第5話 思惟が読めない

 自然の摂理の中での命の消滅は、他のものの命となることを知っているので悲しむ事も喜ぶ事もない。



【日向達はただ、命は命で成り立っているとしか考えない】


『繕いをしようか?』

『白イワナの歯には触っていないし、大きな怪我をしてないみたい』

『滝から落ちて来たのに?』


『気を失っていたのかしら?体に力を入れないで流れに身を任せると、あまり大きな怪我にはならないけど』

『どんな状態だったのかな?思惟が読めないぜ』

 その事に琴絵ママンも気が付いていた。

『今日は車で来ているから、様子をみて送って行くから安心しなさい。日向、偉かったね』


 その琴絵ママンの褒め言葉に、日向はにっこりと嬉しそうに幼子のような笑顔が洩れた。日向は、素直にそのまま滝壺の底に向かって深くもぐった。滝底には、ハサミや鎌などが入った林業用の腰袋が沈んでいた。


 日向の体質は通電性のあるものを嫌う。体調を左右しかねないために極力避けている。水中に入れておくのはもってのほかだ。


「あの子の物かな?すごいやつを持っているな。ここまで深く沈むとダイビング機材がないと拾えないな」つぶやくと拾い上げ、滝横の岩陰に置いた。


「それにしても、目の大きい子だった」水中で日向を見上げた顔を思い出していた。



【文月が】


 落ち着きを取り戻し、気が付くと自分以外に誰もいない。空を見上げると、グラデーションは姿を消し、くすんだ朝陽色にチェンジしていた。


 腰につけていたはずの、薬草取り用のハサミ・鎌の道具一式が、なくなっている。時計を見る。ここから、うえの駐車場に戻り車で家に帰ると、山を二つ越えるので遠回りになる。一時間はかかる。


 しかし、道なき道を山越えすれば、平坦なコースで三十分だ。『時間がないから歩くか、いや寒いから、走るかな?』濡れた体は凍えている「今日は雨となるや」ひとり言で自分の存在を確認し、呼吸が整うと考える余裕もなく帰宅を急いだ。



【まだ九月とはいえ山の朝方は冷える】


 ずぶ濡れのまま速足で歩いたが、自宅に辿り着いたものの冷え切った体はバスタオルで包んでも、震えがとまらない。その様子を見た弟のさつきが近づいてきた。


「おねえ様はなにをやっているのさ、車は?」弟も監視者の一人で将来の棟梁候補である。薬草採りでトラブルが発生すると、わずかなひとりの自由な時間がなくなる。


「なにもない」文月はそっけなく答えると、おじい様に気取られないように、湯を沸かし、着替えと共に洗面所に持ち込んだ。洗面所の曇った鏡に、裸体の文月が映った。いつもと変わらないはずの首筋には、赤く筋が入った跡がついていた。


 しばらく、文月はその赤い跡を気が抜けたようにうつろに眺めていたが『やはり、誰かいた』そう、思いが至った瞬間に、鏡の曇りを手で拭き取った。キュ、キュと音がして、赤い首筋の跡がはっきりと見えた。


 その音が、起るはずのない信じられない記憶を、文月に鮮明に思い出させ、凍える風が身に突き刺さるように、文月に刻まれていった。思わず、身震いが走った「慎重にせねば」文月は、登校の為に迎えに来た幼馴染の胡桃にも、十分に注意し緊張しながら高校の制服に着替えた。

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