第3話 憂い

 ドクウツギの刈り取りは毎年九月に入ってからの作業だが、山の秋は早いために素足に運動靴で渡れる水温のうちに作業を終わらせたい。一度、深みにはまり川に流されれば、そのまま滝に落ちる可能性もある危険な作業だ。水量の多い時は渡れないし、川底は雨が降るたびに変わる。さらに秋口の大型台風が来れば、川筋が大きく変わってしまう。



【だから、いつも慎重だったはずである】


 なのに…。今日の文月は考え事をしていた。七月生まれの文月は、先々月に十八歳になった。自動車の運転免許も取得をした。普通の三年生の夏は、大学受験や進路の不安で頭がいっぱいのはずである。


 しかし、うぶすな神の文月は、名ばかりの花婿候補と、その恋人との頭が痛い関係が悩ましい。しかも、監視付きの生活は息苦しく、愛想は良いが、日本人形のように冷たい口元には、決して心から微笑まない唇があるだけだ。


 それが、今、川に流されている自分がいる。体は必死に生きる望みを探して動き回っているのに、頭の中では別の冷静な人格が、目に映るものや自身の解説を始めていた。


『うん?タヌキ?か?朝からタヌキか?』

『このまま滝へと向かって落ちて行くのかな』


『滝壺は深めのはずだけど、滝自体はごつごつした岩肌に沿って垂直に落ちている。ハイキングコースから離れているこの滝は、ただでさえ観光客が少ないところだ。夏休みも終わり、平日の朝早くに人がいる事は期待できないよ。このまま流されて落ちたら、頭は割れるだろ、痛いかな?死ぬのかな?でも…。死ねばすべて終わるかも知れない』


 そう思うと不思議な安堵が全身の力を水に溶かし、体は誰かに運ばれているように木の葉のようにゆれ流れた。



【そのころ】


 赤い密着型フェイスプロテクションに赤いスウエットスーツ姿の日向が滝壺の底から上がって来て水面に顔を出した。二つに束ねてある、赤い長い髪を避けながら、赤い密着型フェイスプロテクションのフェイス部分をずらし、ほぼ垂直な崖を見上げ、大げさにため息をつきながら、さも嫌そうに崖にしがみつくように、滝横の岩に登った。


 戸和の一族の男子は遺伝的な異常を持って生まれて来るので、家族が保護している。そのために、世の中で日向の存在を記憶できる人間は、家族以外にはいない。ゆえに、家族だけが話し相手の日向は長身は高く、体格がいい十八歳だが、大人になれずに小中学生並みのうるささだ。


『なんで俺がやるの?滑るのよ、水量も多いよ。落ちたらどうすんだ。泳げないよ』

『泳げないけど、あんたは溺れないから、滝壺に落ちても大丈夫じゃない。毎回飽きもせず同じ文句を言うわね』

『ママン、おかしくない?』


『仕方がないでしょ。山の頂上の方で雨がいっぱい降ったのよ。昨日まで水量が少なくて、タヌキちゃんだって流されたあげく、滝に引っかかるなんて思わなかったのだから』


『なにを引っかけたのよ。なんかの死骸だったら嫌だな』

『あんただって、滝が汚れたら嫌でしょ。日向以外に掃除する人はいないのよ』

『白イワナを湧水路から呼べばいいだろ、生きたタヌキもみんな食っちゃうぞ~』

『日向!騒いでいると落ちるわよ』

『わかっているよ、なんかの死骸だったらカラスにやるからな、タヌ公覚悟しておけよ!』

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