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 西国分寺のアパートに戻った土井はベッドの上で仰向けになり、ただボンヤリと天井を見詰めていた。敷きっ放しの布団は若干の湿り気を帯び、これから始まる梅雨の前に、一度くらいは乾燥させておく必要が有りそうだ。

 しかし彼の頭の中を占めていたのは、生活環境の改善や衛生状態のことではなく、ましてやカビの生えそうな布団のことなどでもなく、昼間見た光景だったのだ。


 大学を卒業後も彼は、同期生の仲間たちとバンド活動を続け、華々しいメジャーデビューを夢見て頑張ってきた。この東京に数多あまたあるアマチュアバンドの中から頭一つ抜け出すために、食費を切り詰め、複数のバイトを掛け持ちし、日々、練習や楽曲づくり、そしてライブハウスでの演奏に取り組んで来たのだ。

 しかし、そんな苦境を乗り越える精神力は、それ程長くは続かない。そんな生活を続けるためには、若さというエネルギー源がどうしても必要だ。そしてそれは、決して補充の利かない、消費するだけの一方通行なのだ。


 夢こそがエネルギー源だって?


 そんなのは嘘っぱちだ。夢とは、若さ由来の活力を食い潰す怪物なのだ。それを飼い慣らすことをと言い、そのすべを覚えなかった者はいつしか逆に、そいつに飲み込まれてしまう。そして、若さの枯渇という耐え難い事実によって、その現実を知る。

 そんな当たり前のことに気付くのに、大学卒業から七年の歳月を必要とした。その真理に気付いた時、彼らは既に二十九歳になっていた。その頃には、誰からともなくバンド活動の終焉が持ち出され、驚いたことに ──いや、驚くには値しないかもしれない── 誰一人として異議を唱える者は現れなかった。

 そう、彼らは皆、突き付けられた現実を糧とし、少しだけになったのだ。そうやって永遠に続くかに思われた夢の舞台は、突然、序章半ばにして音も無く幕を閉じたのだった。


 あれから既に三年の月日が流れていた。


 気付くと土井は、ベッドの上でスマホを操作していた。そこに開かれたブラウザには、「Fragrance」の検索ワードでヒットしたWebサイトが開かれている。彼はスマホを覗き込んだままゴロンとうつ伏せの体勢になり、枕を胸の下に挟み込んでサイトの文字を追った。


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Fragrance(フレグランス)は、仙台出身の女性ポップユニット。メンバーはYUKINA、LUNA、MANAKA、RAYの四人。プロデューサーは田中康郎。


ローカルな女性アイドルグループとしての下積みを経て、2009年に東京進出。その後に大ブレイクを果たし、以降、コアな固定ファンを持ち現在に至る。EDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)をベースとした独特の音楽性が特徴的で、海外にも多くのファンを獲得。


芸能事務所:アドレナリン所属。

レコードレーベル:Fragrance Records。

公式ファンクラブ:FTC。


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 Web記事を読み終えた土井は、そのまま同じ姿勢を保ち続けていたが、その目は既にスマホを見てはいなかった。その先の、もっと遠くに有る何かに焦点が結ばれているようだ。

 彼の視線の中にあったもの。それは、無茶苦茶に押し込まれた段ボールの中で、キラ星のように瞬いていた光たちだ。その姿が鮮やかな残像となり、彼の網膜から消え去ることを拒み続けている。

 ブラウザを閉じた土井は、引き続き幾つかの操作を行った後、今度はスマホを耳に当てる。二回目のコールの途中で、相手が電話に出た。

 『おぉ、土井か? 久し振りじゃん。どうした? 何か用か?』

 「あぁ、久し振り。どう? 元気にしてる?」

 兼安あつし。土井のバンド仲間だった男だ。

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