雲上タッチ

団 田 図

プロローグ

 その男、淳史(27)が右手をかざすと、苦悶に歪んでいた富豪の表情が、安らかな寝顔へと変わっていった。

「……終わったよ、姉さん」

 淳史がマイク越しにそう告げると、マジックミラーの向こうから、どこか安堵したような、温かい声が返ってきた。

『お疲れ様、淳史。大丈夫? 無理してない?』

「これくらい、平気だよ」


 淳史には不思議な力がある。後天的な病や怪我ならば、触れるだけで完治させることができる奇跡の力――『タッチ』だ。

 だが、その力があまりに強大すぎるがゆえに、世界は彼を放っておかない。

 だから姉の真千子(32)は、弟を守るために城を築いた。それが「公益財団法人イカロス」だ。


『今日の「金曜オークション」枠はこれで終了。……嫌な役回りをさせてごめんね』

「謝らないでよ。この資金があるから、平日の無料枠が維持できるんだ」

 表向きには「一日一名限定」としているが、淳史が全力を出せば三人は治せる。しかし、それを知るのは二人だけだ。

 姉は淳史の顔も名前も公表せず、財団の名簿にも載せないことで、彼を世間の好奇の目から徹底的に隠し通している。


 月曜から木曜は、抽選で選ばれた人々を無料で救う。これが二人のやりたかったこと。

 金曜と土曜は、富豪や政治家を相手にする「汚れ仕事」。これは、財団を守り、外圧を跳ね返すために姉が一手に引き受けている「盾」だ。


 設立から三年。当初は「インチキだ」という罵倒も、「独占するな」という圧力も凄まじかったはずだ。けれど真千子は、その全てを笑顔と冷徹な計算でさばき、淳史には指一本触れさせなかった。

 この平穏な治療室は、姉が戦って勝ち取った場所なのだ。


『明日は日曜日よ。ゆっくり羽を伸ばしていらっしゃい』

「うん、行かせてもらうよ」

 

 日曜日は、淳史だけの休日だ。

 ポケットの中の動物園の年間パスポートを握りしめる。

 そこは、彼が「神の手を持つ男」ではなく、ただの動物好きな青年「淳史」に戻れる場所。姉が必死に守り抜いてくれている、ささやかで大切な聖域だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る