第34話 調べを律する者

 ある日、元ピアニストの松子34歳は不意に立ち寄った楽器店にいた。


 ピアノを買うわけでもなく、現役だった頃の感覚が鈍っていないかの確認をしようと、販売用にディスプレイされた一台のピアノの前に座り、試奏しようとした。


 鍵盤の上に指を添えると、かすかに横へ振れるあそびと、ペダルのしなやかさが自分の好みだと瞬時に感じ取った松子。簡単なコード進行を弾こうと思っていたが、思わず本意気の演奏をしてしまった。


   ショパン・革命のエチュード


 ファーストタッチの打鍵だけで鍵盤の深さや返し、音の響きやまとまり具合から、超一流の調律師によるものだと感じ取った松子。長らく忘れていた音を出すという楽しい感覚に夢中となった。


 演奏が終わると、まだそこにある音の余韻に酔いしれる自分に驚きと喜びを感じた。目を閉じてこの感覚が残るうちに、なぜ自分は引退してしまったのか考え込んだ。最大の理由は、観客に満足してもらうだけの演奏ができなくなったからだ。しかし、今弾いた感じは現役の頃と変わりなく表現できている。なぜだ。なぜだ。

 自分でも分からないまま目を開けると、一人の男性が松子を見つめてほほ笑んでいた。松子は一瞬驚くも、見覚えのある顔だと思い出した。彼は松子が現役時代の専属調律師だった男だ。


 当時、全てのコンサートへ付き添い、松子が弾くピアノの調律をしていたが、ウイルス性疾患により耳が聞こえなくなってしまう難聴障害となり、いつの間にか松子の前から姿を消していた。


 そんな彼がなぜ楽器店のエプロンを付けてここにいるのかと松子が聞いた。


「イカロスという財団の不思議な力で僕の難聴が治って、今はここで働いているんだ。そのピアノ、僕が調律したんだ。どうかな?」


 松子は今まで自分の技量が落ちたせいで、満足できる演奏ができなくなったと考えていたが、今はっきりとわかった。


 演奏曲やホールの響きに合わせて、時には華やかさや色気のある艶っぽい音色を、時にはゾクゾクし心を震わせるスリリングな音色を作り上げていた彼が何より大切な存在であったと。さらにはどんな人のクセにも合うよう、極上の調整をほどこす技術に、松子の眠っていた演奏家としての資質を呼び覚ました。


 松子はその場で現役復帰を宣言し、彼に専属調律師になってほしいとオファーしたのであった。

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