14 交錯する利害

 夜も更けた王都。

 つい数刻前まで多くの客で賑わっていた、とあるヴェナリア料理店も数名の従業員が翌日の仕込みのために厨房に残るのみである。

 普段はピザやパスタ、それにワインに舌鼓を打つ客たちで席が埋め尽くされ、その盛況ぶりが窺える料理店。そんな店の地下で、反体制思想を持つ女魔術師とロンダリアと敵対する国家の諜報員が密会しているとは、店の常連客の誰一人として思わないだろう。


「爆薬は約束通りに入手したぞ」


 そう言って、オリアーニ大佐は活動拠点となっている地下倉庫に運び込まれた木箱を示す。それは食料品の搬入などに使われる、一抱えほどもある大きさの木箱だった。


「やっぱり、仕事は早く正確な人たちに頼むのが一番だね」


 アリシアは喜々とした表情で、木箱に近付いた。蓋を開けると、そこには円筒状の容器に包まれたダイナマイトが箱一杯に詰められていた。


「ああ、そうそう。これだよ、私が欲しかったのは」


 思わず頬を緩ませるアリシアの様子を、オリアーニ大佐は空恐ろしいものを見るように眺めていた。

 この女魔術師は、やはり少し過激に過ぎるのではないか。そのような疑念を抱いているのだ。

 オリアーニ大佐はロンダリア国内の反政府組織との繋がりを持ちたいと思ってはいるが、それは自分たちで操り、制御することが可能な反政府組織に限られる。

 手綱を握るのが難しい過激派テロリストは、正直、自分たちの諜報活動をする上でも不確定要素にしかならない。

 アリシア・ハーヴェイという女魔術師は、その点で見ると微妙な存在であった。

 とはいえ、反政府系の魔術師というのは貴重であり、協力関係は今後とも維持したいと思っている。


「それで、ハーヴェイ君。君が議事堂爆破計画の詳細を教える気はないとしても、その実現可能性については尋ねておきたい」


 今回の議事堂爆破計画については、オリアーニ大佐としては協力することにやぶさかではない。アリシアが支援を求めてきたということは、まだ彼女がこちらの影響下にあると見ていいだろう。


「ああ、私としてはかなり高いと思ってるよ。まあ、例え“黒の死神”リュシアン・エスタークスが計画を阻止するために出てきても、あなたたちは彼の魔力情報を得られるから、どっちに転んでも悪い計画じゃないでしょ?」


 ヴェナリア執政府情報調査局の思惑を見透かすように、アリシアが言う。


「計画阻止に動くのは、何もエスタークス勅任魔導官とは限るまい」


 だが、アリシアの言葉にオリアーニは疑問を呈す。王都にいる勅任魔導官は、リュシアン・エスタークスの他にもいる。彼の師匠であるクラリス・オズバーン勅任魔導官がテロ警戒のために動員されていることからも、そちらと戦闘になる可能性が高いのではないかと、オリアーニは考えている。


「ああ、その点は心配いらないよ」


 あっけらかんとした調子で言いながら、アリシアは意地の悪い笑みを浮かべていた。


「だって、彼は私を討つ積極的な理由があるからね」


「それは、我々に理由を聞かせてもらえるのかね?」


「うーん……」


 アリシアは少しだけ悩んだ。エルフリード王女の呪詛について、この諜報官に教えるべきか否か。

 しかし、教えなければヴェナリア情報調査局にとって損のない計画であることを説明することが出来なくなってしまう。そうなれば、今後の協力関係にも影響が出てくるだろう。

 彼女もまた、ヴェナリアの諜報機関との繋がりを必要としている。自身の所属する反政府組織以上に。


「この間、私が迎賓館を襲撃して、あなたたちが拠点を吹っ飛ばされた日、エルフリード王女に呪詛を掛けることに成功したんだ」


 思案の末、アリシアはその情報を伝えることにした。


「呪詛の解除のためには、私を殺さなきゃいけない。だから、リュシアン・エスタークスは確実に私を狙ってくる」


「ふむ」


 そう言って、オリアーニ大佐は傍らのアンドレイ中尉を見た。大佐は常人ただびとであり、魔術についての造詣は魔術師に劣る。だからこそ、魔術師であるアンドレイ中尉に確認を求めたのだ。


「呪詛の解呪方法はいくつかありますが、術式そのものの解除が困難な場合は、術者を殺害するのが最も効果的な解呪方法です」


「そして、リュシアン・エスタークスは私の呪詛を解除出来ていない」


 アンドレイ中尉の答えに被せるように、アリシアが付け加えた。


「なるほど」オリアーニ大佐は頷いた。「我が共和国の国益に合致するならば、君がどのような行為をしようと口を出すつもりはない。しかし、今回の我々の損失に見合うだけの成果を君が挙げなければ、我々と君との協力関係を考え直さねばならない。これだけは覚えておいてくれたまえよ」


 釘を刺すように、あるいは手綱を握り直すように、諜報官の男は言った。


「そりゃあ、あなたたちはこの国じゃなくて、あなたたちの国の利益のために動いているんだから当然だろうね」


 アリシアはこの異国の諜報官の厳しい言葉も、平然として受け流す。所詮は、利害関係の一致による協力である。

 彼女とヴェナリア執政府情報調査局との関係は、アリシアが魔術の訓練のためにヴェナリア共和国に送り込まれた時に始まる。

 元々、情報調査局は亡命ロンダリア人の中から工作員を養成するなどして、ロンダリア国内に存在する共和主義者たちの反政府活動を支援していた。反政府組織に対する武器の密輸などにも手を貸している。

 アリシアがヴェナリアに渡ったのも、彼女が同志としていた活動家と情報調査局が協力関係にあったからだ。彼女はヴェナリアで魔術の修行をすると共に、情報調査局との関係を築いていった。

 しかし、その関係が所詮は利害関係の一致であるということは忘れていない。協力関係にあるとはいえヴェナリア人は他国の人間であり、革命政権を樹立出来たとしても、それがヴェナリアの傀儡政府では意味がない。

 とはいえ、反政府組織自体にも問題があることを、アリシアは知っている。人材の不足、資金の不足、そして何よりも指導者の不足である。

 強力な指導者がいないために、ロンダリア国内の革命運動はルーシー帝国において行われていた革命運動ほどには過激でなく、また統一されたものではない。各地に独立した組織が乱立し、それが個別に爆弾闘争や暗殺などを行っているのが現状である。また、共和主義に共産主義、無政府主義と、主義主張も一定しない。

 そのために、組織内での主導権争い、派閥抗争、それに基づく密告によって、革命運動は運動家たちが互いに足を引っ張り合っている状況である。

 だからこそ、アリシアは組織を見限り、個人的活動に移行することにした。組織とは別に、爆薬の手配を行ったのはそのためだ。

魔術で偽装した拠点がリュシアン・エスタークスに発見されたのは、その良い機会だったのだ。


「でも、まだあなたたちは私との利害関係を共有している。そう考えて問題ないよね?」


「ああ、我々の利害は一致している。今後とも、なるべく良好な関係を維持していきたいものだな」


 どこまでが本心なのかを相手に悟らせない口調で、オリアーニ大佐は答えた。アリシアはただ、無邪気そうな安心した微笑みを浮かべるだけだった。

 その笑みの裏側にある感情を思い、大佐はこの魔女の扱いの難しさに嘆息したくなった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 双眼鏡に、夜更けの街並みが映し出されている。

 ロンダリア連合王国で最も発展している都市である王都は、真夜中であってもガス灯の光に照らされており、光源には事欠かない。だから、暗視の術などを使わずとも、アリシアの動向をリュシアンは監視することが出来た。

 そして、地下室内部での会話はすべてリュシアンの忍ばせた盗聴用の呪符によって筒抜けであった。


「ダイナマイト、か……」


 建物の屋根の上で体を伏せた状態で双眼鏡を構えているリュシアンは、小さく呟いた。

 盗聴出来たはいいものの、結局、アリシア・ハーヴェイがどのように議事堂を爆破するのかは判らずじまいである。そもそも、本気で彼女が議事堂爆破を狙っているのかも不明確である。

 彼女は単独で行動している節がある。彼女の所属する反政府組織、そしてヴェナリア執政府情報調査局も、アリシアという一人の魔女に振り回されているのではないか。

 そのような印象を受けるのだ。

 だとしたら、彼女の言う議事堂爆破計画も周囲を欺くための偽の計画と見ることも出来る。

 だが、もし議事堂以外の標的を爆破すれば、それは協力関係にあるヴェナリアの情報機関を裏切ったことになってしまう。ダイナマイトという高性能爆薬を用意出来るほどの協力相手を、そう簡単に欺くのは得策ではない。

 アリシア・ハーヴェイとしても、ヴェナリアとの関係は維持したいはずだ。

 やはり、あの魔女の狙いは議事堂の爆破か。

 双眼鏡で料理店を監視しているが、地上では目立った動きはない。恐らく、地下水道を経由して拠点に出入りしているのだろう。アリシアも、恐らくそこから出てくるはずだ。

 そっと、リュシアンは屋根から地上へと飛び降りた。

 人通りのほとんどない裏道を通って、ある程度、料理店から距離を取る。


「……准将、アリシア・ハーヴェイが爆薬を受け取ったよ」


 喉元に取り付けた水晶球の通信霊装を抑えながら、リュシアンは言った。


『ふむ、取引現場に手出ししておらんだろうな?』


 念を押すような口調で、ファーガソンから返答があった。


「出してないけど……、放置は危険じゃないの?」


 リュシアンは少し不満そうな口調で応じた。


『我々が情報調査局の拠点を盗聴し、奴らの動向を掴んでいることを今の段階で知られるわけにはいかんのだ』


「国会議事堂が爆破される方が、もっとまずいと思うけど?」


『そちらは、お前さんと姫殿下で対応するのだろう?』


「水際で阻止するよりも、余裕を持って阻止した方が安全じゃないの?」


『儂はお前さんの能力を信用しているのだ』


「都合のいい言葉だね、准将」


 ファーガソンのその言葉を、素直に信じるリュシアンではない。

 要するにこの諜報組織の長は、他国の諜報機関に対する優位性を保つことを優先したわけである。その結果、国会議事堂が爆破されても良いと考えているわけではないだろうが、彼の中での優先順位ではそのような結果になったのだ。

 恐らく、議事堂の爆破も阻止出来ると考えての判断に違いない。

 功績をエルフリードに譲ると言いながら、リュシアンを利用して組織としての利益を上げることには余念がないわけである。

 ファーガソンは組織利益のためにエルフリードとリュシアンを利用しており、そしてそのことをリュシアン自身も判っていた。盗聴の結果、アリシア・ハーヴェイと情報調査局が利害関係にあることを知ったが、こちらもこちらでリュシアンとファーガソンは利害関係にあるのだ。

 正直なところ、リュシアンとしてはアリシアを素早く仕留めてしまいたい。エルフリードのためにも。


「……追跡だけはさせてもらうよ」


『了解だ。精々、気付かれんように注意しろ。ああそれと……』


 通信霊装の向こうで、ファーガソンが意地悪そうに嗤った気がした。


『お前さんの独断でヴェナリアの諜報員を始末したとしても、儂らは事後処理など行わんからな』


「……姫があんたを嫌う理由がよく判る言葉だね」


 ぞっとするほど冷たく抑揚のない声で応じて、リュシアンは通信を切った。

 要するに、リュシアンがファーガソンの意に反する行動を取らないよう釘を刺されたわけである。


「……」


 フードの下で、リュシアンはしばし思案顔になる。

 このままアリシアを追跡して、彼女を始末してしまおうかとも思う。ただ、不安要素もある。あの魔女は魔術師としてそれなりの技量を持っている。魔術戦となれば、確実に仕留めるためにリュシアンも自らの手を晒さなければならなくなる。

 ヴェナリアの諜報機関は、恐らく彼女を監視しているだろう。そうなれば、ヴェナリアという国家に自分の魔術師としての特性が知られてしまうことになる。

 それは、今後のためにも避けなければならない。自分は“死神”でなくてはならないのだ。その不気味な二つ名こそが、エルフリードを守るために敵対勢力を牽制する武器となる。

 アリシア・ハーヴェイを始末することと、自身の手の内をヴェナリアに晒さないようにすること。

そして、アリシアとの魔術戦にヴェナリアの諜報機関が介入してくれば、彼女を取り逃がしてしまう恐れもある。

 となれば、先にヴェナリアの諜報機関を壊滅させた方がいい。


「……」


 リュシアンは腰に差した二振りの短剣の柄を撫でた。

 ファーガソンに牽制された、ヴェナリアの諜報拠点の壊滅。しかし、ぼや騒ぎくらいは起こしてやろうかとも考える。それでヴェナリア側の警戒心を呼び起こせば、当分は慎重な行動をとるようになるだろう。あからさまにロンダリアの反政府組織を支援することは難しくなるに違いない。

 あるいは、彼らがダイナマイトを確保するために利用した商会を探って、クラリスに情報を流すのもいいかもしれない。

 ファーガソンから直接的な手出しをすることについては牽制されたが、間接的ならば問題ないだろう。

 そうなると、やはりクラリスたち王都警視庁に手柄を立てさせるべきだろう。ファーガソンにとっては不愉快な結果になるだろうが、王都でのヴェナリア諜報機関の跳梁跋扈は阻止すべきだ。


「……ほんと、嫌になるね」


 ぼそりと、リュシアンは呟いた。

 ただアリシアらの陰謀を阻止するだけでなく、自分とエルフリードという存在も含めたロンダリア国内の政治勢力のパワーバランスも考えなければならないとは。

 自分はこんなことをするために、魔術師になったのだろうか……。

 かつての自分とエルフリードとの約束を思い出して、リュシアンは一人、寂しげに自嘲した。






 リュシアンがエスタークス家の町屋敷へと帰ったのは、前回と同じく、日付が変わった後だった。すでに時計の針は深夜二時を回っている。

 今日はちゃんと寝ていてくれているだろうか、と思いながら、なるべく音を立てないように屋敷の廊下を進む。だが、使用人一人いないために静まりかえっているはずの屋敷の中から呻き声が聞こえてきたことで、その行為をあっさり放棄した。

 リュシアンは足早にエルフリードの眠る寝室へと向かう。


「……うぁ……くっ……」


 荒い息づかいの合間で、堪えるような呻きが漏れている。


「エル!」


 リュシアンは勢いよく寝室の扉を開けた。

 寝台の上で、エルフリードは体を横に向けてシーツをきつく握りしめていた。何度も握り直していたのか、シーツが乱れ、一部が寝台から剥がれている。


「……ぁ……うぅ……」


 エルフリードはリュシアンに気付いた様子もなく、時折苦悶するように体の向きを変えながら呻いていた。


「エル!」


 駆け寄った寝台の傍らにしゃがみ、リュシアンが肩を揺する。熱に浮かされるようにぼんやりとしていた目が、白髪の少年魔術師の姿を映していた。


「……リュ、シアン……?」


 目の焦点が合い、それが誰なのかが判ったらしいエルフリードが苦痛の合間に名前を呼ぶ。


「ごめん。俺が傍にいなかったから……」


 リュシアンはそっと唇を噛んだ。

 密告者の存在がアリシアに露見し、強化されてしまったエルフリードの呪詛。それに対する守護の術式をエルフリードに掛けた上でリュシアンは屋敷を出たのだが、それは同時に呪詛の術式そのものの変化や、それによる体調の変化にその場で対応出来なくことも意味していた。

そうなれば、当然エルフリードは新たな苦痛に襲われるのだ。

 寝台を囲む魔法陣も、彼女自身にかけられた守護の術も、呪詛の術式が変化してしまえば効果は薄れてしまう。


「……ぐっ……あやまるでない、と言ったはずだ」


 睨むような目付きで、エルフリードはリュシアンを見上げた。


「……」


 謝ることを禁じられたリュシアンは、何を言うべきか迷い、困ったような表情になる。彼はエルフリードの額に手を伸ばし、そっと手の平を置く。


「少し、発熱しているね」


「うむ……」


 体を横に向けたままのエルフリードが、弱々しく頷く。


「ちょっと起き上がってくれる?」


「ああ」


 ひどく緩慢な動作で、手を支えにしてエルフリードは上半身を起こそうとする。リュシアンが手を添えてそれを支えた。


「手当をするから、ごめんね」


 そう言って、リュシアンはエルフリードの夜着に手をかけた。エルフリードも特に逆らわず、自らの上半身を少年の前に晒す。

 未だ、少女の体は呪詛による赤い紋様の線に囚われている。その毒々しさは、先日と変わりがない。


「そのまま、体を倒して」


「うむ……」


 自身の薄い胸を晒すことに若干の気恥ずかしさを覚えつつ、エルフリードはリュシアンに支えられながら寝台に身を委ねた。

 一方のリュシアンは腰の短剣を抜くと、己の人差し指の皮膚を裂いた。じんわりと、指の先に血の玉が出来る。その指先を、先日エルフリードの胸に刻んだ魔法陣に重ねるように走らせていく。


「んっ……」


 いささかのくすぐったさを感じ、エルフリードが小さく声を上げる。

 リュシアンは真剣な表情で、己の血で魔法陣を重ね書きしていく。その作業の間、彼は一言も発することはなかった。


「……どう、痛みの方は?」


 やがて術式の強化が終わり、リュシアンは案ずるように尋ねた。


「先ほどよりは……」


「まだマシってところ?」


「うむ」


 長く言葉を発することも辛そうで、エルフリードの言葉は少なかった。


「術式が定着すればだいぶ痛みは緩和されるはずだけど……」


 このままでは、痛みで今夜は眠れないだろう。睡眠不足で体力を消耗すれば、それだけ呪詛への耐性も低下してしまう。

 何より、エルフリードには陸軍大学があるのだ。


「ちょっと、また体を起こしてくれる?」


「判った」


 今度もリュシアンに支えられながら、エルフリードは裸のままの上体を寝台の上に起こす。彼女の背中側に回るように、リュシアンが寝台に腰を降ろした。


「髪の毛、前に回してもらえる?」


「うむ」


 エルフリードの黒髪は長い。背中にかかる艶のある髪を、彼女は肩に回して胸の前に集めた。

 そうして露わになった少女の背中、その真ん中あたりにリュシアンは手の平を触れさせた。一度息を深く吸い、目を閉じる。

 体内に流れる魔力の流れをエルフリードに触れた手に集める心象(イメージ)を描きながら、息を吐いて目を開ける。その時にはもう、この年若い魔術師の瞳は妖しく虹に光っていた。


「……温かい、な」


 ほうと息を吐きながら、エルフリードが呟いた。

 リュシアンの手から魔力が体に流れ込み、呪詛の苦痛を和らげているのだ。初歩的な癒やしの魔術だった。


「……話しかけても大丈夫か?」


 リュシアンの集中力を乱さないかとの不安から、すこし躊躇いがちにエルフリードは訊いた。


「ん? 大丈夫。いいよ」


「議事堂爆破の件、どういう状況になっているのか教えてくれ」


 痛みが和らいでいるのか、エルフリードの口調から淀みがなくなっていた。

 手の平から魔力を流し込みつつ、リュシアンは語った。

 アリシアやヴェナリア執政府情報調査局の動向、そしてヴェナリア情報調査局の暗躍と組織利益を重視するファーガソン。


「……気に入らんな」


 すべてを聞き終えたエルフリードは低く唸る。


「なぜ、私とお前があの狐めの目論見に乗ってやらねばならんのだ? ヴェナリアの諜報組織に対する優位性、それを確保したいのは理解出来る。だが、それは国家として優位性を保つべきであって、一組織の利益のために行うべきではない」


 個人的な嫌悪の感情もあって、エルフリードの声は厳しかった。


「そうだね」リュシアンは同意した。「ただ、どこに内通者がいるか判らないから、こっちがヴェナリア情報調査局の拠点を盗聴出来ていることは秘密にする必要はあるだろうけど」


「ならば、せめて大臣級の人間には情報を共有すべきであろうに」


 ふん、とエルフリードは鼻を鳴らす。

 そこで不意に、このロンダリアの王女はにやぁと嗤った。悪巧みを思いついた人間特有の、邪悪さを湛えた笑み。


「そうか、大臣。その手があったな」にぃと嗤った表情のまま、エルフリードはリュシアンの方へ振り返る。「お前の伯父、モンフォート外相を利用させてもらうぞ」


「どうするの?」


「お前の得意分野は魔術。そして、私の得意分野は軍事と政治だ。私もようやく、お前の役に立てそうだぞ」


「もう十分助けられているよ」


「私が納得していないのだ」


 むぅ、とむくれたようにエルフリードは言う。その年相応ともいえる感情の発露は、普段の彼女を見ているだけに、リュシアンには少しおかしかった。


「明日、私が陸大に行っている間、お前には外相への言伝を頼みたい。何、ファーガソンとヴェナリア、その双方にちょっとした嫌がらせをしてやろうというだけだ」






 エルフリードは寝台の上で、落ち着いた寝息を立てていた。

 癒やしの魔術もかけ終わり、さらに魔力の込められたリュシアンの血で作られた錠剤を呑み込ませて、エルフリードの体内に一定時間、癒やしの効果が続くようにしてある。

 同じ寝台に横になりながら、リュシアンは王女たる少女の寝顔を眺めていた。彼女の寝顔には、苦痛を感じさせるものは何もない。そのことに、リュシアンはほっとする。

 白いシーツの上に、エルフリードの長く艶やかな黒髪が広がっている。白と黒との、対比。

 世界に色彩を見出せなくなってしまったリュシアンにとって、それは“色のある”黒だった。モノクロでない、鮮やかな“黒”。

 おずおずとした動作で、少年の手がその黒に触れる。そして、ガラス細工を扱うかのような丁寧な手つきで、眠っているエルフリードの髪を梳いていく。指に絡まることなく流れていく、癖のない黒髪。

 跳ねっ気のある髪を気にしていた幼い頃の自分。今ではもう、色を失おうと、艶を失おうと、ましてや跳ね返っていようが、特に頓着することはない。エルフリードの髪も、特に羨ましいと思うこともない。

 でも、“綺麗だ”とは思ってしまう。

 さらり、さらりと、リュシアンは意味もなくエルフリードの髪を梳いていく。


「……」


 彼女の寝顔を見つめる赤い瞳は、遠ざかっていく景色を儚げに眺めるような切ない感情を湛えていた。

 普段の険が取れ、年相応の少女のような寝顔を見せるエルフリード。

 本当は、周囲を敵視してばかりだった少女に笑って欲しかった、ただそれだけが自分の願いだったはずなのだ。

 両手を血に染めて、その願いを自ら踏みにじってしまった自分。そして、そんな自分をこそ望んでいたエルフリード。

 二人の願いはあまりにも乖離していて、それでも互いを求めることを止められない自分たち。


「……でも俺は、エルと出逢えたことを後悔したことはないよ」


 それだけは、彼女と出逢った時から変わらず自身の中に宿る想い。

 だからこそ、彼女はこの“モノクロ”の世界で色を持っているのかもしれない。


「これも、魔術的に見れば一種の呪いなんだよね……」


 術式などを使わずとも、それでも人を縛るもの。それらは広義の意味での呪いだ。

 そしてその呪いを、リュシアンは解こうとは思わなかった。いずれ少女にかけられた呪いが、我が身を喰い殺すのだとしても。

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