ぐと、下着姿になった自分の体を鏡に映した。相変わらず、自らの体には呪詛に囚われていることを示す毒々しい赤い紋様の線が走っている。かすかな曲線を描く胸には、リュシアンが施した呪詛に対抗する術式を刻んだ魔法陣。
今のところ、エルフリードにかけられた呪詛の苦痛はだいぶ緩和されている。女性であるが故に定期的に起こる痛みに耐えなければならない身としては、我慢できるだけの痛みである。それに、幼少期に乗馬の練習で落馬して骨を折った時に比べれば、今の痛みの方がまだマシといえる。
エルフリードは下着を取り替えると、白いシャツに腕を通した。軍服のズボンに素早くベルトを通したところで、不意に部屋の机の上に置かれていた水晶球が淡く点滅し出した。
「……」
エルフリードはいったん着替えるのを止め、ズボンを寝台に置くと水晶球を掴んだ。そのまま、音を立てないように扉の外へと出る。
「……誰だ?」
『おや、その声はお姫サマかい?』
いささか慇懃無礼に聞こえる女性の声。
「オズバーン魔導官か?」
『うちの坊やはまだおねむかな?』
「ああ、どこかの狐にこき使われている所為でな」
『ははっ、お姫サマは相変わらずファーガソンが嫌いなようだな』
水晶球の向こうでこちらをからかうような笑い声がする。
クラリスはエルフリードに心からの敬意を表すことはない。平民出身で、勅任魔導官の地位にまで実力でのし上がってきた彼女にとって、王侯貴族とは常に皮肉と諧謔の対象であった。
そして、自身を「王女」という記号で見ようとしないクラリス・オズバーンという人間を、エルフリードは憎からず思っている。あるいは、リュシアンが信用している人間だから、自分もそう思っているだけなのかもしれないが。
ともかくも、だからこそエルフリードは彼女にぞんざいな言葉遣いを許しているのだ。
「あまり大きな声を出すな。リュシアンが起きる」
それでも、少しむっとした声が出た。
王女に対してぞんざいな言葉遣いをすることは、別に構わない。堅苦しく話されるよりも、よほど楽だし実用的だ。しかし、リュシアンが寝ていると伝えたのだから、そこは声量に気を遣うべきだろうと思うのだ。
『おっと、そいつは失礼したね』エルフリードの機嫌にさして頓着することなく、クラリスは続ける。『んで、こんな朝っぱらから連絡したのにはわけがある』
「私が代わりに聞いておく。要件を言え」
『まったく、お互いがお互いに対して過保護過ぎるな』
皮肉げに、クラリスは言う。そして、その直後に口調が真剣なものになる。
『まだ身柄を確保出来ていない手配中の共和主義者の居場所に関して、昨夜、匿名の密告があった』
「……続けろ」
『特別保安部を出して、夜の内に五名の反政府主義者を拘束した。こちらが拠点に踏み込んだ際に逃走した数名も、ほどなく確保出来るだろう。だが問題は、匿名の密告者の存在だ。うちの坊やが王室機密情報局でなく、王都警視庁に手柄を分けようとして情報提供をしているのなら、問題はない。だが、リュシアンならばわざわざ匿名にせず、私のところに話を持ち込むだろう?』
「ああ、だろうな。それと、あいつが昨夜、何をしていたか帰ってきてから報告を受けたが、そうしたことは言っていなかった」
『と、いうことは密告者はうちの坊やではない。そうなると反政府組織内部での派閥争いが密告を生んだ、という可能性が高いだろう』
「……なるほど、読めたぞ。その密告が、拠点に幻影魔術をかけて偽装を行った魔術師のものだと貴様は疑っているわけだな?」
『理解が早くて助かるよ、王女殿下。密告された連中の中に、アリシア・ハーヴェイの名はなかった』
「……つくづく、性格の悪い女だな」
ぼそりと、嫌悪感を込めてエルフリードは呟く。
同志たちを切り捨て、捜査の目がそちらに行くようにしているのだろう。警察も、共和主義者たちを一斉に逮捕出来たことで気の緩みが生じるに違いない。それを、あの女は狙っているのだろう。
『正直、特別保安部の中にも楽観的な雰囲気が流れている』
「たった一人とはいえ、魔術師は厄介だぞ」
リュシアンという存在が身近にあるエルフリードは、それを実感している。
『ああ、王女殿下に言われるまでもない』
自身も魔術師であるクラリスは、鼻で嗤うように同意した。
『だが、特別保安部の中に魔術師の脅威を具体的に把握出来ている人間が何人いるかは疑問だな』
「王室魔導院に魔術系の人材が集中してしまっている弊害だな」
『同感だよ、お姫サマ』
水晶球の向こうで、クラリスが肩をすくめる気配があった。
『とにかく、私の方でも警戒は緩めないようにしておく。リュシアンにもこの件を伝えておいてくれ』
「うむ、了解だ」
そこで通信を切ると、エルフリードは再び音を立てないように部屋に戻った。
軍服のズボンを履き、上着を着てボタンを締める。鏡で己の姿を確認し、着崩れていないかを素早く点検する。
そこで、ようやくリュシアンの肩を揺すった。
「おい、リュシアン、起きろ」
「……」
「起きろと言っているのだ、リュシアン」
「……ぅん……?」
リュシアンは薄目を開けて、自らの体を揺する少女を見上げた。
「ぁあ、おはよう、エル。相変わらず、早起きだね」
ぼんやりとした発音の声だった。目の焦点もまだ定まっていないようだ。
「ふん、お前が遅いだけだ」
親愛の情の籠もった笑みと共に、エルフリードは優しく罵倒する。
「早く起きろ、リュシアン。お前がいないと、朝食が味気ない」
「……ああ、そうだね」
茫洋とした平坦な声で応じ、リュシアンはゆっくりと寝台から起き上がった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
南ブルグンディア宰相の議会での演説を明日に控えたこの日、ここ数日相次いだ共和主義者の拘束によって王都中心部の警備態勢は強化されていた。
共和主義者の残党による報復テロを警戒してのことである。
とはいえ、王都周辺で活動する共和主義組織の幹部は軒並み逮捕出来たと判断され、各捜査機関上層部にはある種の楽観的な雰囲気が存在していた。
もっとも、そうした者たちとは反対に、未だ警戒心を解いていない人間も存在している。その代表格が、王室機密情報局局長のサー・ハリー・ファーガソン准将であった。
この日の午前中、首相による内奏の場に、彼も同席することになった。内奏内容は翌日の南ブルグンディア宰相の警備計画の概要の最終確認であり、そのためにファーガソンもマルカム三世の命令によって同席することとなったのである。
彼が王宮の国王執務室に到着した時には、マルカム三世、首相、内相、内務省警保局長官、内務省防諜局長官が揃っていた。
「ふむ、これで全員が揃ったな」
マルカム三世が、全員を見回す。
「ファーガソン准将、内相から受け取った警備計画の概要書は読んできたかね?」
そして、国王が最初に声をかけたのはファーガソンであった。
「はい」
「よろしい。それで、卿は警保局と防諜局による警備計画をどう思うかね?」
「エスタークス勅任魔導官の意見を参考にしますと、極めて不備のある計画と言わざるを得ません」
国王が求めていたであろう感想を、ファーガソンは述べた。彼がこの場に呼ばれたのは、共和主義者による議事堂爆破計画の情報を共有するためであった。そして同時に、警備体制に万全を期すための進言をするためでもあった。
「ファーガソン准将」語気を強めて反論したのは、防諜局長官であった。「王都中心部の警備は万全だ。王都警視庁の魔導犯罪捜査課、さらにはオズバーン特別捜査官にも警備にあたる。反逆者どもに魔術師がいようとも、問題のない計画に仕上げている。そもそも、反逆者どもは王都警視庁があらかた逮捕した。今更、奴らに大したことが出来るとは思えん」
国王の前で自らの組織の立案した計画を否定され、防諜局長官は不機嫌を隠そうともしなかった。
防諜局にとって、王室機密情報局は国王直属ということで自らの権限を脅かす存在であり、組織的な対立は以前からあった。内務省防諜局も王室機密情報局も、極論すれば官僚機構の一つに過ぎないのである。予算や権限を巡る争いは、古今東西の官僚組織に付きものの宿痾といえた。
「陛下」マルカム三世に向き直った防諜局長官が続ける。「そもそもエスタークス勅任魔導官はエルフリード殿下の専属であるはず。それが今回の警備計画に意見するのは、勅任魔導官とはいえ越権行為が過ぎるのではないでしょうか?」
「エスタークス魔導官の意見ではない。儂の意見だ。あやつの魔術師としての見立てを儂が参考にしたに過ぎん」
「余も、エスタークス卿の王室と国家への貢献は評価している」
マルカム三世があからさまにリュシアンを擁護する発言をすると、防諜局長官は口をつぐんだ。
一方、防諜局長官と共に警備計画に関わっている警保局長官は何も言わなかった。彼は部下としてクラリス・オズバーン勅任魔導官を持つ身であり、彼女の弟子であるリュシアンにも何度か捜査に協力してもらった経験もある。だから、今回もどちらかといえばリュシアンの協力が得られることには賛成なのだ。むしろ、警察と利害関係の対立が存在する王室魔導院に対抗するためにも、リュシアンとの関係は強化しておきたいというのが、警保局長官の本音であった。
残る首相と内相は、具体的計画を立案する立場にはないので会話の成り行きを見守るに留めている。彼らがこの場にいるのは、あくまで国務大臣であるからに過ぎない。
警備計画について国王からの意見を反映するためには、形式上のこととはいえ、国王から国務大臣へ指示する必要があるのである。国王が担当者に直接命令を下さず国務大臣を通して命令を発するのは、君主無答責の原則を維持するためである。これは、君主に政治的・法的責任を負わせないための工夫であり、万が一責任問題が生じても、それは国王の意見を反映する判断を下した首相以下国務大臣が責任を負うことになるのである。
「南ブルグンディア宰相の警備計画は慎重の上にも慎重を期さねばならない」
マルカム三世が全員に言い聞かせるように言った。
「ファーガソン准将、例の件を説明したまえ」
「はい。現在、陛下の王室機密情報局では、反逆者による国会議事堂爆破計画を察知しております」
「いつもの脅迫ではないのかね?」防諜局長官は疑わしそうな視線をファーガソンに向ける。「反逆者どもの妄言に踊らされては、かえって警備に支障をきたしかねんのだぞ」
「これは、信頼出来る情報源からの証言です」ファーガソンは断言した。「さらに言えば、爆破計画の実行役は魔術師とのことです。逮捕した反逆者の中に、魔術師がいたという報告はなかったはずですがな?」
ファーガソンが防諜局長官を見る。防諜局長官は親の敵でも見るような視線で大柄な諜報官を睨んだ。
そのような一触即発の雰囲気を破ったのは、警保局長官であった。
「ファーガソン准将の言葉通りだとすれば、これは大変に由々しき事態ですぞ」
彼は厳しい口調で言った。クラリス・オズバーンを擁しているとはいえ、王都警視庁魔導犯罪捜査課にも限界はある。本来であれば王室魔導院が協力すべき事案ではあったものの、恐らく警備に関する主導権を巡って、警視庁と対立するだろう。それは、明日に迫った南ブルグンディア宰相の議事堂訪問を前にするべきことではない。
恐らく国王がこの場に王室魔導院院長を呼ばなかったのは、そうした理由もあるのだろうと警保局長官は解釈した。
「繰り返すが、余は明日の警備計画については慎重に慎重を重ねることを望んでいる。エスタークス勅任魔導官には、ファーガソン准将の指揮下にて議事堂警備に参加させるべきと判断するが?」
「それでは、エルフリード殿下の警護に支障が生じましょう」
防諜局長官が、何とか反論を試みる。彼にとってみれば、情報機関でありながら議事堂爆破計画を察知出来なかったという減点材料が存在する以上、外部に協力を頼むというような失点を重ねるわけにはいかなかったのである。
とはいえ、防諜局の本来の役割は行政機関の情報漏洩を阻止することが任務であり、保安上の情報収集はどちらかといえば警察の仕事であった。
「ならば、あれにも協力させればよい」
そして、防諜局長官に対する国王の返答は簡潔だった。
「陛下」ここで、初めて首相が発言した。「エルフリード殿下は、軍人でもあらせられます。議事堂の警備に当たらせるのは、軍部による立法機関への介入と批難される恐れが」
君主制国家であるロンダリア連合王国でも、三権分立は一定程度に確立されている。それを、王族であるとはいえ軍人が脅かしたとなっては、特に衆民院からの反発が起きる可能性があった。
「卿らも、議事堂を直接警備するわけではなかろう?」
「それはその通りですが……」
首相以下国務大臣と、その指揮下にある各省庁は行政組織である。警察もまた行政組織の一員である以上、立法機関である国会議事堂そのものの警備に関与することは、三権分立の原則を崩すことに繋がる。そのため、議事堂の警備に当たっている人間は、警察関係者ではない。守衛と呼ばれる、立法機関に所属する警備員が配置されているのである。
内務省の立案した警備計画も、あくまで国会議事堂そのものではなく、周辺地域の警備計画であった。
「あれには、エスタークス勅任魔導官と共に、爆破の実行役となっている魔術師の捜査に充てればよかろう?」確認するように、マルカム三世は首相に問う。「それならば、何の問題もないではないか」
「姫殿下の御身が危険に晒されることにもなりますが?」
念のために、首相は問うた。
「軍人の道を選んだのはあれだ。今更危険云々を論じる必要はなかろうよ」
酷く冷めた声音で、連合王国を統べる男は言った。そこには、娘の安否を気遣う一片の感情も存在していない。彼にとってはエルフリードという娘もまた、国家にとって必要な歯車に過ぎないのだ。
「……自明のことを申し上げ、まことに申し訳ございません」
首相は反論が無駄と悟り、国王に向かって一礼した。
「では、内務省と王室機密情報局は連携して、明日の警備に万全を期すように」
それが、マルカム三世の決定であった。
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