第1話 楽器と奏者の記憶

 ある日、バイオリニストの里菜りな30歳は海馬付近に巨大な腫瘍ができ、脊椎にまで広がり投薬治療が効かず、手術もできず、手のしびれも出始めて余命わずかと宣告されていた。既に両親は他界していて、姉妹もおらず結婚もせず音楽一筋で生きてきた里菜にとって、財産の全てをかけて購入し、長年愛用してきたストラディバリウスは家族のような存在であった。バイオリン界の中でも最高峰の音色と金額といわれるストラディバリウスは、自分の死後、棺桶に入れてもらい、共に旅立ちたいと考えた時期もあったが、名器の歴史的価値も知っていたため、次の音楽家のために手放すこととした。そして、バイオリンをオークションに出品すると、高値で落札された。高額の現金を相続してくれる親族がいない里菜は、社会貢献として、落札金額全額で様々な楽器を購入し、全国の児童施設へ生前遺贈をするのであった。


 その翌日、以前応募していた「どんな病も治してくれる」というタッチの抽選枠に当選したことを知らされた。里菜は喜んだが、困ったことが起こると分かった。それは、タッチによって巨大な脳腫瘍を取り除くと、頭の中のバランスが崩れ、短期の記憶が喪失する可能性があると医者から告げられたのだ。つまり、バイオリニストとして再起を果たせる力は戻るが、最近自分で決めた寄付のことを忘れて、ともに歩んできた愛器のストラディバリウスに触れることができないということだ。

 里菜は悩んでも仕方がないと思い、もう一度一から頑張ろうと考え、タッチを受けることとした。


 タッチ当日、一人の青年が里菜の前に現れ、怖いことはないと優しく手を握ってきた。しばらくすると、里菜の体調がよくなり手のしびれもなくなって、検査してみると腫瘍はきれいに消えていたが、やはり短期の記憶も消えていた。

 健康体に戻った里菜は、自ら愛器のバイオリンを手放して寄付してしまったことを周囲の人から聞かされても納得できず、生きる目標を失い悲しみ、生活は荒れていった。そこへ、里菜宛てに小包が届いた。差出人はタッチ前の自分で、中身はスマホだった。保存されていたファイルを見てみるとそれは、自分からのメッセージ動画だった。


「私は今から不思議な力で死の淵から蘇るらしいわ。でも、最近の記憶が消えると言われたから未来の私にメッセージを残すわ。

 なんだか不思議な気分ね。だってそうでしょ?今この瞬間の私はいなくなるってことなんだもん。まあそんなことは悩んでも仕方ないわね。

 私の事だから、あの子(バイオリン)を手放したことに苦悩している事でしょう。でもそれは私が決めた事。自分の人生が終わると分かったら、あなたもきっとそうしたはず。あの子は旅の途中だったのよ。間違いなくあの子の記憶の中にあなたが刻まれたはず。あなたが音楽家を続けてさえいれば、きっとまた会える。どうかわたしを信じて。あなたの事を一番知っているのは私よ。あなたなら乗り越えられるわ。

 聴衆を魅了する新しい音は、まだ誰もしたことのない体験から生まれるのよ。」


 過去の自分から激励を受けた里菜は、またあの名器と出会いたいという生きる目標ができ、再起を決意した。

 それから里菜は、楽器を寄付した児童施設の子供たちと共に復活コンサートを開いた。満員の観客を魅了する演奏を披露し、共に拍手を浴びている子供たちの笑顔を目にすると、楽器にこだわるあまり音楽本来の楽しみ方を忘れていたことを思い出した。

 里菜は、過去の自分に感謝すると同時に、音楽家としてまた一歩成長できた喜びを感じていた。

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