【第3章】文月の章(文月18歳 秋10月)

第13話 なぜ、ここに?

【文月が戸和の滝に落ちてから、数週間が過ぎた】


 不可思議な体験だった。赤竜と白銀竜、赤く長い髪に彫の深い顔。ありえない記憶は鮮明だが、何かを見間違えているという、確信はあった。


 しかしその何かが、わからない。戸和の滝にも、何度か行き、文月は見たものを、もう一度見たいと探していた。


 滝の周囲を歩き回ると、文月が薬草採取の際に身に着けていた、ハサミや鎌などが入った林業用の腰袋を滝横の岩陰で見つけた。


 それは落ちていたと言うのではなく、簡単に、目につかないが、探そうとすると、すぐに目の付く滝横の岩場に置かれてあった。


 もう一つ。いつも持ち歩いていた、銀の粧刀チャンドも一緒におかれていた「なぜ、ここに」うぶすな神が持つアイテムだが、いつ失くしていたのかもわからない。


 文月は拾った粧刀チャンドを長く見つめていた。手元に戻って来た事に不快感があった。『そうだ、どうせ失くした事にも気が付かなかったのだから、このまま、滝に捨ててしまおう』


 粧刀チャンドを持って腕をグルグル回し滝に投げようとして、ふと、足元でジッと文月を見ているタヌキと目線があった。


『タヌキ?なに?なんでこっちを見ているのよ』先に目線をそらすのは、どうも性に会わない文月は、タヌキとにらめっこになってしまった。しかし、中々タヌキが目をそらそうとしない。


『こいつ、夜行性で臆病なタヌキのくせして生意気な』文月は追い払おうと「シッシ」声を出しても、タヌキは目線をそらさず、足元から動かない。


 生まれてから十八年間の中でこんな経験は初めてだ「負けました」とうとう根負けした文月は、粧刀チャンドをレインコートの内ポケットにしまうと、タヌキに挨拶して退散した。


 拾い物が、自分以外の何者かがいたことの手がかりのような気がして、それから毎朝、薬草採りと称して戸和の滝に出かけた。



【さつきは】


 文月が、日の出二時間前に出かけると、ダイニングキッチンの椅子に膝を抱えて座り込んだ。さつきは、文月の変化に気が付いて不安に駆られていた。


「今日は、付いて行かないのか?」おじい様がさつきに聞いた。

「別に…」さつきは無愛想に答えた。


 幼い頃から、おかあ様とおねえ様が薬草採りに行くと一人で留守番になる。ダイニングキッチンの窓からは、おかあ様たちが帰って来る裏道が見える。


 二人が出かけるとダイニングキッチンの椅子に膝を抱えて座り込み、帰って来るまで微動にせず待っているのだ。


 さつきが十歳の時におかあ様が失踪した。その時はその場所を動かずに一週間ほどおかあ様を待っていたが、おねえ様の「私がいる」という言葉に待つのをやめた。


 笑いあう事もない姉弟である。姉はいつも伏し目がちである。淡々として優しい言葉などかけてもらったことがない。その時も、曇りガラスのように冷たく、心のこもらない声だった。


 それでもおじい様がいなくなれば、さつきには、おねえ様しかいないのである。おかあ様がいなくなって、それからはひたすら、おねえ様を待ち続けるさつきだ。


 そのさつきも中学生になると棟梁修業が始まった。藤代家が所有する温泉施設と自分が相続する十二の山のうち、ただひとつの山を除き十一の山の管理をしなければならない。


 文月に気が付かれないように、後をつけて薬草の場所も把握する。暇さえあれば、山に入り隅々まで把握するのが棟梁の仕事だ。


 さつきは、自分に相続される山であるものの、正直、面倒だし興味もない。最近では迷彩服を購入し、一人サバイバルゲームをやり始めた。


 一緒にやってくれる友人もいない。藤代家は集落では特別な存在で、藤代家の人間も集落の人間には近づかない。

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